第5話 ねー、だから言ったじゃん

「本当にさー。あいつって、鈍すぎると思わない!?あり得ないでしょ。」



小説家兼漫画家の夫の担当の、新しい女編集者に初めて会ってから数日後。周防裕美は、昼間から、缶ビールを飲み干しながら、中高の同級生である本村咲希を相手に、電話越しに愚痴をこぼしている。



「えー、もう本当に、周防お疲れ過ぎる…。何をやってるんだ杉浦あいつは…。若い女のパッド入りのおっぱいボーッと見て本当にさ…。」



「別にさー、私は、男性が本能的に胸を見ちゃうとかは仕方のない事だと思うよ?でもさ、隣に妻がいるわけじゃん?もっと、相手の女と距離を取って欲しかったわ。明が鈍いのは分かってたからこそ、警告してあげたのに信じないしさー。」



「分かるわあー。何で男って、あんなに馬鹿なの?女のアピールなんて、見え見えなのにさ。うちの旦那も、すぐ騙されたし。あんなジャガイモ女にさ。」



 本村は、数年前の自分の旦那の浮気未遂事件を思い出したのか、憎々しげに語る。当時の本村の心労は相当なもので、それを助けたのが、同級生だった明と裕美だった。



 正確に言えば、最初、本村と親友だった明が、本村に泣きつかれた。当時、遅い大学生生活を始めたばかりの明は、“既婚者の友達が、離婚危機”というキャパシティオーバーな問題にまごつく。それによって、急遽、特に本村と仲が良かった訳でもない裕美が、明の手によって召喚され、二人で本村の危機を救ったという訳だ。とは言っても、友人が出来る手助けなど、たかが知れている。



結局の所、明と裕美に出来たのは、本村を励まし、本村の選択を見守る事だけだった。しかし、これがきっかけで、友情が深まった事には変わりない。時たま、三人で飲み会をするようになったりした事で、本村と距離が近くなった裕美は、“明にはお分かりにならない女心”を分かち合う上で最高の友人を得たのである。



「…なんかさー、迷ってるんだけど…聞いてくれない??」



 裕美は、ここ数日、ずっと脳内にあった考えをようやく吐露する構えに入る。こういった場合、男性諸君にとっては、“知らない方が良い女性の密談”が行われるものだ。



「…ん?なになに、どうしたん…?」



裕美の悩ましそうな吐息に応じて、心なしか本村もひそひそ話になる。暫しの沈黙のち、何かを決心したように、裕美は口を開いた。



「…ちょっとさー、心配だから、証拠集めをしようかなって思ってるんだけど、どう思う??」



「…え!いやいや、いくら何でも杉浦が浮気はないんじゃね…?あいつ、くっそ一途じゃん。久しぶりにライン来たかと思ったら、周防の話しかせんよ…?」



「…ん、いや、それは分かってるんだよね。そういう所が信頼出来るから結婚したしさ。ただ、あいつ、馬鹿じゃん?“私が”これだけ注意しろって言ってるのに、冗談だと思って暢気にしてるし。後で女に誤解させるような優しさを出して、“私が”面倒くさい事になりたくないんだよね。それに、あの女、だいぶヤバそう。」



「…あー…。分かる、杉浦、みんなに平等に糞優しいからな…勘違いする女はいると思う。えー、周防も大変だね…。で、どこから始めるの??」



本村の心配そうな声が、心なしか好奇心に満ちた口調に変わる。当然であろう。“他人の不幸は蜜の味”までとはいかなくとも、同級生のゴシップネタは、女性たちにとって幾ばくかの好奇心をそそられるものだ。誰それが離婚した、誰それが結婚した、誰それが浮気された…誰それが不倫の末、略奪結婚をした…。様々な噂が飛び交うのが、女社会というものだ。



「ああ、もう、女のTwitterの裏アカウントは見つけた。」



 裕美は、ビールをごくりと一口飲み干し、パソコンの画面に目をやる。強烈な可愛い子ぶりっ子とメンヘラを散りばめた個性溢れるアカウント。黒いマスクを付けた上目遣いで谷間を寄せている女性の写真が目につく。




「はっっや!!流石だわー、社長~。えーどういう女なのー??見たい見たい!」



 興味とワクワクを隠しきれない本村の反応に気を良くした裕美は、ここ最近の鬱憤を晴らすために、グイとまたビールを煽り、親友にIDを教える。さあ、ここから幕を開けるのは、男子禁制の、女子たちの女子たちによる、女子たちのための“ど正直な泥棒猫品評会”である。



「…えー…。うーん…。え?本当にこの女…?」



本村が困惑の後に、納得いかない気持ちをチラチラと出し始めた。裕美の口元が弛む。この感覚は、女性にしか分からないであろう。それも所謂、“自分の男に手を出した雌猫”を公開処刑するのは、大いに溜飲が下がるというものだ。




「いやー、この女はないわあ。ちょいメンヘラ過ぎん??影丸様狂愛賛歌ってヤバくね?影丸様って、周防の事?」




「違う。それは、明が描いてる漫画のキャラ。ヲタクなんじゃない?」




「へー。はー。声優ならともかく、作者まで崇拝されるもんなんだねー。アイドルなら、プロデューサーが褒められてるようなもんじゃん。」




「…まあ、明の作品が売れてきたって事だから、喜ばしい事ではあるけどさあ。この間なんて、妻の私の前で、胸元パタパタし始めたからね。もう、びっくりしたわ。」



「はあ!?何それ。マジで?!キモっ!スゲー女じゃん‥」



「まずさー、出会い頭から喧嘩を売ってきたからね。」




そう呟けば、不愉快な若さゆえの傲慢さが鼻につくあの女の顔が思い浮かんだ。



「せんせーい、こんにちわー。」


明がドアを開けた途端、強い香水の匂いがそこら中に蔓延し、鼻が敏感な裕美は思わず顔を顰めた。



(何この女。くっっっさ。ナニしに我が家にやって来たんだよ。)



が、そんな裕美には目もくれず、女はこれ見よがしに盛った胸と声を弾ませながら、夫ににじり寄る。この態度には、温厚な裕美もさすがにカチンときたのだ。そして、すぐに分かった。



(この女、パッドを詰めまくっている‥!)



女性の目線から見れば、呆れ返る程に盛りに持った胸は、中身がスカスカの干し葡萄である事を暗示している。


「あれー??今日の先生なんか格好いい!ジャケットも似合いますね~。」


「そう?僕服に興味ないからこれ選んだのは奥さんなんだよねー。だから奥さんのセンスが良いのかもね。」


「へー、そうなんですねー。」



橋本の目がスッと細くなった。上から下までジロジロと明の服を見ている。


「私だったらあー、先生にはタートルネックのセーターとか着て欲しいです~。」


「あー、この人、首が短いからタートルネックは似合いませんよ、着せたことありますけど。」



真横に立っている妻に挨拶もせず、太々しい態度を取る慇懃無礼な編集者に我慢がならなくなった裕美は、思わず妻マウントを食らわしてやったのだった。



「あれー、もしかしてえー、杉浦先生の奥様ですかー?すみませーん、ぜんぜんいらっしゃるのに気づかなくてー!はじめましてえー、先生の『専属』担当になった橋本まどかですー。」



気付かない訳がない距離にいるにも関わらず、誠しとやかに失礼な事を宣う女。しかし、そんな浅はかな女に萎縮するような裕美ではない。



裕美はいつになく、小柄な体を大きく見せるように胸を張り、にこやかに橋本に挨拶をした。



「どうも、初めまして。杉浦の『妻』です。いつも主人がお世話になっております。」




そう、裕美は明の妻なのだ。いくら相手が若い二十代の女だからって、気後れする必要はない。だからこそ、裕美は明の妻として、夫の仕事相手と事を荒立てないように、笑顔を貼り付けながらお相手をした。



最も、唐変木の夫には気付きもしないささやかな水面下マウントを取ったのは秘密である。




実は、裕美は両利きだ。元々は左利きだったのだが、幼い頃に矯正された結果、右手も使える。普段は、多くの人と同じように右手を使う事も多い。しかし、今回ばかりは、この女に我慢ならなかった。かと言って、夫の仕事に横槍を入れるのは忍びない。だからこそ。




「どうぞ。粗茶ですが。」




夫が資料を取りに一時的に離席した瞬間を狙って、裕美はニッコリと微笑みつつ、橋本に左手の薬指の指輪を光らせながら、左手でお茶を注いだ。



この意図は、もれなく、女に速やかに伝わる。



「‥どーも。」



明がいなくなった途端に、塩対応になった女編集者は、口の端を歪めて形ばかりの礼を言うと、裕美が淹れたお茶には手をつけようとすらしなかった。



(スゲー女だわ。取引先の奥さんにこんな態度普通する?)



敵意剥き出しの様子に最早、感心する裕美であった。


そして、それと同時に思ったのである。



(この女は、キケン。)



目には目を、歯には歯を。



自分たちの平和な生活を守るために、裕美は速やかに様々な行動を開始したのであった。




 さて、まずどこから手を付けようか。明が寝静まった後、夜中にコッソリとベッドから抜け出してきた裕美は、リビングの中央に仁王立ちし、我が家をぐるりと観察する。



理系仕立ての活きのいい脳みそは、主の為にその能力を直ちに発揮した。



「‥死角は、そこと、ここか。」



独りごちた裕美は、本棚やテレビの裏などの部屋の四隅に位置する場所に小型カメラを設置した後、腕組みをして暫し熟考する。




(‥あんまり分かりやすい場所に仕掛けて、気付かれたら意味ないんだよなあ‥。)



 ふと、テーブルの上のペン立てが目に留まる。明や裕美の文房具が雑多に突っ込まれたその場所に、一本位ペン型の監視カメラを仕込めば、誰にも気付かれまい。なにせ、前にこんな事があった。





「ひろみー、裕美、このペン書けないよ!インクないんじゃない?」



その夜、取引先とのやり取りに夢中になっていた裕美は、夫のくだらないダルい絡みに眉を顰めた。



「今忙しいんだけど。」



つっけんどんにそう返したが、夫は、ペンを思いっきり振りながら、尚も続けた。



「だって全然書けないんだよ?ほら見て、紙になーんにも書けない。」



ペンの引っ掻き傷だらけになった真っ白なメモ帳とそのペンを突き出され、合理性重視の裕美は面倒くさそうに、この問題を解決すべく、少しだけ首を伸ばしてそれらを観察する。



メガネを光らせながら、ペンを観察すると、その謎はすぐに解けた。



(‥ほんっと、こいつ高校の頃からこういう所変わらないな〜。)



‥電子ペンだったのだ。つまり、スマホやタブレットに使う方のペンである。その上、それは妻の記憶が正しければ、夫が三年前にネットで購入し、使いもせずにペン立てに突っ込んでいた代物だった。



それを買った時、確かに明は、満面の笑みで得意げに裕美に言った。



「ここにね、置いておくの!それでね、何か思い付いたら、これでタブレットに走り書きするんだ!きっと便利だし、充電しといたから、裕美も使っていいよ。」



「‥いや、君と違って私はお絵描きしないし、文字打った方が早いからいいわ。」



(‥それに、そんな所に置いても忘れて使わないんじゃね?)



そう思った現実主義者の裕美だが、その台詞は自分の中に呑み込む事にした。夫の笑顔が、あまりにも無邪気で満足そうだったからである。



そして三年経過したとある日に、自分の思った通りの現象が目の前で繰り広げられ、裕美は思わず半笑いをしながら、夫にこう指摘した。




「‥あのさー。きみ、よくそのペン先見てみ?インク出る訳ないから。」



妻に突っ込まれた夫は、しげしげとペンを観察し、間抜けな顔をする。



「なんで?」



ペン先が黒いために、天然気味で機械に弱い鈍チンにはお分かりにならないらしい。



ため息をついた裕美は、明からペンを取り上げると、スマホのメモ帳を開き、だるそうな顔でテキトーに走り書きをする。



「ほら。」



「あーーー!!スマホ用のやつだ!なんだーこんな所にあったんだー!」



嬉しそうにペンで遊びだしたお馬鹿な夫の姿は、記憶に新しい。



監視カメラの設置場所としては最適な場所と確信した妻は、そこにするりと小型カメラ搭載のペンを忍ばせる。



万が一、夫に見つかっても、あそこまで鈍ければ、バレはしないだろう。



(夫には、監視カメラを設置してる事をバレたくはない。)



裕美にはそれがなぜか、よく分かっている。



もちろん、外面の言い訳なら沢山ある。




バレたら、不倫の証拠にならなくなるかもしれない、だとか、離婚をする時に有利な物証にしたいから、であるとか。



 もし、明と結婚をしない選択をした世界線の裕美であれば、そういう理由で冷たい目を宿しながら、淡々と離婚準備に向けてきっとこのカメラを設置していた事だろう。



そう、昔の自分なら、こう思ったのは容易に想像出来た。



(あー、やっぱり男性って、若い女性に言い寄られたら、我慢出来ないんだな。まー、パパもママを捨てて別の女と駆け落ちして子供こさえたしな。結婚なんて、私向いてなかったかもなー。ママも離婚歴あるし、ま、いっか。)



 だが、この世界線の裕美の理由は、全く違う種類の物であった。結ばれる前、自分が一年フルシカトをしようが、半年既読スルーをしようが。何回明への気持ちに向き合えず、身勝手に逃げ続けても、曖昧な言葉で誤魔化しながら、答えを引き伸ばしても。




夫はいつも、ふにゃっとした優しい笑顔で、何も変わらずに、そこにいた。しつこく気持ちを押し付ける訳でもなく、追いかける訳でもなく、ただ、そこに存在していたのだ。




それは、今まで裕美が体験のした事のない、辛抱強く、優しい父性に満ちた物だった。



数ヶ月意地を張って、連絡を取らないだけで、気が付けば失っていた若き日の様々な思い出たちとは、決定的に違う何かが、そこにはあった。




「‥久しぶり。」



連絡を無視していた手前、ぶっきらぼうにしか言えない可愛くない裕美に、明はいつも嬉しそうに、電話越しにでも分かる程、優しい声で言った。



「おかえり。裕美と話せなくて、寂しかったよ。」



その声音を聞く度に、申し訳なさと共に、裕美の心を震わせる位の安心感が体中に流れ込んだ。



(‥私、明がいなくなっても、生きていけるのかな?)



そんな弱々しい言葉が、自分の中に込み上がってくる事自体に、裕美は戸惑った。



 幼少期から親代わりとして可愛がってくれた亡くなった祖父を失って以来、一人で生きて行く覚悟をしてきたつもりだった。ありのままの子供のように我儘な少女の自分は、封印しなければならなかった。男にナメられないように。血の繋がった祖父みたいに、無条件に愛してくれる男なんて、いるはずがないのだから。




そう信じて、男以上に稼ぎ、片意地を張って生きてきた裕美にとって、明の存在は、革新的な物だった。明は、いつしか、裕美の“帰る場所”になっていたのだから。




その事実に気付いた時、裕美は明との結婚を意識した。同時に自分の中の生々しい独占欲にも、気づいたのである。



(明を誰にも渡さない。明には、私だけをずっと愛して欲しい。)



無論、これが理想論に過ぎない事など、聡い裕美には分かっていた。



それでも、夫との安らぎの空間は、少しずつ理想を現実化してきたのである。




































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