『壁ドン』・3
「見るな……」
ああ―――。
こんな初歩的な罠にかかるなんて、ハーゲンティの名折れも甚だしい。
贄の血肉を糧に、触れた者の魔力を増幅させる魔法陣か。アンリミテッドの活用法としては至極単純明快だ。だからこそ、効果がある。
この部屋の主である魔導士が俺の正体を知っていたかは定かでは無いが――なるほど、煮え湯を飲まされた気分で、深く歯噛みする。
「……俺を、見ないでくれ……!!」
震えて地面にへたり込むザラの表情は、俺が今まで幾度なく目にしてきたものだった。
怯え、不快、嫌悪、拒否、忌避、抵抗を湛えた瞳。
全てが俺を拒む感情だと、俺は知っている。
痛い、痛い痛い痛い痛い。
旋毛から爪先まで、痛いと絶叫しない箇所が無かった。
身体が造り替わる痛み。人間界で制御した格落ちの器に、アンリミテッドの魔力が熱を伴って神経を蝕む痛み。ザラの針のような視線。
「ジーク……大丈夫……!?」
きっと。さぞ強烈な呪いにでもかかったのかと、思っているのだろう。
自分でも止められない速度で、激痛と共に骨格が作り替えられていく。
異形が身体を冒し、膨れて天井に届くまで体積が増していくのがわかる。
二本の角が酸素を求めるように、頭蓋を割って登る。赤い体毛が全身に巡り、皮膚を焼いてその下の肉と骨を露出させる。耳と舌が二股に裂け、溶けた無数の眼球が顔の上を彷徨い、手足が班目の鱗に覆われていく。噛み合わなくなった牙の列から、抑えられなくなった魔力が血となって滴り落ちる。
――違うんだ。
誰にともなく、言い訳がましく唱える。
これは変化じゃない。俺が力を制限する為に用意した人間ヒトの擬態から、本当の姿に巻き戻るだけだ。
かつて、異形たちが蔓延る魔界でさえ魔物と謗られたこの姿こそ――俺がこの世で最も憎む、俺の正体だった。
「あ――」
力なく膝をついた。
――見られて、しまった。
俺を見た者は必ず、こう口にするのだ。
『醜い化物だ』と。
一度こうなってしまえば、魔力を使い果たすまで、
俺の姿は、魔力を得れば得るほどにその不気味さと苦痛を増していく。
だから、ザラとは距離を取るのが賢明で――ああ、ここからどうやって人目に触れぬように逃げ出そうか。透過の魔法なら魔力効率も悪くて、すぐに
「ジーク、大丈夫!?」
ザラが駆け出して、俺の体を支えていた。
「なにこれ、毒とか呪い?私、すぐに薬、持ってくるから!怪我とかは?」
「いや、これは……」
「
立ち上がりかけた彼女の腕を掴む。俺のデカくて醜い手で、彼女が怯えるとわかっているのに。
「やっぱ、どっか痛む?」
ザラは心配そうに振り返って、俺の顔を覗き込んだ。視線が合う。
それでも彼女は逃げ出すどころか、労わるような瞳で瞬きを繰り返した。
「これは――……元々だ」
「もともと……」
少し考えるような素振りをしてから、なにかに納得したように、ザラは頷いた。
「そういえば、変身してるって言ってたね!じゃ、こっちがホンモノのジーク?」
「……あっちもホンモノだ」
「へー」
そうなんだ、じゃあ平気なの?なんて呑気に訊ねてくる。
「……怖く、ないのか」
「あ。えーっと……よく見たらそう……かも……?ごめん、なんか、今気づいた!そういうの!」
「じゃあ……何で」
「なんでって、なにがでしょうか……」
あの時と同じだ。
何故そうしたのかと問うと、彼女は申し訳なさそうに肩を竦める。
同じだ。この少女は迷わなかった。
自分の中に何の理由もないまま、ただ俺が“苦しそうに跪いた”というそれだけの状況に反応したのだ。反射的に、目の前のものに寄り添ったに過ぎない。
――それが、俺が生きてきた時間の全てを、まっさらに塗り替えるものだとも知らずに。
“これさえなければ”と何もかもを恨み、結局、世界が正しいんだと結論を下した筈なのに。
魔物と間違えられて殺されかけたのも数度では無い。
父や姉を差し置いて、何故一族の、最も優れている俺が、こんな代償を支払わなければならない。
同じように醜い魔族などありふれているのに、何故俺だけが、こんなにも侮蔑されるのか。
この程度のことに足を引っ張られて――俺は生きるのか。
抱え続けてきた憎悪が、人間の小娘のたったひとつの気紛れで、溶岩のように熱く、泡を立てて融け出した。目の奥に火花が奔った。途端、この人間が、とてつもなく輝いて見えた。
「俺の手を、握ってくれるか」
口にしたことのない欲求だった。
馬鹿げている。今この状況でアンリミテッドに触れれば、魔力が増すだけなのに。
それでも、この人間に、縋ってみたくなった。
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