無限の少女と魔界の錬金術師

安藤源龍

『面白い女』・1




 ――たまにあることだ。




 私は校内を走り抜ける。静かな廊下を通り抜けると、そのすぐ後に衝撃が空気を震わせる。


 足が棒になりそうだった。でもここで止まると私の命もおしまいだ。


 肺がボイラーみたいだ。熱い呼吸が登ってきては、唇から溢れ出す。


 炎と煙が背中を掠めていく。怖い、怖い、怖い。


 どうして誰もこの異変に気がつかないのだろう?もちろん私は、


 強いて言えば特異体質かもしれないけれど――これだけ轟音が響いているのに、誰ひとり反応しないなんてことあるだろうか。


 答えは簡単。今日は“職員生徒訪問者を問わず何人たりとも立ち入り禁止”で、私自身がこの無人の魔法学校に“アレ”を引きつけたのだから。


 校内の清掃とまじないの整備とかで、強力な結界を張って数日間放置。敷地内の魔素エーテルをまっさらに浄化する。要するに漂白剤の漬け置き。


 もし私がここに“ヤツ”を引っ張ってきたなんて知られたらどうなるかなんて考えたくないけど――きっと死ぬよりましね。




『待て 無限の子 その魂か血肉 我ら魔のものに捧げよ』




 岩を削ったみたいな声が差し迫る。私は知ってんのよ。人の言葉を喋るけど、あんたはヒトじゃないって。


「なんでその二つなのよ……!!」


 勝負は曲がり角コーナー。ローヒールのパンプスを脱いで、タイツの摩擦で思い切り直角へ滑り込んでいく。死角からなら、私程度の魔法でも、結界内に閉じ込める時間は稼げる筈!


「――あ」


 目の前に、在るはずのない影が揺らめいた。


 気づいたときにはもう遅い。私の、というか人間の身体にはあいにくブレーキは存在しないので、私は“それ”を巻き込んで、盛大に転んだ。


 私が下敷きにしたのは、紛れもなく――だった。


 なんで居るのかわからないけど、とりあえず、


「ごめんなさい!大丈夫ですか!?」


 私の声と、衝撃が重なった。


 嫌な予感に振り返ると、さっき目印にした柱が私めがけて傾倒しようとしていた。咄嗟に私は、目の前にいたその人を覆うように抱きしめる。


 “彼”と目が合い、“彼”が呟いた。




「見つけたぞ」。




 目を瞑って歯を食いしばったところで痛いのは変わらないかもしれないけど。


 お父さん、お母さん、友達のみんな、先生、おじいちゃんおばあちゃん、ご近所の皆さん、もしくは私の綺麗な背中、お気に入りのワンピース、さようなら。


「…………え?」


 だけど、覚悟していたものは来なかった。


 案外あっさり過ぎて、目を開けたら空の上とかそんな感じかしら――そんな思いで恐る恐る周囲を確認する。


「…………さっきと変わらない」


 無人の魔法学校だった。


 ただ、私の腕のなかに収まっているべき景色がすっぽりと抜け落ちていた。


 赤い髪と尖った耳をした、黒い制服に身を包んだ男のひと。


「俺を庇ったな。アンリミテッド」


 声は、私の上方からだ。そういえば、真横に黒い靴が輝いている。


 声の主は倒れかけの巨木のような柱を片手で受け止めて、“ヤツ”と対峙するような形を取っている。


 ……なるほど?柱って素手で支えられるんだ?


 私が“彼”の手元を覗き込もうとした途端、柱はその輪郭を失って、彼の手からは、


 ゆっくりと視線を上げる。赤い髪。尖った耳。青白い肌。恐竜のような琥珀色の瞳。(エルフにしてはキツイ顔つきね)。


 私はどうやら、守ったと思った筈の人に守られたようだった。


『邪魔を するなよ』


 私を追ってここまでやって来た“ヤツ”――そうね。


 例えるのも憚られるけど、強いて表現するなら――


 寄生虫の集った馬の死体から頭部をもいで、そこから無理やり、四肢が壊死した人間の上半身を生やして、顔のパーツをそれぞれ二つずつ接着剤で取ってつけたようなキモイ魔物(ところどころ裂けた箇所からなぜか脳みそが露出していて更にキモイ、できれば直視したくない)――が、赤髪の彼に舌を見せて問いかける。


『お前だって この娘を追ってきたクチだろう ? なんなら 髪の毛くらいなら わけてやっても いいんだぜ』


「無許可で喋るな、低脳」


『……』


 彼の言葉に、魔物が硬直した。


 いや私でもするわ。およそ日常生活でそんなの聞きます?って言葉だったもん。


「この俺が特別に、直々に手を下してやる。さっさと掛かって来い」


『独り占めしようったって そうはいかねえぞ !』


 ほら怒った!なんで煽ったのよ!


 魔物はごう、とひとつ咆哮して、私を執拗に狙い続けた青白い炎の巨弾を口から噴き出した。こっちに向かって一直線。まさに火の玉ストレートの剛速球。私たちに到達して焼死体を二つ作るのに……あら、フレンチトーストよりもお手軽なんじゃない?


 それなのに赤い髪の彼はぴくりともその場から動かない。あるのね?なにかあるのよね?お願いだから。


 私は半ベソで息を呑んだ。


 火球は彼の眼前まで迫って――消えた。


「あいてっ」


 ……飴?


 火の粉の代わりに私の頭に降り注いだのは、中身の入ったキャンディーの包み紙だった。


 次から次へと、彼の後方から、バラバラに転がっては飛ばされていく数え切れないキャンディーたちの群れ。


『なんだ それは まるで まるで おれの炎が ――』


「まるで、じゃない。――ほらよ、お返しだ!」


 今度は彼が何かを振りかぶって投擲した。私が確認するよりもはやくそれは空中で爆発して、大量の煙を生んだ。


「うわ……!!」


 その激しい爆風に私が怯んだのと同じくして、魔物も唸り声をあげる。


『一体どこから そんなものを … ! くそ、 どこだ !!』


 そっか。目くらましだ……!


 ぼんやりしていると、煙の中から現れた彼に、急に腕を引っ張られた。


「走るぞ!」


「え?え?ちょっと……!戦うんじゃないんですか?」


魔物とは逆方向へ、彼に引きずられるように私は駆けていく。


「その前にお前と話す必要がある」


「なんで?え?」


 不透明な景色を抜けて、中庭を抜けた先、校舎の物陰に誘導される。


 そこで一旦、彼の足は止まった。


 前かがみになって呼吸を整える私に向き直り、鋭い金眼を訝しむように歪めた。


「お前、なぜ俺を助けた」


「助け…………?」


「柱から俺を守っただろう」


「ああ……!いや、もう、無我夢中で。目の前に人がいたらそうするでしょ」


 彼の眉間に深い皺が刻まれる。あからさまに機嫌を損ねたようだ。


私は慌てて胸の前で手をひらひらさせて誤魔化す。


「だ、だって、体が勝手にって言うか」


「何が目的だ」


 私の乾いた笑いは、彼の凛とした低い声に遮られた。


「目的もなにもないです……けど」


 もうなにが彼の怒り(?)の琴線に触れるのかわからないので、気まずいながらも正直に答える。


「本当に。何の感情も無く、ただ俺が、そこに居たという理由で、か。お前はそれだけで、他人の為に命を張ったのか」


 今度は彼の瞳に困惑の色が浮かぶ。獣のような瞳孔が、きゅっと絞られた。


……ていうかさっきから人のことお前お前失礼だなこの人。


「ま、まあ……そうなる……のかな……?」


「一応言っとくが、俺もヤツと同類だ。お前の魔力――命が目当てだったんだぞ」


「ええっ!?味方になると思わせて!?」


 ため息まじりにさらっとすごいことを告白された。いやでも、確かにさっきあの魔物にも、“お前だって~”とか言われていたよね。


 彼が視線を逸らして、仕切り直すようにまたひとつ息を吐いた。


「今は違う」


「今は……?」


「魔族の誇りに恥じぬよう、一度だけお前の恩義に報いよう」


 疑うべくもない真っ直ぐな金眼が、私の戸惑う視線を射抜いた。


それって。


 私一人じゃどうにもならなかったこの状況に、希望の光が差したように思えた。


「それって……なんとかしてくれるってこと?」


「ああ。差し当たっては……とりあえず、ヤツを倒せばいいな」


 自然と口角が上がっていくのがわかる。


「うんうん!ありがとう!!」


彼の手を取ってぶんぶんと振り回すように握手した。


 今だけかもしれないけど、敵が二人になるより全然いい!


 ――そう思った矢先。


「……!」


 彼が勢いよく背後を見やった。続いて、落雷のような衝撃音。彼の視線の先から、煙と、破壊された床の破片が舞い上がった。


 時間切れってことね。


「お前、魔法はどのくらい出来る。アンリミテッドといっても、あの程度に手こずるようじゃ期待はできないが」


 彼が早口に尋ねる。私はこれまた正直に、自分の実力を伝えた。


すると彼は、


「ぬ゛っ……」


という短い奇声を発してから、項垂れた。


「……戦力外だ。退場」


 私の頭の中でホイッスルが鳴った。


 すごい。下手くそでレッドカードなんてあるんだね。


「……と言いたいところだが。ヤツがお前を追って暴れている以上、お前をこの結界から出す訳にはいかん。お前も街に被害が出ないようにとヤツを誘導したのだろうからな。で、あれば俺がフォローする。なるべく俺からつかず離れずで行動しろ」


 さして年も変わらないだろうに命令口調なのが腹立つ( たとえ二、三歳年上だったとしても何かムカつく)けど、彼の言葉には言外の説得力がある。声が低いから?ウソをついてる目じゃないから?わからないけど――この人に、命を預けよう。


 ……つかず離れず。そのほうが私を囮にしやすいし、私を守りやすいってことか。


「よ、よし。わ、わかった。それくらいなら、頑張ります」


「ああ。必ずお前を守る。それだけは約束しよう」


「うん。あなたも、私が命、無駄にしないでね」


「フン……随分と余裕だな。面白い」


 がし、と改めて手を組み直す。互いに、健闘を祈る(グッドラック)、の意だ。


『どこ だ !!!!!』


 きた。


 二人で静かに、速やかに身を潜める。


「ヤツを視認次第、合図をする。俺は俺の魔法の特性上、カウンターが必須だ。だから誘え。ブラフにするなら威力はいらん」


「私のしょーもない魔法で気をそらせと」


「あくまでヤツの狙いはお前だからな。だがあまり、」


「離れすぎないこと、ね?」


「上出来だ」


 不敵に笑い合う。


 頼れる仲間がいるのなら、怖いことはなにもない。


 じっと魔物が視界に現れるのを待つ。彼曰く、あいつは感覚がニブいらしいので、とにかく先手必勝だと。


 私を追ってきたときと同じ足音が近づいてくる。


 否応なしに心臓が騒ぎ出す。


 彼の手が私の肩に置かれた。少しだけ、緊張がほぐれる。


(もしかしたらこの人、いい人?)


 私たちが隠れる場所の先――中庭を挟んだ教室の窓に、魔物の姿が反射した。


ということは……やっぱり後ろ!


 彼も同時にそれに気づき、


「行くぞ!!」


 私を送り出し、彼も走り出す。


 私の得意技は雷を呼んだり、操る魔法。魔導書がないと発動すらままならないけど、この距離なら詠唱も間に合う!


 ただひとつ――威力は弱いままだけど。


「あんたのお目当ては――こっちよウスノロ!!」


 まるで竜の断末魔を特大の蓄音機から出力したような轟音と、大木のような野太い閃光が魔物の眼前で展開される。


『アンリミ テッ ……!!』


 魔法で私の存在を認識した魔物が、雷光の出処をめがけて口から火球を噴射する。


 私はというと、とっくに横から飛び出してきた彼に、安全地帯まで突き飛ばされていた。


 私と入れ替わった彼が、真正面から火球を右手のひらで受け止める。


 白い炎は彼の手を焼き尽くすことなく――その姿を無数の矢に変えた。


「蜂の巣だ」


 飴みたいにボロボロ落ちてくるかと思ったけど、彼が即座に展開した魔法陣がそうさせない。


 彼が指先で銃を撃つような仕草を取ると、矢はもとの主を裏切るように次々反転して、火花を散らしながら魔物に向かって打ち出された。


「やった……!」


 魔物の脳天に、針山のように矢が集まり、貫通する。全弾命中だ。


 赤黒い血と蛆虫、神経や眼球のようなものが、魔物の後頭部からどっと溢れ出す。あまりに大量で、どちらも泡立って糸を引いて、地面に着地していく。


 びちゃびちゃびちゃ。どちゃっ。


 司令室を失った半身半馬の身体は、己の血の海に投げ出される。黒ずんだ四肢が宙に舞い、地面にバウンド。


 多分恐らく、私が医療や酪農なんかに関わっていなければ見ることのない光景だった。


「うぎゃああぁぁグロいいいぃぃ……!!」


 鳥肌ものだ。ちょっと、一介の女学生には耐えられそうにないです。


「……違う」


 彼が呟いた。


 ちがくないよ。グロいよこれは。


「そうじゃない!クソ、こんなことにすら気付かないなんて――なんて不便な身体だ!!」


 悔しそうに叫びながら、彼が再び右手を掲げて、何かを受け止めようとする。


 なにか?


 だって、もう魔物は死んだはず。


 なにかとても、まずいことになったと確信した。


「中身が、ない」


 一瞬目を逸らした間に、人間の上半身はともかく、馬の身体をしたもう半分が、皮だけになってペシャンコに潰れていた。


 ずた袋のようにところどころ裂けた箇所から覗いていた、“中身(脳みそ)”が見当たらなかった。


 ここにないなら。


 私は慌てて彼との距離を詰めようと足に力を入れた。


 だけど心身ともに疲弊しきって、ついでに一度安心してしまった私の体は言うことを聞かない。動け、動けったら!


 液体の上を這うような不快な音が横切った。ほかに言いようもない。


 “歯が生えたどでかい脳みそ”が、彼の腕に飛びかかった。


「嘘でしょ……!」


 あっちが本体なのか知らないけど。あいつはあの魔物に潜伏して、こっちが油断した隙を狙ってきたのだ。


 驚愕する彼の足元に赤が滴り落ちる。


 ぶちぶち、ごき。


 私たちが肉を食べるときを思い出した。ゆっくりと骨から肉を剥がし、筋肉や神経を犬歯で断ち切るあの感触。生肉はさすがに食べたことないけど。


 ひと噛みするごとに、彼の体から離れた腕にある分だけの血が溢れ出す。私の口の中にも血の味が広がるような錯覚を覚えた。剥き出しになったぷるぷるに輝く肉の欠片が、歯に引っかかっていた。


 思わず口元を手で覆う。


 彼の右手の肘から先は、飛び退いた脳みそが、笑うように咀嚼していた。


「なんで……!」


 やっと動いた身体で、膝をつく彼を支えた。


 ただでさえ顔色悪そうな彼の顔は輪をかけて血の気を失くし、額には汗が滲んでいた。


「魔力切れだ。もう一度も魔法が使えん」


 不幸って、重なるものね。


 おかしいと思った。彼のさっきまでの要領でいえば、右手で掴んだものを弾いて、別の魔法を発動していた筈だから。それが無抵抗で襲いかかられて、こうして片腕を失っている。


「え……」


「まさか二体分だとは思わなくてな。ペース配分を間違えた」


 はーやれやれ、と余裕でかぶりを振る彼。


「……ヤバくない?」


「ヤバいな」


 とりあえず応急処置で、ワンピースの端を切って彼の欠損した右腕の傷口をキツく縛った。


「冷静な女だな」


「ぎりぎりに決まってんでしょ」


「そうか」


 思考が停止しそうになる。なにかしなきゃ。なにか。なにか。


そうしている間にも、あの脳みそは彼の腕を噛み砕いている。


「いいか。アレはほかの魔物を食ってその外皮を真似る。それだけならまだいいが、思考なんかもトレースするみたいだな。魔力反応に気付けなかった俺の落ち度だ。責めていい」


 怪我人には悪いけど、八つ当たりで彼の頬をつねらせてもらった。


「約束はどうするの」


「魔族は約束を尊び重んじる。破るような真似だけはしないさ。だからああやってヤツが俺の身体を食っている間に、とっとと逃げろ。悪いがそれしか出来ん」


「なんの根本的解決にもなってないでしょ!」


「仕方あるまい。これは最悪のケースだ。それに俺は言った筈だ。“一度だけお前の恩義に報いる”と。後のことがどうなろうと知ったことじゃない」


 彼が顔を歪める。


 ――この人は私に似ているなと思った。


「嘘つき」


 知ったことじゃないのなら、あなたこそとっとと逃げればいいのに。彼はそうしない。


 残って戦ってやると、金色の瞳が燃えていた。


 ううん。私はこんなに強くないから――似ているなんて失礼かな。出会ってすぐの見ず知らずの人に命を賭けられるなんて、ヒーローのすることだ。


「魔力さえ、あればいいんだよね」


 私は、ブラウスの袖を捲って、彼の眼前に露わになった右腕を差し出した。我ながら年頃の女の子らしい柔らかくて白い肌である。


 ま、どうせ無傷で帰れるなんて思ってないし。お母さんは悲しむか。ごめんね。


「言ったよね、私の髪とか血肉ならいいんでしょ。これくらい、あげるから。それでアイツをぶっ飛ばしてよ」


 睨むように彼を射すくめて、腕を更に寄せた。時間ないんだから。


 彼は一瞬ポカンとして、だけどすぐに俯いた。肩が震えていた。


「は……――はははははは!」


 歯――というか、ギザギザの牙?を見せて、腹の底から笑い始めたのだ。


なにがおかしいのよぅ。


「あなただって、私の為なら腕の一本や二本って、思ったでしょ」


 図星を突かれたらしく、彼はピタリと高笑いを止めた。情緒不安定か。


 それでも口元は歪んだままだった。


「ああ――確かに、そうだ。当然だな。だが、“そうするとは思わなかった”ぞ、人間。それでこそ、命を賭ける甲斐がある」


 意を決して、私は少しでも痛みに耐えられるように目を閉じた。


 どういう風にするかわからないけど。まさかあいつみたいに直接肉ごと食いちぎるのかな――まさかね――なんて、好奇心で薄目を開けたのが良くなかった。


 ――マジだった。


「~~~~ッッ!!」


 声にならない絶叫が喉を焼く。


 彼のギザギザの鮫みたいな歯ががっぷり肌に食い込んで、熱と共に強い力で皮膚が引っ張られる感覚があった。水風船を割ったように、あっという間に夥しい量の血が溢れ出した。


 ものの数秒で自分の行動を後悔しそうになる。あ、あ、皮ってやっぱりちゃんとくっついてるのね?あはは。町の看護師さんの採用試験に“一日に見た血の量”の項目があったら、私、きっとすぐに現場入り出来るわ。


 きっちり一口ぶん、彼は私の腕の肉を平らげると、口元を拭って立ち上がった。


 私はというと、放心状態で、彼の歯型にくり抜かれた部分からばたばた流れる血と、白い骨のコントラストに見入っていた。自分の血の匂いを嗅いで、ようやく痛みが襲ってくる。痛い。というか熱くて訳がわからない。


 大丈夫。彼と私が生きられるのなら、腕一本でもお釣りが来るくらいのピンチだもの。


 彼はもっと……痛かった筈だ。


「良いだろう、アンリミテッド。この魂を以てお前の蛮勇に応えよう」


 脳みそが最後の一口で、彼の指を飲み込んだように見えた。


「そこで寝ていろ。その間にケリは着く」


 急に頼もしくなった彼の背中を追おうとして、世界がぐらついた。


 心なしか息を吐き続けることしかできなくなっていて、視界の隅にきらきらと銀の流星が飛び交っていた。


 限界だ。


 街で暮らすそこそこのほほん女学生にしては、よくやったほうじゃない?


 もしかしてこのまま死んじゃうんじゃないの。何しろ呼吸が出来なかった。手足が痺れた。頭の中が二酸化炭素でパンパンになっているような気がした。


 遥か遠くか、手の届くすぐそこかわからない場所で、彼と脳みそが何やら激しく踊っている。あ、違うか。戦ってるんだった。そうかそうか……。


 眠気が首筋から這い上がってくる。


 ――あれ。今、牛いなかった?


 私の記憶は、そこまでだった。






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