なにもかも嫌になった僕は旅にでた

@hiroaki4463

僕はトーマス・マンの『魔の山』にしおりを挟んで閉じ、耳栓を外して、目線を上げる。

静かだった。

物語の旅から一気に目が覚めて、急に世界が目前に迫ってくるような、あのどちらが現実なのか分からないといった感覚だった。

その世界が色づいていく。いや、ついてはいたのかもしれない。気がつかなかっただけで。

空は淀んでいる。ゆっくり動く。雨ではなさそうだ。イチョウの木々が囲う淀んだ池の水面を、具合の悪そうな雲たちが流れていく。その雲間でカモたちが素潜りをしている。

申し合わせたかのように、いくつかの丸い頭が消えたかと思うと、フワフワとした白い尻がこちらに微笑んだ。どこかの街で観たナイトダンサーのようだった。つぎに彼らの頭が見えると、採ってきたであろう何かがくちばしの中で反芻されている。

それがあちらこちらで繰り返される度、彼らは激しい羽音を立てて体を振り、水面の雲をかき消した。それらは散弾銃で打ち抜かれては、何度も何度もまばゆく光った。

それをぼんやりと眺めていたら、体の中から熱い気持ちがこみ上げてきた。思わず「ブラボー!」と白い息を吐き出し両の手をこすり合わせる。吐息の熱を手の内に閉じ込める度、その臭いが先ほど食べたものを思わせ、また、(常々忘れるのだが)自分のひげが伸ばし放題で汚いままでいることが思い出されて、うんざりした気持ちになった。自転車の男が池と僕とを交互に見て、怪訝そうな顔で目の前の小路を行き過ぎていった。それを機に、静寂は破られた。目の前にいたはずの鳥たちはどこにも見当たらない。ひげに手をやると、あれからずいぶん時間が経った気がした。不思議なものだ。

ショーは終わり。本を手に立ち上がる。

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