裸足で逃げ出す聖者伝
向野こはる
金のなる石:ニコリス
①
──聖者様。
神から与えられし聖魔法を使い、人々を混沌より救う神の代行者。体の一部に聖痕を持つその使徒を、人々は畏敬の念を込めてそう呼んだ。
使徒に選ばれる条件は、決まっていない。
生まれながらに聖痕を持つ場合や、成長する過程で浮かび上がってくる場合など、様々だ。
聖者様となった者がいる国は、等しく繁栄を約束された。魔法が主流のこの世界で、聖魔法はあらゆる魔法の上位互換とされ、その力は絶大なのである。
しかし多大なる力が、非力な人間に授けられるということは、使い方を間違えば破滅に至る。それは自明の理であり、神より警告された事柄であることは、言うまでもない。
◆ ◆ ◆
「な、なぜです、あれ程の額を支払ったのに、なぜ我が領地をお救いくださらないのですか!」
悲痛な声を上げて廊下に這いつくばる辺境伯に、シジは流石に哀れで寄り添った。神官服を捌きながら膝をつき、
「落ち着いてください、リギリンス辺境伯様。聖者様は申しております。領地の魔物を全て退治するには、時間が必要なのだと」
柔らかなテノールに、銀を帯びた黒髪と瞳。すらりとした長身。同性でさえも見惚れるシジの容姿に、辺境伯は少し目を見張ったものの、再び頭を抱えて泣き叫んだ。
「そんなはずがない! 聖教会が、我が国の聖者様は最強だと申されているではないか!」
シジの口角がひくりと震える。内心の焦りを悟られぬよう、つとめて笑顔に気をつけながら首を振った。
「聖者様も一人の人間です。神からの思し召しを受け、我々に──」
「おい、クソ神官! 酒が足りねぇって言ってんだろーが!」
瞬間、目の前にあった扉が勢いよく開かれた。
口を開けた状態で見上げた先に、短い栗毛の青年が、赤い顔のすっかり出来上がった状態で、空のワインボトルを左右に振って見せる。彼はヒック、としゃっくりをしてから、ようやく教徒に目が入って、三白眼の目を丸くした。
数秒考え込んだのち、ニンマリと笑い、ワインボトルで辺境伯の肩を軽く叩く。
「ああ、あのど田舎の辺境伯様さまじゃん? なんだよ、俺に祈りに来たのか?」
「っ、っ、聖者様! 我が領地の魔物は、全く数を減らしておりません! どうか、どうかお助けください!」
足に縋る辺境伯に、彼は器用に片方の眉を吊り上げた。
シジも同行した辺境伯の領地は、確かに魔物の出現が多い。対処に困った辺境伯は、莫大な献金を教会に行い、この国一の聖者様の派遣を要請した。
しかし肝心の聖者様が行ったのは、一番最南端にある集落に出現した魔物の討伐だけ、なのである。
しかもその理由が、身体が好みな女がいたから、それだけだ。
国随一の聖者様、──ハウズリットは、足を上げて辺境伯を払い除け、再びワインボトルで肩を叩いた。
「あ? ちゃーんと魔物は追い払ってやったじゃねーの。つーか魔物を減らすのは、辺境伯を拝命したオメーの仕事だろうがよ。俺様を動かそうってなら、献金しな」
「そ、そんな、我々は領地予算の半分も献金を……!」
「国王様に防衛費だなんだって、領民からの税収の他に貰ってんのあんだろ? 金の出せねぇやつに用はねぇ。帰んな」
さっさと興味を無くした彼は、シジの神官服をむんずと掴み、引きずり上げて部屋に放り込んだ。突然の事態に素っ頓狂な声を上げた彼は、無慈悲に占められた扉の向こう側で、泣き喚く中年の声に頭を抱える。
こうなる予感はあった、と言うより、こうなる予感しかなかった。
「ハウズリット!! 貴様はどうして、そうやって職務を放棄する!? 私の気苦労を知れ愚か者がッ!」
「俺様の稼ぎで教会が成り立っているのに、偉そうに指図してんじゃねーぞシジ! 大神官に言ってクビにすんぞ、クビに!」
「私がクビになって困るのは貴様だろう!!」
このやり取りも、もはや数えるのもやめたほど。
給仕の女が慌てて持ってきたワインボトルを、魔法でコルクを飛ばしてラッパ飲みするハウズリットに、シジは両手で顔を覆い溜め息を吐き出した。
教会は貧乏である。
そう括るといささか大袈裟だが、多くの民へ無償で施しを行う教会は、基本的に金がない。国によって貧富の差が激しい上に、教会を保有する国から支給される予算は、雀の涙ほどしかない。全てを賄うには限界があった。
なので教会は、自力で資金を稼ぐしかない。
さて、国随一の聖者様と謳われるハウズリットは、王都でも一等地にある教会の稼ぎ頭だ。
両手の平にそれぞれ聖痕を持つ彼の聖魔法は、並の魔法使いでは太刀打ちできないほど強く、様々な依頼が舞い込んでくる。魔物の討伐から地形の形成、土壌の整備、疫病の治癒など、たとえ同じ聖者様でも匙を投げるような依頼を、次々と解決できるほどの力を持った聖者様であった。
しかし彼は、思考回路や性格に難ありの男なのである。
彼が動くのは金のため。それ以外に興味は薄く、金になる依頼ばかり引き受ける。
なおかつ彼は、享楽主義者である。自分の琴線に触れる依頼でなければ、テコでも動かない。
聖者様、などと清らかな名前で呼ばれるのが嘘のような男だが、こればかりは教会もどうしようもなかった。何せハウズリットの聖魔法は、教会が、否、国が手放せないほど優秀なのだ。
そんなハウズリットの尻拭いをさせられるのが、部下のシジである。
聖者様には必ず、数人の神官が部下として付き従っている。ハウズリットはその膨大な聖魔法故に、所属する教会の神官全てが彼の部下であったが、いつも痛い目を見るのはシジであった。
部下と言っても、年齢は二人とも二十代。昔馴染みで気易い関係であるため、普段はどちらが上司で部下なのか分からないほどであった。
毎回毎回、依頼について言い争い、時には魔法を使って物理で黙らせ合う二人は、教会の風物詩と化していた。
そんなある日のこと。
救いを求めて教会に訪れた人々の中に、大きな石を持つ少年が一人いた。少年は赤ん坊ほどありそうな石を抱え、靴も履かず、全体的に汚れた上に怪我もしている。
いつも通り面会者の対応をしていたシジは、少年の様子に眉を寄せ、座っていた椅子から立ち上がった。
のっぴきならない状況を感じる。手が空いていた同僚に参拝客の対応を頼み、疲れて涙すら流す子供に近寄った。
「大丈夫かい? さ、こちらに…、まずは風呂に入ろうか」
「ごめんなさい……でも、ぼく、聖者様に会いたくて、……聖者様は、どこですか、ぼくのお父さんと、お母さんを、助けてください……!」
気力も尽き果てつつあるのだろう。言いながらシジに縋る片手は、ひどく弱々しい。まずは治癒魔法をかけるのが先決だ。シジは石を離さない少年の体を抱えあげ──ようとして、あまりの重さに目を見開いた。
巨大な石が、あまりに重い。とても子供が持ち上げられるような重さではなかった。一体何事だと集まってきた神官の手を借り、少年から石を取り上げようとするも、彼は激しく拒絶する。
「やめて、やめて! これは聖者様に、渡す石でっ! これがあれば、ぼくのお父さんとお母さんを助けてくれるって!」
「もちろんだ、だが、まずはここに置こう。でないと、君の湯浴みも」
「やめて! はなせよ! いやだ、いやだ、助けて、助けて、助けてくれよぉ……!」
泣きじゃくる少年が石を抱え直して蹲った刹那、ふわ、と重力を感じさせない様子で浮き上がった。双方で呆気に取られていれば、浮遊する体はそのまま移動し、いつの間にか後方に立っていたハウズリットの前へ運ばれていく。
彼は少年の抱える石を見つめ、ニンマリと笑みを浮かべた。
「おい、ガキ。これはオメーのか?」
「っ、っそうです! お母さんが、これを持っていけば、助けてくれるって」
「いいねぇ、オメーの母ちゃんは天才だな。 おい、間抜けなクソ神官ども! なにチンタラ見てやがる。お客様だ、丁重にもてなせ」
普段、金銀財宝にしか目のないハウズリットが、少年ごと大きな石を上機嫌で連れて行く様子に、シジ含めた全ての人間が、ポカンと口を開けて互いに顔を見合わせた。
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