コミュ障、ぼっち、モブ

 名前が与えられることで、居場所が確立される。


 コミュ障もぼっちもモブも、実のところ、前向きな言葉として使われている側面があるように、わたしには感じられる。

 次男は堂々と明るく、「オレ、コミュ障だから、店員さんと話せないんだ」と言う。そこに暗い影は一つもない。むしろ、「コミュ障」は一つの立派な立ち位置である。彼はぼっちではないけれど、「オレ、目立たない存在だから」と、なんとなく嬉しそうに言う。次男にとって、「モブ」は憧れの立ち位置だ。


 わたしが中学生のころなら、コミュ障やぼっちやモブは、マイナス要素でしかなく、とてもあんなに堂々と明るく「コミュ障だから」と言えるようなものではなかった。ぼっちやモブに関してもそうだ。みんな薄っすらと、人気ものに憧れていた。でも、今はモブに憧れる子がいる時代なのだ。さすが多様性の時代!(笑)


 名前が与えられる、というのは大事な行為である。

 某アニメでは名づけが一つのテーマになっている。最も、名づけに重要な意味がある、というのは某アニメが最初ではなく、古くからある思想である。

 その意味において、あるマイナスとも思える状態に名前をつけ、そしてそれを明るいニュアンスを込めて展開させていく物語を作ることで、名前にプラスの意味を込める、という行為は、なんとも明るくほのぼのとしていて、「こんな自分でもいいんだ」という自己肯定感を高める、素晴らしい行為であるように思う。


 みんな、それぞれ、ありのままの自分でいいのだ。

 大学入試要項を見てると、今の時代、強く求められるものの一つに「コミュニケーション能力」がある。どこの大学にも必ず書いてある。ということは、恐らく企業もそういう人材を求めているのだろう。


 でも、みんながみんな、コミュニケーション能力が高いわけではない。

 いいじゃないか、コミュ障でもぼっちでも、モブでも!

 そういうメッセージすら感じる。

 そして、わたしは羨ましい。


 わたしが中学生だったときに、これらの言葉があったら、もっと生きていくのが楽だったなあ、と思える。高校卒業まではわりと暗黒の時代だったので、コミュニケーション能力が高い人、友だちの多い人、人気ものの人が羨ましかった。誰にも「そのままでいいんだよ」なんて言ってもらえなくて、実に自己肯定感の低い子どもだった。


 二十歳になったとき突然、自分だけは自分を認めよう、自分で自分を褒めてあげよう、と思った。そうして、努力により自己肯定感を高め、努力により協調性とやらを見につけ、努力により「自然な会話」とか「人とのやりとり」を学んだのである。

 そう、基本的にわたしは空気が読めない。

 え? 読めてるよ。

 とも言われるが、甘い!

 それは単に、長年の経験から培った、「このときはこうすべき」に沿って動いているだけなのである。つまり、頭の中にそういうアルゴリズムを構築しただけであって、もともと備わっているわけではないのだ。


 自分でもずっと「わたしはコミュニケーション能力が高い」と思っていた。何しろ、膨大な努力の末、勝ち取ったものだから。

 だけど、気づいちゃったのです。

「お母さん」という立場に置かれたとき、わたしは「自然なおしゃべり」が苦手だって。

 仕事上の会話は出来る。

 会議での発言は出来る。

 何かの状況に置かれたとき、にこやかに話すことは出来る。

 だけど、よく知らない人と、ふいに同じ空間になったとき、「自然なおしゃべり」が出来ない。いや、するんだけど、ものすごく疲れるの。


 だからわたしは、「わたし、コミュ障なの」と言うことにしている。

 いいねえ、この言葉!

 ぼっちでも全然平気だし、モブ最高!


 わたしも、わたしのままでいいのである。

 

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