「考え」は果たして言語なのだろうか2

「考え」は時として言語ではなく、映像である。

 と、この前のエッセイで述べた。

 今日運転をしながら、気づいたことがある。

「考え」は時として色であり、茫漠たるイメージである、と。


「わたしが契約社員から正社員に上がるとき、本当に大変で。毎日八時、九時まで残業したの。すごく頑張ったのよ」

 と、自分のリーダーに言われたとする。

「そうなんですか」

 と、とりあえず答える。

 ――わたしはそんなに働きたくない。五時で帰りたいし、残業していたら家庭崩壊してしまう。

 と思うのは、その話題を反芻するときだ。

 聞いた瞬間は灰色で、もやもやとしたイメージを抱いている。

 反芻するとき、一つフレーズが出てくると、次々に思考が言語で流出していく。

 反芻する という脳内活動が、一瞬後に来るのか、はたまたさらに遅れて来るのかはそのときによる。遅れてくる場合、頭の中のもやもやがずっと深いように思う。


 わたしの場合、誰かと会話をしながら、別のことを考えているということはよくある(パソコン画面でウィンドウがいくつも開いているのといっしょ。同じ理屈でDVD観ながら家事したり漫画読んだり、勉強したり出来る)。別の言葉を発しながら、色やイメージから言語が湧き出たあとは次々に言葉を別の言葉を脳内で紡いでいたりする。

 また、時として、誰かと会話をしながら、別の映像やイメージを思い浮かべていることもある。小説を書くということは、映像をはっきりと見ようとする行為の場合もある。

 

 魅力的だと思えるフレーズが出たら、すぐにワードに打ち込みたい。

 ノートにメモするのでもいい。

 わたしは言語で思考するとき、結局書きながら考えるのである。

 それまでは、映像であったり色であったりイメージであったりして、明確ではない思考である。

 そうか。

 明確にして、人に伝えるために言語化するのだ。

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