第21話

 僕はまるで漬物石を抱えているかのように重い足取りで、五百木さんの家まで辿り着いた。顔を上げると、空はすでに黒い。冷たい空気が肌を刺し、皮膚から生気を奪っていくような感覚がした。

 インターフォンを鳴らすと、少ししておばあちゃんが出て来てくれる。その顔には、変わらない柔和な笑顔が浮かんでいた。そんな表情を見て、何だか泣きそうになってしまうのを必死に堪える。

「彩花さんは?」

 僕が尋ねた。

「今日も出かけとるよ」

 するとおばあちゃんは、優しい笑みを浮かべたまま答えた。

 玄関で靴を脱ぎ、リビングへ入る。すぐに水槽が見えて、次にアップライトピアノ、テレビと視線を移していき、最後にトロフィーが目に入った。

 自分の一つ一つの動きが映画のワンシーンみたいに、はっきりしている。

 この場所に来るのは人生で最後かもしれない。

 考えないようにしていたが、体が勝手に意識してしまうようだ。そんなことから、僕はやっぱり悲しいのだと分かった。

 遼の時もそうだったはずだ。気がつかないふりをしていただけで、僕は悲しかった。でも、それを認めてしまえば僕の心は傷ついてしまう。だから僕は感情に蓋をした。

 今回も同じようにできるだろうか。正直に言うと、自信が無かった。

 以前は、桜井さんに縋ったのだ。

 彼女の笑顔を見て、その眩しい光を浴びることで出来上がった影に素直な気持ちを隠した。でも、今回は僕を照らすものは何もない。桜井さんは引退する。そうすれば、僕の世界は影だけになるだろう。

 傷ついた心を抱えたまま、僕は暗闇の中を一人で歩いていかなければならない。

 あいもかわらず、水槽のポンプの音は一定のリズムで部屋を飛び回っている。それがまるで僕を非難する声のように聞こえてしまう。

 そのとき、果てしない闇を目前に捉えて立ちすくんでいた僕の背中に、温かいものが触れた。

「大丈夫、行ってごらん」

 振り返ると、おばあちゃんが僕の背中を押してくれた。おばあちゃんは、春の日差しのような笑みを浮かべたまた告げる。

「今日、凪沙は彩香と一緒に出かけていて、いないよ。だから怖がらなくても良い」

 まるで僕の心を見透かしたような発言だった。冷たかった体に、体温が戻ってくる感覚がある。

「私も一緒に行くから」

 そう言っておばあちゃんは視線で僕に階段を上がるように促した。

 そして、僕は導かれるように二階へ進んでいく。後ろからおばあちゃんも来てくれているのが音で分かった。

 廊下は真っ暗で何も見えない。最近ようやく見慣れてきた景色が、全く違うもののように見えた。

 すると、遅れて上がってきたおばあちゃんが僕を抜かして廊下の奥へ進み、スイッチをカチッと押す。

 その途端、視界に色彩が戻って来た。

 同時に、五百木さんの部屋のドアの前。そこに置かれているものも視野に入ってくる。

 吉岡さんのファイルだった。明るい廊下に、それだけがポツンと置かれている。まるでずっと僕がくるのを待っていたように。

 僕はそのファイルを丁寧に拾い上げた。どこか感慨深いものがある。

「帰って、裏側を見てごらん」

 それを見たおばあちゃんが、言ってくれる。

「後ろですか」

 そう言って僕がファイルを裏返そうとするが、おばあちゃんは慌てたようにそれを阻止した。

「一人のときに見なさい」

 おばあちゃんが正面から僕の顔を覗き込むので、僕はそれに従った。ファイルを裏返さないように気をつけながら、通学鞄に仕舞い込む。

 そのとき、おばあちゃんが言った。

「そういえば彩花が、今週の土曜日焼肉へ行かないかって言ってましたよ」

 昨日、焼肉の話をしたばかりなのにもう日程を提案してくるのが、彩花さんらしいと思う。

「土曜日なら、たぶん大丈夫です」

 僕はそう言うが、気が重かった。もしかしたらファイルの裏には「もう関わらないで」と五百木さんからのメッセージがあるかもしれないのだ。もしそうなれば、僕は彩花さんと焼肉に行くことも、この家にくることも二度とないだろう。

 五百木家を後にした僕は、青空公園に向かう。足取りはさっきまでよりは軽くなっていた。五百木さんの家まで向かう途中には見えなかった星が、夜空にぽつぽつと輝いている。いや、見えなかったのではなく見る余裕がなかったのだ。

 自分がいかに盲目だったかを思い知らされた気がする。

 そんなことを考えていたら、青空公園についていた。公園の中には街灯が一つあるだけだが、割と明るい。

 一番灯りに近い丸太のベンチに座ると、キラキラと輝く街が一望できた。その光の一つ一つに人間の営みがあって、この街にこれほどの人が精一杯生きていることが奇跡のように感じられる。

 僕は自転車のカゴに手を伸ばして、通学鞄を引き寄せた。

 中から、吉岡さんの笑顔が映った例のファイルを取り出す。おばあちゃんは一人のときに見なさいと言った。だから僕はこの場所に来たのだ。

 僕は取り出したファイルをゆっくりと裏向ける。緊張したけれど、月明かり、町の光、そして青空公園の街灯が僕を励ましてくれたようだ。

 ファイルの裏には、小さなメモ用紙がセロハンテープで貼ってあった。それを見ると、丁寧だけど丸い文字で、こう書かれている。

 

 久保くんへ

 この前はきついことを言ってしまって、ごめんなさい。素の自分を知られてしまったら嫌われちゃうんじゃないかなと思って、気づいたら冷たい態度をとってしまいました。でも、本当はとっても感謝してる。久保くんが話しに来てくれて、私は嬉しい。

                                    凪沙より


 夜空にいくつもの星が輝いている。でも僕たちが必死で生きるこの地球も、太陽の光を受けて宇宙に輝く星の一つであることを、忘れてしまっていた。

 それだけじゃない。僕たち一人一人も光を放っているのだ。それぞれの太陽から光をもらい、それをエネルギーに変えて、壁にぶつかり、思い悩み、挫折し、絶望を味わい、それでも汗を流し、這いつくばり、しがみついて光を灯す。

 たとえそれがどんなに淡かったとしても、その光はまた別の人にとっての太陽になる。

 五百木さんの言葉は、そんな大切なことを僕に気づかせてくれた。僕も、少しだけ五百木さんを照らす光源の一つになれたのかもしれない。

 そう思うと、明かりを灯した電球が熱くなるように、僕の胸もジーンっと温められた。

「ありがとう」

 気がつけば、声に出ていた。何も照らされたのは五百木さんだけじゃない。こんなに心がぽかぽかとしているのは、いつぶりか分からなかった。

 どうやら僕の太陽は、桜井さんだけじゃないみたいだ。

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