第6話

 暗い部屋の壁一面に巨大なスクリーンが映し出されている。

 そこに、写っているのは桜井さんではなく、今流行っている曲のMVだ。今は優馬くんが、立ち上がってマイクを握っていた。彼の歌声は癖がなく、音程を正確に拾っている。そんな中、僕は必死にプレイリストをスクロールするが、出てくるのは桜井さんの曲ばかりだ。最近の流行曲など、全く知らなかった。熱気のこもった密室のせいか、嫌な汗が一筋、背中を流れる。

 浜田さんは、マイクを入れてはいないものの、優馬くんと一緒に歌を口ずさんでいた。五百木さんは声は出していないけど、口パクで歌い、手拍子で場を盛り上げている。

 そんな二人の光景を見て、自分がひどく場違いであるように感じてしまう。

 やがて優馬くんが歌い終わり、マイクを中央のテーブルに置く。彼は満足したようで、ソファに腰を下ろし、頼んだポテトを摘んだ。ケチャップの匂いが微かに僕の鼻まで届いた。

 画面には次の曲が表示されている。僕の知らない歌だが、さっき優馬くんがロック界で有名なものだと教えてくれた。歌うのは浜田さんだ。

 アップテンポな曲が始まると、彼女はリズムに合わせて手や腰を振りながらマイクを握っていた。

 そのとき、優馬くんがテーブルに置いてあったタブレットを僕に渡してくれる。

「久保は、何歌う?」

 僕は優馬くんに聴こえるように大きめの声を出して、

「ごめん、流行の歌とかあんまり知らなくて……」

 と言う。それに対して、

「別に歌いたいやつでいいぜ」

 と優しく言ってくれた。僕は力なく頷いて、タブレットを受け取ると、桜井さんの曲で一番YouTubeの再生回数が多い曲を入れる。

 画面の右上に予約されたことが示されて、途端に緊張してきた。そんな僕の様子なんてまるで関係なく、浜田さんは楽しそうに踊っている。

 しばらく、それを遠目に眺めていると浜田さんが名残惜しそうにマイクのスイッチを切った。そして78点と大きく数字が映し出される。

「あちゃー」

 といいつつも、浜田さんは笑っていて気にしていないようだった。

 僕はこっそりとスマホの時計を確認する。時刻はすでに一時を大きく回っていた。財布の中には、かろうじて千円札が残っている。優馬くんがクーポンを使ってくれたおかげで、映画代はなんとか死守できた。しかしそもそも、今日映画に行けるかわからない。僕は不安になったが、表情に出しては行けない。断れなかった自分が悪いのだ。

 そこで、次の曲のイントロが流れ始める。

 このメロディーは僕にも聞き覚えがあった。確か、少し前に流行った失恋ソングだ。マイクを握ったのは五百木さんだった。

「っスゥー」

 彼女が息を思いっきり吸い込む音が、やけにはっきりと聞こえる。そして次の瞬間、間違いなく部屋の空気が変わった。

「上手い」

 五百木さんの歌声は第一声から次元が違った。思わず声が漏れてしまったが、それが自分の耳にも届かないほどの声量。そして、その量を上回るほどの質。

 清く透き通った夏の川みたいな声が、歌詞に沿って緩やかと流れていく。それは耳の奥から染み渡り、身体中の悪い成分をきれいに取り除いてくれる。

 なにより、歌っている五百木さん自身が一番伸びやかに見えた。彼女は今、誰よりも自由だと言わんばかりに遠くを見つめ、ただ声を紡いでいる。僕は、人間にこんな表情があったなんて初めて知った。きっとどの辞書を引いても、今の彼女を表せる言葉はない。

 やがて曲はサビに入り、転調して、重たい切なさが胸に落ちる。僕は息ができなくなるのではと思う。彼女はどこで歌を習ったのだろうか。それとも天性のものなのだろうか。

 分からないけど、ただ一つ言えることは、僕は感動していた。

 歌声からこんなに多くのものを与えられることがあるなんて、知らなかったのだ。ずるい。と思ってしまった。輝いている五百木さんのことを。

 ふと、マイクを持つ彼女の姿が、桜井さんに重なった。

 よく見ると、五百木さんは顔も桜井さんに似ているようだ。

 浜田さんは胸に手を当てて五百木さんを見つめている。優馬くんは目を閉じて歌を聴き込んでいた。

 曲が終わると、カラオケの狭い室内が拍手で溢れていく。

「やっぱ上手いなー、凪沙は」

 優馬くんが言った。僕も頷いて、ささやかながら手を叩く。すぐに点数が表示された。95という数字が出たのち、ボーナス点が加わり97という数字があらためて現れる。

「ウゲーっ。高っ」

 と浜田さんが言う。五百木さんも満足げに、マイクを置いた。

 そして、次の曲が流れ始める。顔を上げて見ると、僕が予約した歌だった。

 いきなり夢の中から現実に突き落とされた気がする。

 全身に汗が吹き出し、震える手でマイクを掴む。しかし、頭の中が真っ白になっていく。それでも、前奏は進み、音程バーが現れる。僕は倒れてしまいそうになりながらも、声を絞り出す。

 誰だって五百木さんの後に歌うのはプレッシャーがあるだろう。それなのに、歌が下手な僕はなおさら良い声を出せるはずもなく、ノイズのような歌声が部屋に残っていた美しい余韻をかき消す。

 大好きな桜井さんの曲を歌っていたはずなのに、まるで知らない歌のようだ。

 今すぐにでも消えてしまいたい感覚だけが僕を支配した。

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