あお・ひ・げ
Ellie Blue
あお・ひ・げ
昔むかしあるところに、父親と三人の兄と暮らす、若く美しい娘がいた。
娘らの住む土地の領主はたいそう金持ちな男で、見るも恐ろしい青い髭を生やしていることから「青髭」と呼ばれ恐れられていた。領主青髭が恐れられていたのはその風貌からだけではない。彼と結婚した女はみな、ことごとく行方不明になっているのだ。
その青髭がある日、娘を妻に迎えたいと家を訪れた。その時に娘と家族は、六人目の奥方が例の行方不明となったことを知ったのである。
「あの男の元へ嫁ぐだって?」
「俺たちのかわいい妹だぞ!」
「そんなの、絶対に反対だ!」
青髭が要件を伝えて立ち去った後。暖炉の細い火を囲んでなお全身をかじかませながら、五人家族は額を寄せて話し合った。
その折、父親が激しく咳き込んだ。もうずっと長いこと続いている咳だ。……この一年は、厳しい年だった。春の長雨、冷たい夏、日の差さぬ秋。もはや冬に差し掛かる時分だが、家の蓄えはほとんどない。娘は父の背をさすりながら考えた。――でも、もしも私が領主の妻となればどうでしょう――と。そうすれば今まで年貢を搾り取っていくばかりだったあの恐ろしい青髭から、今度は最も近しい親族として援助を受けられるのだ!
「行きましょう」
娘はきっぱりとそう言った。父親も兄たちも必死に止めたが、家族を救うためだと悟った娘はガンとして譲らなかった。
娘が青髭の元に嫁いでからは、これまでのひもじさが嘘のように、何一つ不自由のないどころか、何もかもが有り余るかのような暮らしとなった。驚いたことにと言うべきか、青髭は娘の望むことを何でも、嫌な顔の一つもせずに叶えてやった。娘の父親の長く続いた咳も、滋養のある食糧と、潤沢な薪どころか贅沢な羽布団やら毛皮やらの贈り物で、ほどなくして快方に向かったのである。
「ありがとうございます旦那様。それでは私は、日課のお祈りに」
夕食を終え、城の塔へと向かう若妻を青髭はにこにこと見送った。
石造りの塔を上まで登りきり、開いた小さな窓から夜空を見上げて両の手を組む。……否、娘が見るのは空ではない。娘は地面に視線を落とし、小さく手を振った。眼下には三つの灯り。三人の兄だ。兄たちは馬を駆り、たいまつを掲げて城のそばを走っていく。嫁いでいった妹の安否を確かめるために、毎日決まった時間に城の塔から顔を出すことを約束していたのである。
そのことを、今頃ダイニングで
ある日、青髭が長旅に出ることとなった。出立の際、青髭は若妻に鍵の束を手渡した。
「私が留守の間、これを預ける。城中のすべての鍵だ。宝物庫の鍵に衣裳部屋の鍵、秘蔵の酒棚の鍵に図書室の鍵。どこでも好きな扉を開けて暇を慰めると良い。もちろん友人らを呼んでパーティを開いても構わないし、その彼らが鍵を開けた先の部屋に入ることも喜んで認めよう。ただし」
青髭はぐいと腰をかがめ、顔を娘の目の前に寄せた。青い髭の生えたその恐ろしい顔を。
「一番小さな鍵。それだけは、決して使ってはならぬ。もし
そう静かな声でささやいた後、青髭はかがめた腰を元に戻した。
「では、行って参る」
そうして城の扉は閉められた。バタンと大きな音が鳴る。それはまるで冬の冷たく吹き荒ぶ風の仕業のようだった。
残された娘は鍵の束をじっと見つめた。青髭が一つ一つさも自慢げに紹介したそれら美しい装飾の施されたどの鍵にも、興味は湧かなかった。生活を成す以上の財は自分には不要と思えたし、何よりも、〝そこに彼の秘密はない〟ことは明らかだったからだ。
娘は嫁いで来てからのことを思い起こす。青髭は、娘に指一本たりとも触れようとはしなかった。まるで手を触れてしまった途端、泡沫のように消えてしまうとでも恐れるかのように。それは娘からして見ると、〝恐ろしい領主青髭〟の印象とはあまりにかけ離れた態度だった。そこに優しさすら感じ取れるような気さえもした。……その一方で娘は、青髭がある日狩猟に出かけた時、そこで捕らえて来た若い牡鹿を嬉々として潰す際の、獣よりも獰猛な喜びに満ちた表情を、脳裏から拭い去ることはできずにいた。
――青髭。彼はいったい、何者なのかしら。……禁じられた部屋に行けば、何かが分かるかしら――
数日の間、取るもの手につかず逡巡した後、ついに娘は意を決してその鍵を使うことにした。
青髭は、その一番小さな鍵がどこの扉を開けるためのものなのかは言わなかった。だか娘にはすぐそうと知れた。あの、薄暗い地下室の更にその先にある小さな木の扉だ。
鍵穴にそっと鍵を差し込んで回す。カチャリ。錠の開く小さな小さな音。しかしその音は、青髭のいない静まり返った城の中で、異様に大きく響いた気がした。そろそろと扉を押して開く。その先の暗がりに、娘は一歩足を踏み込んだ。
足元から水音が鳴る。部屋はひんやりとしていて、水でも結露していたのだろうかと思う。……否、ひんやりと、と言うには異様に空気が冷たい。更に言えば、これは気温が低いと言うよりは、むしろ……。
暗がりに目が慣れてきた。娘は部屋の中をゆっくりと見回す。
「ひ……っ!」
部屋の中には女の死体がぶら下がっていた。ひい、ふう、みい……、その数は全部でむっつ。だらりと吊られたその中に、娘のすぐ前、六人目の奥方の姿もあった。変わり果ててはいるが、その見事な巻毛は見間違えようがない。
これにはさしもの娘も驚いて、思わず鍵の束をその手から取り落した。ガチャン、と音をたて、鍵の束は水溜まり改め、血溜まりの中へ。鍵を落とした音は、何かが壊れる音と似ていた。その音が責め立てるように地下室中に反響する。娘は浅く短く息を吐いた。鼻からではなく口から。肺に忍び込んでくる血生臭い空気を、わずかばかりでも追い出そうとするかのように。心臓が早鐘を打つ。開いた口から今にもそれが飛び出してしまいそうだ。
――ああ、何てことなの、これは……――
娘は固まりついた体をどうにか動かして鍵の束を拾い上げると、その部屋を後にした。
地下から戻った後。娘は日々、鍵の束を手に取り見つめている。鍵はいずれも欠けたり壊れたりなどはしていなかった。みな元のままだ。だが唯一、あの扉を開けた一番小さな鍵にこびりついてしまった血の染みだけは、決して消えることはなかった。赤く赤く色づいたそれは、まるで裁判の果てに画一的に下される、〝其れが汝の罪だ〟と押し付けられた判のように。
旅先から帰って来た青髭は、返された鍵の束を一目見て、娘があの部屋の鍵を開けたと知る。否きっと恐らくは、玄関ホールで彼を出迎えた娘の態度で、もはやすべてを悟ったのだろう。
玄関ホールに二人立ち尽くす。鍵の束を片方の手で握った青髭は、もう一方の手で後ろ手に城の扉を閉めた。バタン。音が鳴る。冬の風が城の中に吹き込んで、冷え切った空気がその場を支配した。
「……お帰りなさいませ、旦那様……」
「……今日は、先に祈りの時間にするかね。もう食事なぞ、お前には必要無くなるのだから」
青髭の声が無慈悲にそう告げる。娘は血の気の引いた顔で
引っ立てられるようにして、娘は石造りの塔の下まで連れて来られた。そのまま登っていくように促される。
塔の階段に足をかけた時、青髭は娘の背中に向かって声をかけた。
「小枝で十字架を作ってやろうか、それとも、お前の目の前で大きな十字架を掲げてやろうか」
娘は黙って首を横に振った。――
――
娘は塔の上まで登りきる。……青髭が娘に祈りの時間を与えてくれたのは僥倖だった。そして娘は不思議に思わずにはいられない。――どうして、私にそんな猶予を……――
娘はぐいと顔を上げた。いつもの時間より幾分か早いが、このくらいの時間であればきっと……。開かれた小さな窓から身を乗り出す。娘は叫んだ。
「兄さま、兄さま、兄さま……!」
しかしまだたいまつの灯りは見えて来ない。地平に沈んでいく夕日の赤が見えるのみである。
やがて、痺れを切らした青髭の声が階下から響いてきた。地獄の底から鳴り響いてくるかの如き恐ろしい声が。
「まだなのか!」
まだ見えない。まだ……。
「どうなんだ、早くしろ!」
ああ。早く、早く……!
「もう良いだろう、さっさとこちらへ来い!」
そうして、ああ、ついに!
娘は地平の彼方、太陽の沈んだ場所からこちらへ向かって来る三つのたいまつの灯りを見た。思い切り両の腕を振って、兄たちに己の身の危機を伝える。兄たちは直ちに馬の向きを変え、城の玄関口へと向かった。
「ええい、行くぞ!」
声がそう叫ぶ。それは果たして誰の声だったか。娘は意を決して塔の階段を下へと向かった。見届ける、義務がある。そういう不思議な確信にも似た思いが、胸に渦巻いていた。
階段を降りきる。娘はそこで、怒り狂った形相の青髭にむんずと腕を掴まれた。青髭はもう片方の手で思い切り剣を振りかぶる。たっぷりとこれ見よがしに振りかざされた青髭のその腕を、扉を蹴破って飛び込んできた兄の手が、はっしと掴んで止めた。
そこからはもういとも容易い、結果の見えた、戦いにもならない戦いだった。かたや青髭は歳を取って力を失い、かたや兄たちは若く力に満ちていた。差は歴然で、おまけにそれが三人がかりでは到底、敵うわけがない。青髭は三人の兄たちによって、娘から引きはがされ、剣も遠く投げ出され、その場に膝をつかされる形で押さえつけられた。
「お前、お前……っ」
青髭は娘に刺すような視線を注いだ。喉奥から絞り出す声。その青い髭がわなわなと震える。
「
ごう、と音を立てて燃え上がるようだった。ただ次の瞬間には、その炎はフッと消え失せた。
「――ただ、
その首がガクリとうなだれる。青髭はそのままぶつぶつと声を漏らした。
「ああ、誰だ。私は、誰だ。誰なのだ。人は私を〝青髭〟と呼ぶ。それは確かに今ここにいる私を指す名だ。しかし、しかし、私には。私には、もっと別の、名前が……」
何か様子がおかしい。兄たちは青髭を取り押さえる腕にいっそう力を込めた。当の青髭は、焦点の合わない目でぼうっと辺りを見回し、己を掴み押さえつけている三人に向かって、彼らにたった今気がついたように口を開く。晴れ晴れとした声だった。
「おお、ああ、間に合ったか、間に合ったのか……! 天晴れ、天晴れだ! 何たること。我が悲願、我らが悲願が! そうか、そう、そうだ、そうであろうな!なぁ、ラ・イール、デュノワ伯に、アランソン公! あの駆け廻った瞬きの日々、綺羅星の如き輝かしき我が盟友よ!」
「……この男は、気でも狂ったのだろうか」
「いったい、誰のことを言っているのやら」
「そんな名など、ついぞ聞いたことがない」
「……良いの、兄さま方。言わせて、差し上げましょう……」
いぶかしがる兄たちに、娘は静かにそう言った。
「きっと私たちには分からない、私たちからは届かない、遠く遠くのどなたかに、彼は言っているのだろうから」
青髭は今一度顔を上げた。そうして天を振り仰ぐ。もう何の姿も、その目には映っていないようだった。兄たちも、娘も、〝青髭〟たる自分自身すらも。
「神がおわすなら、神がおわすなら、ああ真に神がおわすなら、必ずやこの
青髭のその瞳は濡れていた。
「これが私の祈り、これが私の願い。これが、たった一つ私に遺された最期の! ああ、乙女よ!」
青髭は押さえつけられた腕を振りほどき、両の手を広げた。娘に向かって、あるいは――
三人の兄たちはうなずき合うと、ひと思いに青髭の首をはねた。
ああ、よかった。そう口にしようとした青髭の喉は首ごと切り裂かれ、その言葉は霧散した。
かくして青髭は死した。それから娘とその家族は、他に親族もいなかった青髭の遺産を受け継いで新しい領主となり、いつまでもいつまでも幸せに暮らした。
それは遠い遠いおとぎ話。その中の、一つの物語の出来事である――
おしまい
~次頁に、解説を設けました。よろしければぜひお読みください。~
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