私の世界

@animal0904

第1話

私は、目が覚めるとあたたかくて、色んなニオイのするところにいた。聞こえる音や吹いてくるそよ風、そして何よりこのニオイにとてもわくわくした。ここはどこだろう。何のためにいるのだろう。いろんな疑問があるけど、とにかく今はお腹がすいた。自分の思う通りに体を動かせない。時々やってくるヒトに体中を触られて、おしりを触られて、なんだか怖くて泣き叫んだ。どんなに泣き叫んでもやめてくれない。このヒトたちは敵なのか、味方なのか。同じヒトが来ることもあれば、はじめてのヒトが来ることもある。どちらにしろ、同じようなことをされて、私は泣くことしかできなかった。普段は箱のようなところに閉じ込められて、一日に何度もいいニオイのするものが運ばれてくる。よく見えないが、その得体のしれないものをとにかく必死に舐めた。それを舐め終わると眠たくなって眠る。そうして一日を終える。幸せとはなにか、不幸せとはなにか。その時は、考える時間すら惜しかった。お腹が減って、満たされると意識を失う。体中を触られて起きる。泣き叫んで力尽きて眠る。時には、足やおしりに激痛が走る。耐えて耐えて耐える。これが私の生きるということだった。

目が覚めてから、どれくらいたっただろう。体中を触られることが少しずつ不快に感じなくなった。いや、気持ちく、もっと触ってほしいとさえ思うようになってきた。目がよく見えないため、触り方や特徴的なにおいで、「あ、このヒトだ、もっともっと」とねだったりもしてみた。私のきもちが通じることもあれば、もう少し触ってほしいのに、再び閉じ込められる。どうやら、私の言葉は通じないようだ。私も、自分以外のヒトたちの言っている言葉は9割ほどわからない。わかったことは、「ゴハン」。この言葉を聞くと、いいニオイがする。満たされる。このとき私は、幸せだと感じた。

おしりの激痛が4回終わって少し経つと、いつもいるところより広い世界に連れていかれた。怖いという気持ちと、わくわくが同じ勢いで私を満たしていく。いつものいいニオイとは別にいろんなニオイのするところだ。見張られながらも、私は目一杯楽しんだ。走り回った。見張りがいてもいいから、またここに来たいと思った。そんな幸せな時間も終わりだ。見張りに連れ戻された。私のもっと走っていたい気持ちはやはり通じない。


ある時、いきなり押さえつけられおしりや腰あたりに激痛が走った。久しぶりに泣き叫んだ。いまだにどんなに泣き叫んでも言葉も気持ちも通じない。少しこのヒトたちに対して不信感が湧く。いつもは優しく触ってくれるのに、激痛が走るときは体を動かせないように押さえつけられる。そして、久しぶりの激痛が終わると、眠くなってきた。いや、眠いというのか、意識が朦朧とする。力が抜けて、疲れがどっと来たのか。すると今度はすぐに同じヒトがやってきて、はじめての場所に連れていかれる。明るくて、鼻につく嫌なニオイがする。「だめだ、眠い。眠ってもいいものか。なにか嫌な予感がする。なにか、私が私じゃなくなるような、怖い、怖い…」そう考えている間に眠ってしまった。眠っている間は、気持ちがよく、いい夢を見た気がする。どんな夢だったかな、見たことないくらい大きな世界にいる。

そして目が覚めた。お腹が痛い。だめだ、動けない。変な装置が私の手につながっている。いいニオイもしない。お腹もすかない。ときどきヒトがやってくるが、今度は触らず眺めては消えていく。そしてまた、眠った。


誰かに触られて目が覚めた。手につながっている装置を外してくれた。助けてくれただろうか、少し痛かったけど、変な違和感がなくなった。おしりの激痛にも慣れてきた。それから、いいニオイのするもの、つまり「ゴハン」とやらがやってくる回数が、減った気がする。お腹はすいているのに、以前の半分以下の頻度のような気がする。嫌われたのだろうか。変な装置のせいで、以前の私と何かが違う。ゴハンはいい歯ごたえのするものになって嬉しかったのに、やってくるヒトの態度が違う。触られることも、前より少ない。ときどきやってきて触ってくれるのを待つようになった。触られることは以前と変わらず気持ちよかった。体中撫でまわされても、キスされても、最初のころのように嫌な気はしない。気持ちが通じなくてもいいと思った。「ゴハン」という音と一緒にやってくるいいニオイと、満たされた後にいく夢の中。忘れたころにやってくる激痛もだんだんと、雰囲気でわかるようになってきた。お腹はすく一方だが、少ない「ゴハン」にも耐えた。今度はいつまたあの広い世界に連れて行ってくれるのだろうか。有り余っている力を出し切りたい。もしかしたら、あの時行った世界にも違う世界があるのではないかと、妄想するようになった。あの時感じたニオイ。あれは何のニオイか。ヒトのニオイでもあるが違う気もする。「ゴハン」のニオイでもない。もっと感じたい、わくわくしたいと待ちわびていたその時、あの見張りが見えた。もしかすると、と思い叫んでみた。「あの時連れて行ってくれたところにまた連れて行って、お願い。お願い、早くまた行きたい。おーい、こっち見て。こっちに来て。」見張りのヒトは私に気づかないふりをして、通り過ぎてしまった。私は泣きたくなった。どうして通じないのか、どうしてこんな仕打ちを受けているのか。ただ走りたいだけなのに、有り余っている力を出したいだけなのに。そう思っていると、見張りとは違うヒトがやってきて、私を連れ出す。すると、あの広い世界に連れ出してくれた。「あなたは誰?誰かわからないけど、ありがとう。」そう言って私は、走りまわった。この前と同じように見張っているが、少し違うニオイのする時間だった。この場所も、この前とは違うニオイをたくさん感じる。走っても走っても、もっと走れる。そんな気がして、連れ戻される前に走り切らないと、と私は必至で走った。見張っているヒトは、何か言っている。ちゃんと通じるように言ってほしいが、不快ではなかった。今回の見張りのヒトは、優しいニオイがする。この間の見張りのヒトも嫌いではないが、今回のヒトは前回よりもずっと長く走らせてくれた。私は走りながら何度も「ありがとう、ありがとう」と叫んだ。通じている気がした。嬉しくて、嬉しくて泣きたくなった。そして、またいつものところに連れ戻された。私は満足だった。こうしてときどき、走って笑って、「ゴハン」で満たされて眠る。そんな時間が続いた。

相変わらずおしりの激痛はやってくる。もう抵抗もしない。いちいち抵抗するのも疲れるから、歯を食いしばって我慢する。「ゴハン」とときどきやってくる走り回る時間さえあればよかった。変な装置をつけられたことはすっかり忘れていた。あのときのおなかの痛みも、今はまったく感じない。


どれくらい長くここにいただろうか。ふとそんなことを考えながら「ゴハン」を待っていると、たくさんヒトがやってきて、私のことをじろじろと見ている。何だろう、感じたことのある感情が私の上に覆いかぶさってくる。いつもの見張りのヒトはいない。助けてほしいのに声が出ない。震えが止まらない。じろじろ見てくるヒトたちは、ずかずかと私の領域に入ってきて、体中をべたべたと触る。怖くて、泣きたいのに、体が固まって抵抗さえできない。このヒトたちに私の言葉は通じるのだろうか。「私に触らないで」そう声を上げると、動きが止まった。通じたのだ。私は初めてヒトと言葉を交わしたことが嬉しくて、「いつものヒトたちが触るみたいに優しくなら触ってもいいよ。」と、控えめに言ってみた。すると、また動き出していろんな音が混じる中、控えめで優しく触る感触を感じた。甘いニオイと心地いい音とともに、その優しさはしばらく続いた。いろんな音が混じっている。おそらくこのヒトたちにしかわからない言葉で通じ合っている、私だけ仲間に入れない。でもいいのだ。この甘いニオイのするヒトは違う、私の言葉を理解し、優しく温かいこの感触に、私は「幸せ」を理解した。感じたことのある「幸せ」とはまた違う。前より、温かく心地よく、じんわり私のなかに入ってくる。わくわくとも違う。「…幸せだ」


お腹がすいて目が覚めた。「…ここはどこだ」あの甘いニオイがかすかにするのに、見当たらない。どこかで音がする。目の前は暗い。すると急に眼の前に甘いニオイがぶつかってきた。気が付くと、いつもより狭く冷たく、不思議なニオイがする。狭すぎてうまく動けない。私は気づいた。「どこかに連れていかれる。」私はあの甘いニオイのするヒトにすがる気持ちで言った。「助けて、怖いよ」今度は通じなかった。何か言っているようだがわからない。きっと、私に言っていない、そう直感した。それも束の間、私は狭いところから追い出されるようにして、甘いニオイのするヒトに連れ出された。私の気持ちをわかってくれた。甘いニオイは見張ったりもしない。はじめて来た場所だが、怖くなかった。この甘いヒトがいれば大丈夫な気がした。ついていくと、おなかがすいていることに思い出すと、そのことを知っていたかのように、甘いニオイと一緒にわくわくするニオイがやってきた。ニオイだけじゃない、いろんな歯ごたえがした。私はこれを「おいしい」と学んだ。甘いニオイと「おいしい」は、いつも一緒にやってくる。相変わらず見張られているのに、前より自由だ。体を触れるのも嬉しかった。どんなにおしりを触られても、キスされても、甘いニオイがすればよかった。「おいしい」が来るのは毎回ではなかったが、その分自由に動くことが許された。時間が経つにつれて、甘いニオイのヒトと過ごす時間は減った。触られる時間も減った。自由に動けるのに、前よりも動くことが少なくなった。おなかがすいて泣き叫ぶこともなくなった。「おいしい」が来る頻度は減ったけど、私はそれよりもいろんなことを学べることが嬉しかった。このヒトたちの言葉をたくさん聞いていると、少しずつ理解できるようになってきた。甘いニオイのするヒトは、リョウというらしい。リョウは私のことを、「ユメ」と呼んだ。ほかにも、「リュウ」というヒトもいるようだ。リュウはあまり優しくなかった。「おいしい」をくれるのはいつもリョウ。リュウが私を触るときはいつも水をかけられた。寒くて、気持ちが悪くて、それでもリュウは私の言葉がわからないためやめてくれることはなかった。リュウとの時間も定期的にやってくる。我慢すればほめてくれるが、リュウの出す音は怖かった。おなかがすいたから何か食べようとすると、とりあげられ目の前でそれをリュウが食べる。そんないじわるはずっと続いた。リョウは、なんでも与えてくれた。なにより「おいしい」を持ってきてくれるのはリョウだけだったから、私はリョウが大好きだった。私を触るときも優しく、水をかけることもない。あたたかく、じんわり私の中に入ってくる。頻度は減っても、一回の時間は減らなかった。その時間は決まって夜だった。対して、リュウの私を触る、寒くて気持ち悪い時間は決まって明るい時だった。頻度はリョウよりずっと少ないが、一回の時間はずっと長い。私は、水をかけられるたびに泣き叫んだが、決まってその時間にリョウの姿を見ることはない。リュウのいじわるはこれだけではない。定期的に私が初めて目が覚めた場所に連れて行って、そこで知らないヒトたちに私を差し出す。そこでいろんなところを触られては、おしりに激痛が走る。リュウは、私の中で逆らえない存在へとなり、リュウの指し示す気持ちを汲み取ろうと私は必至だった。なんでもいうことを聞くから、もう怖いことをしないで、怖いところに連れて行かないで、そう何度も泣き叫んだが何も変わらない。


リョウといつものように「おいしい」時間を楽しんでいるときだった。おなかがいたい。痛みを我慢できず私は座り込んだ。痛くて、おしりから出る血や液体を止めることができなかった。リョウの目から水があふれている。私は大丈夫だよ、そう伝えたいのに言葉を発する力が出ない。すると、すごい勢いでリュウが走ってきた。リュウから感じるのは、怒りや恐怖だった。また怖いところに連れていかれる、いや痛いことをされる、水をかけられる。そう思った。リュウは私をかかえて移動したと思ったら、右手に激痛が走った。すると、痛みのせいだろうか、口から次々と変形した「おいしい」が溢れてきた。私は、口から出るものを呆然と眺めていた。すべて出きったとき、もう痛みを忘れていた。私はリュウにしたがってついていくと、リョウがいた。リョウは私を抱きしめて、いつもの温かく優しく、甘いニオイで包んでくれた。私は必至に「大好きだよ、助けてくれてありがとう」と言った。その光景をリュウが見ているのに気づいていたが、そんなことはどうでもよかった。今はただ大好きなヒトに包まれていたかった。


その日の夜、私はリョウの隣で眠った。その隣にはリュウもいたが、リョウが守ってくれると安心していた。しかしその夜私は初めてリョウに殴られた。ときどき落ちてくるリョウの腕は、何度も私の顔を直撃した。私はわからなかった。いつも優しいリョウが、いつもの暗闇の中で、冷たく顔や体に入り込んでくるこぶしが、私を眠らせなかった。

朝になるといつものリョウに戻っていた。私を温かく包み込む。私は殴られたことなど、すっかり忘れて甘いニオイに埋もれていた。私の中に入ってくるリョウを遮るように、リュウが大きな音とともにやってくる。リュウはリョウから私を取り上げて、なにか言っている。私のわからない言葉で、私がいないかのように、リョウに怒りをぶつけているようだ。その朝、私はリョウから「おいしい」をもらえなかった。その代わりに、リュウに毒のようなものを口に突っ込まれた。苦くてまずい。吐き出そうとすると、口が開かないように塞がれた。私はリュウが怖くて、毒を飲み込んでしまった。私は、死ぬのだろうか。この毒が効くのに、どれくらい時間があり、どれくらいリョウとの時間を過ごせるのか。私はそんなことを考えていると、リョウがいないことに気づいた。「リョウ」と叫んでみたが、リュウが現れたので、叫ぶのをやめた。リュウはこっちを見ている。私はおとなしく座った。すると、リュウが近づいてきて、初めて私の頭にやさしく振れた。私は不思議な気持ちになった。おかしい。いつも怖いリュウが、一瞬優しく感じた。そんなはずはない、と自分に言い聞かせた。

バタバタとした音とともに、リョウが見えた。甘いニオイがする。よかった、毒が体を食い荒らす前にリョウに会えた。私はリョウに会えたのが嬉しくて、リュウの目を気にせず、リョウに飛びついた。


リョウとリュウと過ごしてずいぶん経った。時間とともに、リョウのニオイが変わっていく。リュウの体型も変わっていく。私は、ここにきて自由を手に入れた。いまだにいろんな人に触られる時間は、ときどきリュウとともにやってくるが、リュウから感じたあの優しさを思い出すと、そんなに怖くないことに気づいた。激痛に耐えれば、リョウとリュウは幸せになる、そう信じて黙って耐える。そうして、リョウから甘いニオイと温もりをもらう。私は、おかしくなったのかもしれない。でもいいのだ。リョウが幸せならいい。リュウからのいじめにも耐えられる。リョウとリュウの幸せは、私の幸せ、そう思うことで生きていける。

広い世界に行かなくてもいい、きっといつかまた連れて行ってもらえる。いつものように、リョウから「おいしい」をもらって、少し眠ろうかと思っていると、リョウがリュウに連れていかれた。私は何が何かわからず待っていると、リョウがかえってきた。いつもより甘いニオイを連れてきた。私はその甘いニオイに近づきたいと思った。目の端にリュウをとらえながら、リョウとリョウの持っている甘いニオイに近づいた。これは小さなリョウだ。そう思った。


その小さなリョウはどんどん大きくなる。まるで、リョウの温もりと甘いニオイを私から奪い取っていくように。私はどんどん小さくなる。小さなリョウに吸い取られる気がして怖かった。ある時、小さなリョウが言った。「ワンワン、ワンワン」私はこの音を聞いて思った。「あ、甘いニオイだ」

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