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蛍斗けいとの言った通り、彼の家は店の近くにあった。どこにでもありそうな、2LDKの普通のマンションだ。


「一人暮らし?」

「…兄と。澄香すみかさん、こっち」


リビングに通され、ソファーに促される。男兄弟の二人暮らしとは思えない程、部屋の中は綺麗に整えられていた。

部屋の隅には大きめの観葉植物があり、壁際には、テレビや戸棚等が置かれ、部屋の中央には大きなソファーにローテーブルがある。

そのままダイニングの方へ目を向けると、そちらも綺麗に整頓されてはいるが、生活感もちゃんとあった。クリップで止められた食べかけの食パンの袋や、伏せられたコップ、冷蔵庫にはスーパーのチラシが貼られている。

澄香は蛍斗に対し、黒と白の無機質な部屋を思い描いていたので、この生活感が少し意外だった。


「ピアノは無いの?」

「俺の部屋にありますよ」

「へぇ、見たいな!」

「見せません、散らかってるんで」

「散らかってる位、平気だよ」

「…あなただから恥ずかしいんです」

「え?」


きょとんとしていると、キッチンから、ワインボトルとグラスを持って蛍斗が戻ってくる。蛍斗は澄香の隣に座ると、じ、とこちらを見つめてくる。その瞳はどこか熱っぽくて、澄香は思わず胸を震わせた。


「…赤くなって可哀想」


指先が目元を辿り、はっとして顔を背けた。


今、起きてはいけない事が起ころうとしてる気がする。

確かに、一人にはなりたくないと思ったけれど、こんな雰囲気になる事は想像していなかった。


「………」


そう思いかけ、澄香は軽はずみな自分の行動に、後悔した。


今の妙に甘い空気を、全く、想像出来ていない訳ではなかった。

蛍斗がどういうつもりかは分からないが、妙に近い距離感は思わせ振りだったし、それを勝手に否定して、見ないふりしてついて来たのは自分だ。


「澄香さん?」


名前を呼ばれ、澄香は戸惑いながら再び蛍斗を見上げる。いつの間にか手を握られていて、逃げ腰の澄香を逃がすまいと、その瞳が訴えているようで、不安が胸に募っていく。

この感覚は、まずい。そう思えばますます気持ちは焦り、澄香の余裕をなくしていく。


「な、何?あの、話すんじゃないの?」

「あなたの事を教えて下さい」

「は?」


そっと引き寄せられ、顔を上げさせられる。綺麗な瞳が、艶やかに自分を見つめている事に、澄香は恐怖を感じ始めていた。


「誰があなたをこんな風にしたんですか?俺なら絶対させないのに」

「ちょ、近いって!」

「嫌?」

「い、嫌っていうか!な、何だよ口説かれてるみたいじゃん、これ!」

「口説いてますよ」

「え…」


もうどうにもかわせなくて、冗談めかして笑おうとした顔が固まった。


「澄香さん、男が好きなんでしょ?澄香さんを傷つけるような男より、俺の方が良いですよ」


優しい顔をして、蛍斗は澄香をソファーに押し倒す。ソファーの座面が背中に当たり、蛍斗が自分を見下ろしているこの状況に、澄香は信じられず固まった。

分かっている、この先に何が起きようとしているのか、それでも理解が追いつかない。


本気なのか、この男。


「優しくします、忘れさせてあげますから、俺を選んで」


呆然としていた澄香は、蛍斗の顔が自分の顔に近づくのを見て、はっと我に返った。


「ちょ、待て待て待て!冗談だろ!?」

「冗談でこんな事すると思いますか?どうせ、ろくな男じゃなかったんでしょ?そいつ。それに、誰かに構ってほしかったなら、俺で良いでしょ」


というか同性もいけたのか、この男。それより、何故蛍斗は自分の性癖を知っているのか。

いや、その前に。

澄香はぎゅっと唇を噛み締めた。冷静になればなるほど、腹立たしさがこみ上げてくる。

男が好きなだけで、男なら誰でも良いと思われてるのかと。


蛍斗とのやり取りを思い返せば、弱っている所をつけこまれて、自分がそれに乗ってしまったと、それは分かる、自分でもバカをしたと思っている。


だけど、と、澄香は、蛍斗を睨み上げ、その胸を押し返した。


「男なら誰でも良いって訳じゃないし!こういう事したいなら他当たれよ!お前なら選び放題だろ!」


悔しかった。仁の事までバカにされた事が、今までの真剣な思いが踏みにじられた気がして、悲しかった。


それを、あんなにキレイなピアノを弾くこの男に。


それが、自分のまいた種だと思うと余計に情けなくて、澄香は泣きそうになるのを懸命に堪え、苛立ちのまま蛍斗を押し退けようとしたが、逆にその手を掴まれソファーに縫いつけられる。華奢だと思っていたのはそう見えただけなのか、ピアニストとはこんなに力自慢だったのかと、澄香は自分が彼より非力な事に軽くショックを受けた。


「あんたじゃなきゃ意味無いんだ!」


そんな中、必死とも思える蛍斗の言葉に、澄香は驚いて顔を上げた。

蛍斗は遊び相手が欲しかっただけだろう、そう思っていたのだが、だったら、自分でなければ意味がないなんて言うだろうかと、澄香は再び困惑した。

本気、なのだろうか。

見上げた蛍斗の瞳は縋ってるようにも見え、今まで見たどれとも違う様子に、澄香は瞳を揺らした。


「澄香さん、」

「まっ、待って、」


その時、玄関の鍵が開いた音がした。きっと、同居している蛍斗の兄が帰って来たのだ。


「まずい!どけ!」

「嫌です!」

「はぁ!?ふざけんな!」


嫌だとはさすがに理解出来ない。蛍斗が何を考えているのか分からないが、澄香は、誰かに押し倒されている姿を見られる趣味はない。

蛍斗の腕から這い出るには腕の力だけでは敵わないので、とにかく足をばたつかせ、申し訳ないが腹を蹴飛ばした。う、と呻き声が上がったが、想像したよりも腹の感触は硬く、またしても自分と比較してショックを受けかけたが、今はそれどころではない。澄香は急いで体を横にずらし、蛍斗の下から這い出る事が出来た。ソファーからずり落ちる格好になったが、そんなの構っていられない。人に見せるようなものではないし、何より蛍斗の兄に見せて良いものではない。


けい、お客さんか…」


そして、帰って来た人物に澄香は言葉を失った。


「え…」


リビングにやって来たのは、じんだったからだ。

仁も、澄香を目にして固まっている。


「え、なんで澄香が、」

「う、嘘だろ…」


どうしてここに仁が。

澄香は慌てて立ち上がると、二人から距離を取って交互に顔を見た。ここに仁が居る意味が分からなかった。


「なんで仁が居るんだよ!どういう事だ!」


叫んで、二人の顔を見てはっとする。驚いて戸惑う仁と、俯いたままの蛍斗。混乱しっぱなしの頭をどうにか回転させ、澄香が辿り着いた答えは一つ。

蛍斗が、仁の恋人だからだ。仁は、蛍斗の事が好きになったから、自分に別れようと言ったのではと。


「それはこっちの台詞だ!二人で何して…、まさか別れてすぐにもう新しい男か!?」


仁はその表情を次第に怒らせて、そんな事を言う。混乱続きの澄香は、もう冷静にはなれなかった。


「は!?なんでそうなるんだよ!大体、俺を振ったのは仁のくせに!俺が何しようと関係ないだろ!」

「関係ある!」

「な、何でだよ!まさか、本当に、」

「蛍斗は俺の弟だからだ」

「え、」


恋人ではなく、弟。


「…は?」


その事実が受け止めきれず、澄香はぽかんと口を開けた。

そういえば、確かに仁から弟が居る事は聞いていた。だが、あまり弟とは折り合いが良くないらしく、仁が弟の話をする事はほとんどなかった。

それにと、澄香は仁と蛍斗の顔を見比べた。何より二人は似ていなかった、兄弟とはこんなにも似てないものだろうか。戸惑う澄香の様子を見て、蛍斗は肩を竦めた。


「血は繋がってないけどね」


それは、初めて聞いた。

兄弟が似ていない理由に納得はしたが、それでもまだ、澄香は頭も心も理解に追いついていない。二人が兄弟という事もそうだが、元彼の弟に口説かれていたという事、更にその現場に元彼がやってくるなんて。思いがけない事の連続に、もう何から考えれば良いのか分からない。


「だから、俺には口を出す権利がある。家族だからな」


厳しい瞳に睨まれて、澄香は心臓が止まりそうになった。だが、胸を掴んでどうにか耐える。


何だよ、家族だから口出すって。弟の相手が俺じゃ不満なのかよ。俺の事振ったくせに。何だよ、自分だけ平気な顔して。


何だよ、俺はまだ好きなのに。


理不尽かもしれない、思いがけない事の連続で、頭も心も整理がついていないせいもある。苦しくて、悲しくて、澄香は胸に溢れた言葉を止められなかった。


「だから何だよ、仁に関係ない!これは、俺と蛍斗の問題だ!」


最後の恋だと思ってたのに、そう思ってたのは自分だけだった。仁の中に自分は何も残っていなかったのかと、それが悔しくて、だからつい、思ってもいない事を言ってしまった。


「俺は、もう蛍斗と付き合うって決めたんだから!」

「…は?」


驚く仁に、蛍斗が口角を上げて立ち上がった。


「本当だよ、澄香さんは俺のものだから」


仁を見上げ、挑むように蛍斗が見つめる。仁は一度澄香に目を向けたが、澄香は耐えきれず目を逸らし、俯いてしまう。


「…分かった、好きにしろ」


そう言って背を向けた仁に、澄香がはっとして顔を上げた。


「ど、どこ行くの、」

「…関係ないだろ」


振り返らない背中に、今度こそ心が崩れる音がした。


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