3




ポロン、と白鍵の流れる音が耳に触れ、澄香すみかは突っ伏していた顔を上げた。

白く長い指先が一旦宙に浮き、何事にも興味の無さそうな瞳がそっと伏せられれば、一拍、店内は静まり返った。その静寂を、ピアノの一音一音がゆるやかに優しく浚っていく。店内は瞬く間に、蛍斗けいとの音色に包まれていった。

無理に誘わず、けれども誰も突き放したりはしない、繊細で深みのある演奏は、澄香の傷ついた心も受け止めてくれるようだった。




じんと澄香を結びつけたのは、“のきした”だった。仁もあの店の常連客だったらしく、澄香が劇場の配達に行った時、「新人さん?」と仁に声を掛けられたのが、出会いのきっかけだ。

その当時、仁は精力的に舞台に出続けていた為、店には暫く顔を出しておらず、先代の源二げんじが引退した事も知らなかったという。

澄香が公一きみいちと店を受け継いだ事を話すと、劇場で公演が無い日でも、度々店を訪ねてくれるようになった。

それから、互いに同い年だと分かり、仁も学生時代からこの店に通っていたと知り、二人は会う度に会話を弾ませ、店の外でも会うようになり、気づけば自然と流れるように恋に落ちていた。


仁は信頼の出来る人だった。一緒にいると心が安らいだし、仁の前では何も隠さず、自然に、怯えずに居られた。そんな風に澄香を受け止めてくれる。人は、友人の公一以来、初めてだった。


だから、最後の恋だと思った。自分がここまで心を許せて、恋が出来る人はもういないと思ってしまった。




ピアノの音が止み、澄香ははっとして顔を上げた。その拍子に、ぽた、と涙が一つ零れ落ち、澄香は自分が泣いている事に驚き、慌てて目元を拭った。そうだ、拍手を送らなきゃと、澄香が再びピアノに目を向けると、ピアノから顔を上げていた蛍斗けいとと目が合った。時間にして数秒だが、まるで縫いつけられたかのように離れない視線に、澄香は一瞬時を忘れてしまう。


え、なに、なんで?


「今日も良かったよ!」


そんな声が店内のどこかから上がり、蛍斗の視線がそちらに向くと、澄香ははっとして目を瞬いた。


びっくりした、なんだったんだ、今の。


蛍斗は椅子から腰を上げ、客に会釈をしてる。その姿をまだ呆然としたまま眺めていると、再び蛍斗がこちらを向いた。その際に、にこりと微笑まれたものだから、澄香は再び驚いて目を丸くした。


蛍斗とは、店員と客として顔を合わせているが、そんな風に微笑まれた事は今まで一度もない。そもそも、蛍斗が笑顔で接客している姿を見た事がない。接客を受ければ丁寧さは伝わってくるので、彼に対して感じの悪さは覚えないが、それでも表情は無表情に近いので、愛想の良さは感じられなかった。


笑うと随分幼くなるんだな、そんな風に蛍斗の貴重な笑顔に見惚れていると、彼はそのままにこやかな表情を崩さずこちらにやって来た。これも、今まで一度もない事だ。蛍斗は演奏が終わると、さっさとカウンターの奥に下がってしまうので、いつもファンの客達は寂しい思いを抱えていた。

それが通常だったので、思いがけない事の連続に、澄香は戸惑い困惑していた。


「来てらしたんですね」


果たして蛍斗は、客に対してそんな柔らかな声で客に話しかけていただろうか。

澄香はすっかり混乱していたが、せっかく彼が隣にやって来たのだから何か言わなくてはと、焦りながら口を開いた。


「…う、うん、ピアノ、今日も良かったよ」

「ありがとうございます」


さらと金色の髪が揺れ、大きめな瞳が爽やかに細められた。綺麗な微笑みだ、普段ならきっと見惚れた所だが、今はその瞳を見るのが苦しかった。

蛍斗は、じっと澄香の目を見つめてくる。今までこんな風にじっと見られる事なんてなかったのに、それが今日に限って、それも、その瞳が心の奥を覗き込もうとしているかのようで落ち着かない。


心配でも、好意でもなく、何かを確かめるような、それでいて、どこか蔑むような。


澄香は耐えきれず、何気なくを装って席を立った。


「…じゃあ、俺、そろそろ帰ろうかな」


駄目だ、きっと情緒不安定だから、そんな風に人を疑うんだ。失礼だ、あんなに綺麗なピアノを聞いた後だというのに。


こんな自分を、仁も嫌に思ったのだろうか。

そう思えば胸の奥が重く、頭の中は再び仁の事以外考えられなくなる。甦ってきたその苦しさに、澄香は顔を伏せ、こみ上げる何かを堪えて唇を噛んだ。


「もう帰るんですか?来たばかりじゃないですか」

「うん、えっと…今月ピンチなの忘れててさ、またピアノ聞きにくるよ」


澄香は顔を上げないまま空笑い、お勘定を済ませると、逃げるように店を出た。






「澄香さん!」


店を出て少し歩いた所で、後ろから声を掛けられた。振り返ると、蛍斗が居た。追いかけてきてどうしたのだろう、まさか失礼な事を考えていたのを見抜かれ、文句でも言いに来たのか。と、妙な被害妄想に捕らわれたが、澄香はそんな自分の考えに後悔した。


「スマホ忘れてましたよ」

「え、あ、本当だ、ごめん!」


カウンターに出していたのをすっかり忘れていた。澄香は安堵してスマホを受け取る。


「わざわざ、ありがとう」


頬を緩めて顔を上げた所で、蛍斗がその頬に手を伸ばしてきたので、澄香は驚いて飛び退いた。


「はは、そんなに逃げなくても」

「ご、ごめん、びっくりして…」


蛍斗は、こんなにも人との距離感が近いタイプだっただろうか。

普段の接客を見ている限り、そんなタイプには見えなかったし、それに、ほとんど会話もしたことのない相手の、それも男の頬を触れようとするだろうか。加えて思い出すのは、先程の視線。一体、これらにはどんな思惑が込められているのかと、澄香は思わず身構えた。


「…泣いてるみたいだったから、気になって」

「え?あー、そういう…」


まさかの優しさだった。澄香は警戒心を剥き出しにした自分を恥じた。普通に考えれば、男の頬に触れるくらいなんて事ないものなのかもしれない。澄香の恋愛対象が男性だったから身構えたが、蛍斗が同じ性癖とは限らないし、いや、多分きっと、異性を愛するタイプではないだろうか。

それに、蛍斗の事は店での姿しか知らない。それを先程から、蔑まれてるだとか、過剰な反応で身構えたり、蛍斗に対して失礼だったと、澄香はほとほと自分が嫌になる。


「ごめん、何でもないんだ」


澄香は、これ以上蛍斗が不快に思わないように、更には自分が惨めにならないようにと、笑って誤魔化し目元を擦った。

蛍斗のピアノに心をつつかれて、澄香は自分でも気づかぬ内に涙を浮かべていた。演奏が終わって目が合った時、もしくは、先程声を掛けられた時に、蛍斗は澄香の目が赤い事に気づいたのだろう。

こんな風に泣いてる姿を見せて情けないと、澄香はまた落ち込んだ。


「そんな風に隠さないで下さい」


擦った手を引き寄せられ、不意に近づいた距離に、澄香は再び目を丸くした。見上げれば蛍斗の顔はすぐそこで、ハグもキスも出来てしまいそうな距離だ、驚くなと言う方が無理な話だ。


「ちょ、えっと、近い、」

「暗いし、誰も見てませんよ」

「いや、」


確かにここは路地裏で、灯りも少ない夜道だ。だが、そういう問題ではない。誰も見ていない前に、誰かが見ていたらまずいことをやろうとしているのか、そこが問題で。


何だろう、何がしたいのだろう、


同性は守備範囲外ではなかったのかと、澄香は蛍斗の事がますます分からなくなってくる。


澄香と蛍斗は、店員と客、接客以上のやり取りは今までした事はないし、蛍斗がこのようにスキンシップをしているイメージは、やはりない。女性客に言い寄られている姿を見た事はあるが、その時は、真実達、店のスタッフがすかさず間に入っていた。その時の蛍斗はいつも迷惑そうな表情を浮かべていて、客に対してあからさまな態度を取ってしまった時は、「嫌だろうけど、表情はもう少し抑えて」と、真実に叱られていたのも見た事があった。

蛍斗は、必要以上に他人と合流を持つのが苦手なのだろうか。

無理に迫られれば、それは迷惑に思うのも仕方ないだろうが、そのクールな態度が、ちょっと近寄りがたさを感じさせていた。


そんな人間が、今、優しい顔をして自分をその腕の中へ囲わんとしている。

澄香にとっては、天変地異の前触れかという心境だった。


澄香が戸惑ってあたふたとしていれば、蛍斗はそっと目元を細めた。


「俺、さっきのピアノ演奏で上がりなんです。少し話をしませんか?」

「え?」

「ずっと話してみたいと思ってたんです。俺のピアノを熱心に聞いてくれてるから」

「あ、あー成程…」


そういう事か、自分はファンとして見られているからなのかと、澄香はひとまず納得した。この距離感はいまいち理解出来ないが、もしかしたら興味のある人間には、単純にパーソナルスペースが近いだけかもしれない。ハグやキスが出来てしまいそうな距離とはいえ、その片手が澄香の腰や頬に触れる事はないし、澄香の手を掴むその手も、それ以上引き寄せる事はしない。

そう、単純に距離感の近い人なのだと、澄香はこの現状の落とし所をどうにか見つけた。無理矢理でも納得しなければ、落ち着いて先へは進めない。それに、納得出来れば不思議なもので、真実はどうあれ少し安心する事が出来る。


「うち、すぐそこなんです。酒もありますし、寄って行きませんか?」


どこか照れ臭そうに話す彼からは、先程のように蔑むような視線は感じない。

けれども、澄香の戸惑いが完全に消えた訳ではない。どうしようと困って、うろうろと視線を下へ彷徨わせていれば、その途中、握られた手に視線を止めた。


ふと、昨夜の風景が頭に過った。

触れたくても触れられなかった仁の手。こんな風に、もう触れる事のない手だ。

不意打ちに思い出した恋人だった男の姿に、澄香は耐えきれず唇を噛み締めた。


胸の中に、苦い鉛玉のようなものが広まっていくみたいだ。苦しくて、悲しくて、その先にあるこの手に縋りたくなる。蛍斗は、こんな気持ちから連れ出してくれるだろうか、いや、誤魔化してくれるだけで良い、何より今は一人にはなりたくなかった。


胸の中が苦しみに埋め尽くされてしまえば、逆にぽっかりと穴が空いたみたいで寂しくて仕方なくて、澄香はその気持ちに背中を押されるまま、蛍斗の申し出に頷いた。




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