明けない夜はある

無月彩葉

明けない夜はある

 「明けない夜はない」って言葉は一体いつ生まれた言葉なんだろう。

 どんなに苦しくても、必ず朝はやってくるって?

 ほんと……呆れるよね。

 そんなのただの気休め、きれいごと。

 明けない夜はある。何千、何億、何兆も積み重ねあげられた、明日に届かなかった命。

 どれだけ明日を待ち望んでも、どれだけ希望を抱いていても、朝日を迎えることなく消えてしまった命なんていっぱいある。

 私だって、今朝トイレですれ違ったあの人だって、隣のベッドのあの人だって、本当に明日を迎えられるという保証はない。

 断言することは、絶対にできない。

 そう考えていると急に全身が大きく脈をうったような変な感覚がして、思わず身体を丸めて耐える。

 ほら、私の身体さえ限界を訴えてきている。


 こんな風にアンニュイな気分に浸っているのは、もちろん明日が手術ということもあるだろうけど、一番は同室だったおばあさんがいなくなったことだ。

 亡くなった……訳ではないらしい。ただ、一番上の病棟に移動するだけだとか。

 上の病棟……この病院で上にある病棟って言ったら包括ケア病棟……終末医療を施す病棟があるくらい。

 親族も来て永遠と話をしていたし、治療をやめてなるべく苦しまないよう死を迎えることを選んだんだろう。 

 呆然とした。おばあさんは今後、どういうつもりで夜を迎えるのだろう。夜を数えるのだろう。

 この闇に包まれた空を見てどう思うだろう。

 

東出ひがしでさん、ここにいたんだね」

 と、私の名前を呼ぶ声がして振り向く。そこには見知った看護師の姿があった。

 名札には大きく「高藤たかとう」と書いてある。この病院の医療従事者は患者が分かりやすいようにか振り仮名付きの大きな名札をしているから、私もこの人の名前を割とすぐに覚えることができった。

 それに、やっぱり今のご時世でもまだ珍しい男性看護師だし。

 背は高くて痩せ形で、なんか看護師と言われてもピンとこない外見をしているし、点滴の交換や採血が一際上手いという訳でもない。

 ちょっと、不思議な人。

「あー、すみません。ちょっとぼーっとしてて。もう病室戻りますんで」

 電話の使用が可能な畳1畳分くらいの小さなラウンジ。そこに置かれたパイプ椅子に座って窓の外を眺めるうちに、消灯時間に近づいていたらしい。

 消灯前に一度担当看護師が部屋を回って体温や血圧を計るから、それで私がいないことに気づいたのだろう。

 そもそも当直担当がこの高藤さんだったことを今初めてしった。

 私、いつからここにいたっけ。

「もしかして、明日の手術が不安?」

 高藤さんはわざわざ屈んで椅子に座る私の視線の高さに合わせた。

 そういう気遣いは昼間手術の説明を受けているときに散々されている。飽きた。

「まあ、不安ですよ、普通に」

 何故か目を合わせることができず窓の方に目をやる。

 ここからでは満足に夜景を堪能することができない。やはり、最上階でなければ。

「私ってモブなんです」

「モブ?」

「特技も大した趣味もなくて、いつも周囲の意見に同調しているだけの人間。成績も運動もパッとしない。そんなモブ。クラスでいじめがあっても傍観するだけで何もできないようなモブ。だから人生に悔いなんて残らないって思っていました」

「でも残った、と?」

 彼の言葉にゆっくり肯く。ほんと自分がそう思うなんて予想外だった。

「友達にも家族にも大した未練はない。でも……自分の名前が未練になりました」

 入院したばかりの時はまだこんな風になってなかったのに。

「名前……か」

「高藤さんって私の名前知ってます? フルネームで」

 点滴の管の先端を折り畳んでつけたままの左手ではなくて、紙製のリストバンドが付いた右手を眺める。

 これは患者の撮り違い防止のためのリストバンドで、私の名前や部屋番号が書かれている。

 囚人見たいって思ったけど、実際囚人と患者との違いってあまりないのかもしれない。

 違いはきっと悪いことをしているかしていないかってことだけ。

「東出夜明よあけさん……きれいな名前だよね」

 点滴パックを取り替える時も、間違い防止のために自分の名前をフルネームで伝えているから当然彼も分かっているだろう。

 東出夜明。命名は単純で、夜が明けると同時に生まれたから「夜明」。

 苗字が東出というのも名前に合ってるとお父さんは自分のネーミングセンスを自慢していたし、名前を褒められたことなら何度かあった。

「私は夜明けに未練があります」

「夜明けに……」

 口にしてちょっとおかしく思って、それからまた虚しくなる。

 そう、私は夜明けに未練がある。


「夜明けの景色って……きれいなんですよ。東の空が段々白んできて……やがて光が差していく。それを……迎えることができなくなったら? ずっと真っ暗な世界に落ちてしまったら? そう思うと……怖い」

 手が震えるのを必死に堪える。口にするんじゃなかった。口にしてしまって……余計に怖くなってしまった。

 未練なんて何もないと思っていたのに……次に夜明けを迎えることができなくなるかもしれない……そんなことだけで震えるほど私は臆病だ。

 臆病なんだって、はじめて気がついた。

「明けない夜はない……そんな確証、ありません」

 明日が来れば私という人間が変わるとは思えない。モブはモブのままの人生を送るだけなはず。

 ただ、明日が来ないことがやたらと怖かった。

 高藤さんは暫く沈黙した後、小さく息を吐くと、

「そうだね……誰にだって明けない夜はある。それが早いのか遅いのかは人それぞれだけど」

 と言った。それから震える私の手の上にそっと自分の手を重ねる。そこで、自分の手が冷え切っていたことに気がついた。

「この病院にも次の朝を迎えられない人は何人もいた。それは僕も目にしたことがある」

 そうだろう。なんだってここは病院。命が消える終着地になり得る場所だ。

「でも、ちゃんとここを出て新しい朝を積み重ねている人間だって何人もいる。重病だった患者さんだって何人も退院していった」

 それも分かっている。けれど私がそっち側にいけるなんて保証はどこにもない。

 手術の成功率は90%。でも、90%も10%も変わらない。だって失敗する可能性が0ではないってことなんだから。

 確率なんて実生活では意味をなさない。同様に確からしくない。

「東出さん、何故重病を抱えても退院できた人間がいるか知っている?」

「そりゃあ運が良かったかその人の免疫力や体力がよかったからか……原因はいろいろあるでしょうけど」

 私もその運の良さや体力を持ち合わせているとは思えない。

「違う。僕たちのおかげだ」

「……え?」

 全く予想しなかった回答に呆然としてしまう。

 今、この人なんて……?

「僕たち医療従事者の検診、回診、処置、判断、全てがあったからこそ患者は健康を取り戻すことができた」

 まあ……言いたいことは分からなくもない、けど。

「東出さんが夜明けを迎えるかそうでないかは、東出さんだけの問題じゃない。医師たちの問題でもある」

 医師たち……ってこの人看護師だけど。

「だからくよくよしていないで自分たちを信じろ……って、これは昔僕が言われた言葉なんだけどね」

 高藤さんは私から手を離して、自分のお腹にそっと手をやった。

「僕も学生時代に手術が必要な病気を患った。絶望のあまり病室から逃げ出そうともした。けど自分たちを信じろと高慢に告げる看護師がいてさ、最終的には彼らを信じることにした」

「その結果治った……と」

「いや、治っていない」

「え?」

 治っていない? この夜勤を続ける健康そうな看護師が?

「慢性的な疾患としてお腹の中に残ることになった。まあずっと投薬し続けていれば問題ないかもしれないけど、再発する可能性がないわけでもない」

 急に告げられた事実に一瞬頭がついていかなかった。つられるように、私も自分のお腹に触れてしまう。

「怖くないんですか、それ」

「まあ怖くなる時もあるけど……そればっかり考えてちゃ何もできないし。そもそも、夜が明けるなんて単なる地球の自転による現象。そんなことに縛られるよりかは患者さんが一人でも退院できるように尽くした方がいいな」

 ああ……それはきっと素敵な考え方。素敵な生き方。

 でも、そんな風に簡単に気持ちを切り替えられたら苦労はいらない……こんな同調圧力に屈するようなモブにはならない。

 そう思っていると、急に目の奥の方が熱くなってくる。

 こんなことで泣きたくないのに。堪えようとしている私の表情は、変になってないだろうか。

「いいんだよ、泣いても?」

「え?」

「泣くこともストレス解消には有効な手段だし、いっそ泣いてしまった方が楽になるかも」

 そうなんだ。でも人前で泣くのはやはり恥ずかしい。だから上を向いて必死に堪えた。

「ベッド戻ったら、布団の中でいっぱい泣きます」

「うん、それがいい」

 高藤さんが立ち上がったのに合わせて私も立ち上がる。

 そうか……私が生きれなかったらこの人たちのせい……そう思えば少しは気持ちも楽になる……かなあ。 

 まだ不安が解消されたわけではなく高藤さんの顔を見つめる。

「高藤さんってなんで看護師になったんですか?」

 なんとなく聞いてみた。すると彼はすぐに苦笑いをする。この人笑顔よりも苦笑いの方が似合う希少な人間じゃないだろうか。

「まあ……賭けをしちゃったからかな」

「賭け……?」

「うん、僕昔は結構やんちゃな性格でね、看護師の言うことにも結構反発していた。そうしたら当時僕を担当していた看護師に言われたの。『私たちは必ずお前を治す。その代わりお前は将来看護師になれ』って。それをなんか律儀に守っちゃったんだよね。まあそのおかげで看護師の苦労とかが分かるようになったけど」

「私みたいな患者がいることもやっぱり苦労の一つなんでしょうか?」

「ああ、まあそうかもねえ」

 肯定されて思わず笑ってしまう。

 まあ今後私がどうなるかは別として……人と話すことができて少しは気が楽になったかもしれない。

 やはり孤独は身体に毒だ。


「そういえば高藤さんはどこの病院に入院していたんですか?」

 何故か気になって尋ねると、

「ああ、ここだよ。まあ一応お世話になった病院だからここに希望を出したんだよね。まあ結局あの人に散々絞られることになったんだけど」

 と言う。

「あの人……?」

 そういえばいつの間にか消灯時間を過ぎたようで、病棟は一部を覗いて明かりが消え、かなり暗くなっていた。

 まあトイレで夜中に起きて歩いたこともあるから怖くはないけれど……こちらに向かってくる一つの明かりを見てドキリとする。

 別にそれが霊的な何かに見えたとかではない。普通に巡回できている看護師さんなんだろうけど……これじゃあ消灯後に戻っていないことがバレてしまう。

 隠れようにも廊下は一本道で、ひとまず高藤さんを見ると、彼は苦笑いを浮かべるのではなく、完全に表情を固まらせていた。

「高藤さん……?」

「東出さん、ごめん、逃げるね」

「え?」

 逃げる。そう言って高藤さんは敵から逃げる小動物の如く逃走をはかった。

 前を向けば、本当に獲物を狩る獣の如く怒りの表情を浮かべて走っていく看護師の姿。

 あれは……確か看護師長さん?

「高藤、あんたはいつになったら真面目に働くんだ!」

「すみません!」

「まったく病室を抜け出したあの時と全く変わらないな!」

「すみません!」

 そんなやりとりが私から遠ざかっていく。

 なるほど……看護師長さんが昔高藤さんを救ってくれた人……か。

 そう思ったらなんだか笑えてきた。

 泣いてストレス解消しようと思ったけどちょっとできないかもしれない。

 病院は、誰かの命が失われる場所。でも、誰かの命が救われる場所でもある。

 看護師さんたちは毎日私たちの健康状態をチェックしてくれて、不安な時は寄り添ってくれる。お医者さんたちはそういう精神ケア的なことはせず冷たいけど、適切な診断と処置で私たちを救おうと尽力してくれる。薬剤師さんも栄養士さんも検査技師さんもいろんな人たちが私の命を救おうとしてくれていて。

 だから……信じてみようと、信じてみたい、と思った。

 だって90%なんだ。きっと先生がなんとかしてくれる。

 他力本願って……こんなにも安心するものなんだ。


 病室に戻っておとなしくベッドに横になった私の元に、体温と血圧を計り忘れたと高藤さんが戻ってくるのは、これから十分後のことだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

明けない夜はある 無月彩葉 @naduki_iroha

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ