お探しの初恋相手はたぶん私です、とはとても言えない。~逃亡した元聖女、もふもふをこじらせた青年と再会する~

永野水貴

第1話

 メディの鋭敏な鼻が、ふいに人間の臭いをかぎ取った。

 盗賊か、さもなくば後ろめたい理由あって森に逃げ込んできた者か。


 この森は広い。やり過ごすことはできる。

 が、なにぶんその侵入者はメディの領域テリトリーを侵している。

 不用意に領域を侵すものは、何者であれ、追い払わなければこの森におけるメディの威厳が保てない。


 メディは臭いをたどって土の上を走った。その進行方向で、ばさばさ、と鳥が慌てて飛び立ったり、がさがさと音をたてて小動物が逃げ去ったりした。


 やがて侵入者の臭いが濃くなる。それからかすかに甲高い、泣き声のようなものが聞こえる。


(んん!?)


 駆けた勢いのまま、メディはその元凶のもとに飛び出した。

 そしてあっと内心で声をあげた。


 臭いの源――侵入者は、土の上にへたりこみ、泥まみれで泣いていた。


(子供……!?)


 まだ十に届かないような幼い少年だった。

 明るい麦色の髪は乱れ、葉が絡まっている。肌は泥まみれで小さな擦り傷をこしらえ、色が白いだけにいっそう痛々しい。


 座り込んで泣いていた少年は、目の前に飛び出してきたメディを見た。

 涙に濡れた、新緑色の目が大きく見開かれる。

 そして――わああああん、と一層大きな声で泣き出した。

 魂を引き絞るかのような、恐怖と怯えの叫びだった。


(ど、どうしよう! どうしよう!?)


 メディは激しく狼狽うろたえた。

 少年が怯えるのも無理はなかった。


 ――いまのメディは、大きな狼の姿をしている。

 成人男性よりも大きな体、しなやかで強靭な四肢、細長く突き出た鼻先と鋭い牙。おまけに全身を覆う体毛は夜のような漆黒である。

 初めて見た人間はまず悲鳴を上げて逃げ出すような、地獄の番犬もかくやという獣ぶりであった。

 人間であろうと魔物であろうと、敵対するものを怯ませずにはいられない堂々たる狼なのだ。


 が、この状況においては無力な相手に無意味に恐怖を与えているだけである。

 おろおろと辺りを見回し、空気を嗅いでみる。少年の保護者が周囲にいないか――。

 だが少年のほかに人の気配や痕跡はなかった。


(なぜ!? どうして!?)


 メディのほうがますます混乱した。おろおろうろうろと少年の周りをうろつきまわることしかできない。

 彼を放置するわけにはいかない。間違って他の(本物の)獣にでも襲われたりしたら大変だ。


 少年はひたすら泣いていたが、やがて疲れ果てたのか、ひくひくと喉を震わせ、涙で濡れた頬と目をメディに向けた。


(こ、怖くないですよー……取って食べたりしませんよ~)


 メディはなんとか和解を試み、尻尾をぶんぶん振り、くぅん、と精一杯高い声を出してみた。

 果たしてそれが伝わったのか、少年は大きな目を更に瞠った。潤んでいるがゆえに、その新緑の瞳はますます美しく愛らしく見えた。


(放っておくわけにもいかないし……)


 近くに保護者でもいればそっちに誘導するか、保護者を文字通り銜(くわ)えてくるかするのだが、どうもこの迷い子は一人のようだった。


 厄介なのは、こっちの姿で会ってしまったということだ。人の姿の時に会えばよかったのだが、まさか侵入者がこんな小さい少年だとは思いもよらない。


 メディはおずおずと少年に近づき、鼻面を近づけた。

 少年ははじめこそびくっとしたが、やがてそろそろと手を伸ばしてくる。

 そして土に汚れた手で、柔らかい黒毛に覆われたメディの首に触れた。

 メディが抵抗せずにいると、ためらいがちな手がやがてゆっくりと柔らかい毛に沈み、優しく撫でる。


「あたたかい……」


 少年はぽつりと言った。ややかすれていたが、澄んで愛らしい響きのある声だ。手つきはおそるおそるといった様子で、慎重かつ繊細だった。

 その仕草はメディにとってくすぐったかったものの、少年に好感を抱かせた。この年頃の子は好奇心旺盛で、ともすると悪気なく乱暴な手つきで動物に触れたりするものだが、少年の手には優しさと控えめさがある。


 なんとなく――良家の子息なのではないか、という気がした。


(ううん、仕方ない……)


 少年がどこから来たのかがわかれば、いくつもある森の出口の一つに誘導してやれる。が、人の集落のある一番近い出口に案内しても、丸一日はかかる。いまから誘導すると夜を越さねばならない。


 しかも、重傷でないとはいえ、少年は怪我をしている。体力も消耗しているようだ。

 メディ一人ならまだしも、少年を抱えて森の夜を過ごすのは危うかった。

 ――であるとすれば、いったん自分の寝床に連れ帰るしかない。


 メディは少年の前で身を屈めた。

 新緑色の、涙のようやく止まった大きな目が、またびっくりしたように見開かれる。


「……ぼくに、乗れというの?」

(そうそう)


 言葉のかわりに、メディはぶんぶん尻尾を振った。頭の良い少年だ、とまたも印象が良くなる。

 やがて、少年はおずおずとメディの背に跨がった。

 メディは四肢を伸ばす。


「わぁっ!」


 少年が高い悲鳴をあげ、慌てて首元にしがみつく。


(しっかりつかまるのよ!)


 言葉は実際にはわうわう、と明るい吠え声になり、メディは力強い四肢で走り出した。

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