古い家

チャららA12・山もり

第1話


 コンコン――。

 玄関のドアをノックするような音が聞こえた。


 高齢の母と私が住む、築四十三年の家は、一度もリフォームをしたことはない。

 『吉村』の表札横にあるインターフォンも壊れていて、そのため『ご用がある方は門を入りドアをノックしてください』と錆びた門扉もんぴ掛札かけふだをしていた。


 コンコン――。


 またドアをノックする音が聞こえた。

 母は、いないのだろうか。

 七十歳の母だが、まだ耳は遠くないはず。

 階段を降りようかと柱に手をかけ、躊躇ちゅうちょする。

 恐い。


 母と私だけが住む女所帯おんなじょたいとか、防犯面のような理由からではない。

 半年前、私は心を病んだ。人事異動で本社から来た上司に、私は執拗しつようにイジめられたのが原因だった。

 イジメの始まりは、こんな感じだった。


 バンッ!

 私が作った書類は、上司のデスクの上に叩きつけられた。

「吉村さん、これじゃ普通の試算表じゃないですか。グラフをつけるとか、もう少し相手にわかりやすい書類を使って作ってくださいよ」


 茫然ぼうぜんと立ち尽くす私の前で、年下の上司はデスクの足元を指さした。


「ほら、拾って、吉村さん。自分で作った書類でしょ」 


 叩きつけられた書類は、机の下にまで散乱していた。


「はい。すみません」


 ホッチキスが外された書類は見事に灰色のカーペットの上で散らばっている。その書類を拾っていると、頭上から声がした。


「吉村さん、四十歳を超えると認知症のリスクが上がるらしいですから、もっと頭を使いましょうよ」


 返事をするように私は頭を下げ、散らばった書類を胸に抱き、逃げるように自席へ戻った。


 席に着くと自分の手が震えていることに気が付いた。


 何が起きたのか、よく分からなかった。

 大学卒業と同時に二十二年働き、このようなことをされたのは、初めてだった。

 パソコンのファイルを開けて、書類のやり直し作業に入った。

 表を入れないといけないのはわかるのだが、頭が回らない。

 ちらっ、ちらっと、上司がこちらを見ているのが分かる。


 パソコンを打つ手が震える。

 グラフを入れないと――。


 上司が、机の上でトントントンとデスクマットを指で叩いているのが視界のすみに映る。


 はやく、はやくしないと――。


 焦れば焦るほど頭が真っ白になる。


「もういいですよ、吉村さん! 別の人にやっていただきます。中川さん、申しわけないですが、吉村さんのあとを引き継いで」


 私に対するのとは打って変わって優しい言葉を掛けられた後輩の中川さんに、私は頭を下げた。


「今からデータを送ります。よろしくお願いします」


 別の日には、上司が私の席までやってきた。私の作った書類を、目の前でパンパンっとボールペンで叩きながら、


「吉村さん、この誤字、見てくださいよ。いまどき、こんな間違い小学生でもしませんよ」


「すみません」


「これ以上、僕の仕事を増やさないでいただきたい。あなたの書類をチェックするだけが僕の仕事じゃないのですから」


「はい……、申し訳ございません」


「そうだ、吉村さん。トイレ掃除をお願いできますか」


「トイレ掃除ですか?」


 私が聞き返すと、上司は嫌な笑みを浮かべた。


「当たり前じゃありませんか。仕事の出来ない人に、他にどんな仕事を任せられるのですか」


「はい、わかりました」


 会社にはパートの清掃の人がいるが午前中で帰ってしまう。そのため男子トイレが汚れているのかと思い、私はトイレ掃除をするために席を立った。だが、男子トイレは汚れていなかった。

 そうして、すべてのトイレ掃除を終えて事務所に戻った。


「トイレ掃除、終わりました」


 席に戻ると入力作業用の書類が私の机の上に積んであった。


 また別の日には、皆と同じように残業をしていると、私のデスクの横に立った上司が大きな声で言った。


「まだ仕事、終わらないのかな。そんなに大変な仕事を吉村さんに任せていますか?」


「い、いえ」


 私は頭を振った。


「ですよね。ああ、そうか、わかりました。吉村さんは、スーパーの割引シールの時間まで、ここで時間つぶしをしているのでしょう。四十歳超えた独身女性は大変ですね。残業代を稼がないといけない。でもね、私用で会社の残業代を請求されちゃたまりませんよ」


 こうして残業するときは、タイムカードを押してから仕事をすることになった。


「はあ、まただ」


 上司のため息を聞くたびに、私の鼓動が速まった。


 上司がガタンっと席を立つたびに、胸が苦しくなった。


 また怒られる。


 顔を伏せて、とにかく謝る。


 シーンとした社内で、その時間だけは私のためにある時間だった。職場の皆の意識が自分に向けられていると思うと恥ずかしさや悔しさで涙が零れ落ちそうになる。


 人からこのような態度をされるのは初めてだった。学生時代もされたことはなかったし、周りでイジメを見たこともなかった。だから、いったい自分の身に何が起きているのかわからなかった。


 そんなある日、電車に乗れなくなった。朝のホームでベンチに座り、次の電車に乗ろうと思うが、胸がドキドキして、息苦しくなる。


 いや次の電車に乗ろう。


 そうして何本か電車を見送っているうちに、午後になっていた。携帯に会社から着信があった。


 あの上司からだと思うと、スマホを持つ手が震えた。


 そうして一度も会社に出社することなく、私は退職した。


 再就職をしなければならないのだが、頭も体もやる気がでなかった。長年務めた会社をどうしてあんな辞め方をしたのだろうと後悔が募り、自分を責めつづけた。


 あのいじめられた光景ばかりが思い浮かび、大きな音が怖くなった。


 ドンドン――。


 苛立ったように家のドアを叩くような音が聞こえ、今へ戻される。

 母は出かけているのだろうか。


 どうしよう、どうしよう。

 こんな叩き方は、絶対に男性だ。居留守がバレているのだろうか。私に苛立っているのだろうか。


 どうしよう、どうしよう。


「はーい」

 下にいる母が返事をして玄関のドアを開けた。


 ホッとした。


 よかった――。


 一階の様子に聞き耳を立てる。


 家のドアが閉まった音が聞こえ、私は自分の部屋に戻った。


 セールスだったのだろう。


 母が断って、相手は帰ったのだ。


 だが、外で誰かが話しているような声が聞こえてきた。


 気になって、足音を消して階段を下りてみた。

 母がいない。

 玄関の扉をそっと開けてみた。


 すると門扉のところで、灰色の作業服を着た一人の男性と母が話し込んでいた。


「土曜日ですね。何時ぐらいになりますかね?」

 母が男に聞いていた。

 なんだろう――。

 胸がドキドキとする。


 でも、行かなきゃ。

 以前、母は面倒な契約にひっかかり、解約するのに大変だった。それを思い出した。


 玄関でつっかけをひっかけて、私は母の元へ行った。


「お母さん、土曜日って、なんの話?」


 男の人を見ない様に、母だけに声をかけた。


「ガスの点検に来てもらうことにしたの」


「……ガスの点検? 昨年終わったばかりだよね」


「でも、ガス点検をするって……」


 母が、灰色の作業服の男に目をやった。


 でも、私はその男の人の顔を見ることができない。


 はっきりと顔を見ることは出来ないけれど、ここに来る前に白髪頭の短髪で色黒の男性で年齢は六十代ぐらいに見えた。


 そうして男性が首から掛けてある名札をそっと見る。

 ガスのサービスショップ名があった。


「あ、あの……、ガス会社の人じゃなくて、サービスショップの人、ですか」

 私の声が小さかったみたいで男性が聞き返してきた。

「えっ?」

 横から母が、

「だからガス会社の人でしょ」

 と言った。だがそのおかけで、私は母に伝えるように話すことが出来る。


「ガス会社とガスのサービスショップは別々の会社だから……。それに四年に一度のガスの点検は昨年に終ったばかりで点検はしてもらわなくてもいいよね」


 これで相手の男性も察してくれたはずだ。

 そう願いながら、名札にある松本和男という名前に視線を向ける。しかし、男性は、

「ガスの点検は土曜日になります。お母さんと約束をしましたから」


「うちは大丈夫です」


 私が言っても松本という人は、まったく帰る気配をみせなかったし、何も言わない。


 どうしたら帰ってくれるのだろうか。

 やはり、はっきり断らないといけない。


「昨年、都市ガスの人が来て、点検は終えていますから結構です」


 やっと大きな声で言えた。


「僕が言っているのは、ガスの点検ですよ」


 男性が横柄に言うと、母も、

「だから、最初からそう言っているのに、この子は」

 と、うんざりした声で私に言う。


 けれど、そのおかけで母に説明ができる。

 これを聞けば、この男性も帰ってくれるはずだ。


「お母さん、昨年にガスの点検は終わっているし、そもそも四年に一度のガスの点検なのに、また来るのっておかしいでしょ。それにガスの点検って、都市ガスの人がするから、サービスショップの人は出来ないはず……」


 とりあえず言いたいことは言えた。


 この松本という人の目的はわからないが、とにかく帰ってくれるのを願った。


「僕が言っているのは、ガス給湯器の点検ですよ」


「ほら、ガス屋さんがそう言っているでしょ」

 母が完全に向こう側へ立っていた。


 あのような仕事の辞め方をした私は母の信頼を無くし、私の言うことより男性の言うことを信用しているようだった。


「ええっとね、お母さん、昨年の点検のときにガス給湯器を見てもらったので、見てもらう必要ないでしょ。ガス漏れもなかったんだから」


 男が口を挟む。


「ガス漏れ? いや、僕が言っているのはガス給湯器の点検ですよ。給湯機器!」


 給湯器という言葉を苛立ったようは繰り返していた。

 ハッと気づいた。


 ああ、そっか。

 やっと男の言いたいことが、ようやく理解できた。

 ガス漏れの点検ではなく、ただ単にガス給湯器の点検のことを言っていたのだ。

 部品や機械の寿命や故障のサインがないか、チェックするのだろう。

 けれど、家の横に設置されたガス給湯器をこのサービスショップで購入したわけではないし、お願いもしていない。

 点検商法かもしれない。

 やはり、ここは断っておいた方がいい。


「すみません、ガス機器の点検は結構です」

「だからガス給湯器の!」


 男は凄みのある言い方をした。


「すみません、本当にすみません。うちは結構です、大丈夫です。申し訳ございません」


 私は頭を下げて繰り返した。その結果、やっと男性は帰ってくれた。


「タダなんだから点検してもらったらよかったのに」

 憮然ぶぜんとした表情で母が言った。


「タダより怖いものはないよ。ガス給湯器の買い替えを薦められるだけだから」

 母はまだ理解ができていないようだったが、これ以上言っても無駄だ。

 それから、私は自分の部屋に戻ったが、何とも言えないもやもやとした気持ちが残った。

 もっと私がしっかりしないといけないのに――。


 四十三年前、この辺りで建売住宅が一度に売り出された。両親が一番端の家を最初に購入し、つぎつぎと完売となった。だが、そんな我が家も、今では時代遅れの古い家になり、今では当たり前にあるような断熱材もなく、壁にヒビが入り、台所の床下は土の地面のままだ。

 そんな家を探しては、怪しいセールスマンが、屋根のリフォームや壁の塗り替えなどを薦めにくる。

 だが、とにかく、今日を乗り切れた。

 昼間に来たセールスマンが怖かったけれど、帰ってもらったことでどこか自信のようなものを持てた。

 また働きに出られるかもしれない――。

 電車に乗ることが出来るかもしれない――。

 

 そんな希望のようなことを感じた夜九時頃、異変を感じた。


 外から音が聞こえる。

 なんだろう――。

 胸の鼓動が速くなる。

 隣家に面している敷地に何かがいる。


 ジャリ、ジャリ……。

 うちと隣家の間にある境界地に敷き詰めている砂利を踏みしめているような音だ。

 猫? 

 隣に住む一人暮らしの老婆は猫を放し飼いにしている。

 餌を外でやるため、野良猫が来たりして、猫の喧嘩も絶え間ない。

 ジャリ、ジャリ――。

 いや、猫にしては重く、人間が慎重に歩いているような音だ。

 隣の老婆? いや、こんな時間に外へ行かないし、うちの家と間に用なんかないはずだ。

 だって、そこになるのは、うちのガス給湯器だけだ。


 あっ。

 もしかして、昼間の松本という男性かも。

 追い返した仕返しにやって来たのかもしれない。

 どうしよう。

 母に相談しようか。

 いや、やめておこう。

 私は懐中電灯を片手に階段を下りた。


 ※※※


 母と二人で、秋風が気持ちいい夕方に、近所を散歩する。

 二つのことを処理できたことに自信が出て、こうして私は外に出られるようになった。

 また近所に新しい家が建つ。

 古い家が壊され、地面を掘り、セメントを流し込み、その上に新しい家が建つ。

 我が家の床下は土の地面のままだ。

 台所の床下収納を外すとカビくさい土の地面が広がっている。

 そこには、ちょうど二人が埋まっている。


 最初は上司が家に来きた日に処理した。


「吉村さん、会社に戻ってきてくれないかな」

「外では暑いですから家の中で」

 そうして、夏の暑い日、麦茶を出した。

 睡眠薬を入れたお茶だ。

 三十分もすると、上司は台所のテーブルに突っ伏して寝てしまった。

 近くのホームセンターで買ってあった結束バンドで手と足を縛る。

 そうして母が一旦、清掃の仕事から帰ってくる昼前に、上司の口にタオルを入れて、動けない様にもう一度、縄でぐるぐると全身を縛り、床下の地面の上に転がせた。


 昼からまた違う現場へ仕事に向かう母を送り出し、床下を覗く。


 すでに死んだのだろうか。目をつぶったままだ。


 重たい身体を横にずらしてスコップで穴を掘る。


 ムグムグと声が聞こえて、タオルを入れた口で何かを言っているようだが、ちょうどいい、その上から土をかぶせた。


 もがきながら頭に被せられた頭の土を振り落としていた。

 だが、無駄な事だ。

 何度も何度も、土をかぶせた。 


 母が居ない隙に、床下を漂白剤で匂いを消し、イタチ除けだと言い、木酢を置く。

 次に、ガス給湯器の点検だというセールスマンがやって来た。

 ガス給湯器の下は、床下と繋がっている。

 床下の地面に振りかける漂白剤と、匂い消しに置いていた木酢も、役に立たないかもしれない。

 あの男は夜、ガス給湯器の近くまでやって来た。

 キラリとカッターナイフを持って、給湯器を壊しにやって来たのだ。

 防犯用に用意していたスタンガンで気絶させて、同じく、床下に埋めた。


 無事に処理できた。

 この恐怖も白骨になるまでだ。


 新しい家では、こうはいかない。なにせ新しい家の床下はセメントなのだから。


 古い家の床下が土の地面だったおかげで、私の病んだ心は、ゆっくり、瘡蓋かさぶたになりつつある。

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