第1章 それは、あのこのほほえみから 9
九
エミリが目を覚ました時、小屋の中は薄暗かった。今、自分がどこにいるのかが一瞬わからなくて、目を開けてしばらくぼんやりする。彼女の視界に真っ先に飛び込んできたのは、恐ろしく整った顔立ちの男の寝顔だった。あどけない寝顔が誰のものか、一瞬わからなくなる。それがアダムス…もとい、ルートンジュのものだと気付いて、エミリはその顔を凝視した。珍しいものを見た喜びの後に、彼と今までここで何をしていたのかが思い出された。思いが通じ合った自分たちが、その後欲望のままに交わり続けたのを思い出して、エミリの顔が茹蛸のように真っ赤になる。自分の体を見下ろすと、何も身に着けていなかった。ルートンジュも一糸纏わぬ姿で、二人して、小屋の小さな寝台で薄い毛布にくるまっていた。意識がだんだんはっきりしてくると、体全体の倦怠感に気づく。特に腰が重い。そして更にその下の足の付け根の部分は…と、そこまで考えて、エミリは顔を覆った。自分があんなことになるとは思っていなかった。結局エミリ達は数えきれないほど交わって、エミリの胎内にはたっぷりとルートンジュの精液が注がれた。今も、なんとなくまだルートンジュのものがはいっているような感触が残っている。あまり大した性教育を受けて来なかったエミリは、こういう時にどういう後処理をすればよいのかわかっていなかった。それはルートンジュも同じだった。彼は他人にめったに心を開く魔族ではない。自分がこのような事態に遭遇することを想定していなかったために、もしも意中の人とそういうことになったら、お互いの今後のためにどうすればよいのかという知識がすっぽりと抜け落ちていた。
もぞもぞとエミリが身じろぎをする。意識がはっきりと覚醒して、肌寒さを感じるようになった。ルートンジュの方に近づいて、彼の体温と毛布で少しでも体を温めようとする。その動きが刺激してしまったのか、ルートンジュの瞼がピクリと動いて、ゆっくりと開いた。紫色の瞳は茫洋として、焦点があっていない。その澄んだ瞳に、自分の顔が映る。エミリを見て、ルートンジュの目元が和らいだ。エミリの頬を撫でる。
「おはよう、エミリ。」
既に辺りは暗く、日が昇る頃合いではないのに、そう言う彼が面白くて、エミリは笑う。
「おはようございます、ルートさん。」
そう言った自分の声がすっかり枯れていて、びっくりして喉を抑える。ルートンジュは愛おしそうにエミリの髪を撫でた。
「声を枯らしてしまったな。体は大丈夫か?」
「はい…。すこし、腰が…。あ!どうしよう!」
エミリはベッドから飛び起きた。森の小屋を訪れる前にやらなければならない事を放り出したまま、ここに来たことを思い出したのだ。日はとっくに沈んでおり、今からは間に合わないだろう。エミリは頭を抱えた。一刻も早くルートンジュのもとに行きたくて、どうにも我慢できず、隙を見て走ってこの小屋に来たのだった。
エミリは重い体を引きずるようにして、ベッドから抜け出し、床に散らかった衣服を身に着け始めた。ルートンジュはゆっくり起き上がり、長い銀髪を掻き上げながらその様子を眺める。
「そんなに急いでどうしたんだ。」
「ルートさん、今どれくらいの時刻かわかりますか?わたし、日が沈むまでにやらなきゃいけなかった事があったんです。それを放り出してここに来ちゃったから、今頃お相手はカンカンですよ。急いで帰って、それで…。」
「それで、相手に説明するのか?森の中で魔族とまぐわっていたので仕事ができなかった、と?」
「そ、そんなこと言えませんよ!言えませんから…そうですね、何て言えばいいんでしょう?何かいい案ありませんか?」
コルセットを腰につけて紐を絞り上げながら、泣きそうな顔でエミリがルートンジュを振り返る。立てた膝に頬杖をついたルートンジュは面白いものを見るような目でエミリを見ているだけだ。
「とにかく、相手にはこれから謝って来ます。そうそう!その、ルートさんが魔族とかどうとか、そういう話をしたかったんですけど、今日はできないので、またの機会にお願いします。」
エミリは服のしわを伸ばして身だしなみを整える。ルートンジュはズボンを探して履いて立ち上がる。窓を開けて、細く鋭く口笛を吹いた。すると、どこからともなく白い小鳥の姿をした魔鳥が飛んできて、ルートンジュの人差し指に止まる。彼はその鳥をエミリに差し出した。
「エミリ、この鳥を連れていけ。」
「この小鳥は?」
「魔界の鳥だ。この鳥を通して連絡をとることができる。」
「伝書鳩のようなものですか?」
「全く違う。この鳥の嘴を触って俺のところに寄越してくれれば、今こうして対面して話しているかのように、相手と話すことができる。」
「本当にそんなことができるんですか。」
「使ってみればわかる。この鳥を、俺と話したくなったら嘴を触って森の方に飛ばせばいい。」
エミリが手を伸ばすと、白い小鳥はルートンジュの指を離れてエミリの肩に止まった。
「じゃあ、帰ったらやってみますね。」
エミリはドアの方に向かった。ルートンジュは彼女を追いかけて、後ろから彼女をぎゅっと抱き締めた。
「また、来てくれるか?」
「はい、必ず。」
体に回されたルートンジュの手をぎゅっと握って、エミリは誓うように言った。
エミリは何度も振り返りながら、ルートンジュの姿が見えなくなるまで手を振って歩いた。ルートンジュも小さく手を振っていた。
まるで、別れるのが名残惜しい子どもみたいだな、私達。エミリはそう思って、くすりと笑った。
楽しい気持ちで歩いていたのも長くは続かなかった。村の明かりが見えてくると、エミリの心が重くなる。農夫のエドワードさん、花屋のユーシスさん、何より、総菜屋のキリズ一家。
ルートさんの家に行ったことは伏せて、具合が悪くて少し休んでいたと言って、誠心誠意謝ろう。エミリはそう思って、森を出た。
すると、木陰から小柄な影が飛び出してきて、エミリの肩を掴んだ。びっくりして悲鳴を上げそうになったエミリは、馴染みのある声にだんだんと落ち着きを取り戻す。
「エミリ!いったい今までどこで油を売ってたんだい?心配したんだよ!」
キリズ夫人だった。エミリは慌てて頭をさげる。
「おばさん、心配かけてごめんなさい。ちょっと…あの…。」
“具合が悪くなって休んでいた”と言おうとして、森から出てきたところをおばさんには見られているから、この言い訳は意味がないことにエミリが気付く。しどろもどろになっているエミリをじっと見て、キリズ夫人は息を吐いた。
「エミリ、あんた、森の中のあの人の所に行っていたのかい?」
エミリの心臓が跳ねる。否定した方がいいのはわかっている。でも、おばさんは、夜の忙しい時間に家を出てエミリを待っていたのだ。きっと彼女が森の賢者の家に行っていると予想したのだろう。
何も言わないでいるエミリを見て、是と受け取った夫人は言った。
「あの人のことが好きなのかい。」
エミリははっとしてキリズ夫人を見て、しばらくした後、ゆっくりと頷いた。
夫人は、そうかい、と頷いて、苦笑して言う。
「エドワードさんとユーシスさんがね、あんたのことを心配してうちを訪ねてきたんだよ。エミリに頼んだ仕事が、まだ完了の報告をもらってないってね。年若い女の子に色々頼んだものだから、どこかで倒れてしまったんじゃないかって。あんたは、仕事を途中で投げ出すような子じゃない。だからあたしはきっと、例の人の所に行って、帰って来れなくなっているんじゃないかって思ったんだよ。それで、お二方には、あたしが緊急の仕事を頼んじまって、エミリはそれに追われてるって説明して、謝っといたんだ。」
キリズ夫人の瞳は優しかった。
「おばさん…。」
エミリの目頭がじんわりと温かくなった。庇ってくれたその心が嬉しかった。
「残りの仕事は明日に持ち越していいってさ。」
「おばさん…本当に、ありがとうございます…!」
エミリは、深々と頭を下げた。エミリの背中を撫でるキリズ夫人の掌が、とても暖かく感じた。
「エミリ、こんなことを言うと、説教臭くて、自分でも嫌なんだけどさ。あんまり例の人に入れ込むんじゃないよ。あんたくらいの年に、誰かに惚れて、どうしようもなくなっちまうこと、あたしもあったよ。結婚する前は、いろんな男と恋をしたしね。ただ、ここで生きていこうと思ったら、みんなが反対することは、しない方がいい。賢いあんただから、わかるよね?」
「はい、おばさん…。」
「とにかく、あんたが無事でよかった。口さがない噂がいろいろあるけど、あたしはあんたを信用しているし、あたしに出来ることは、助けてやるからさ。さぁ、帰ろう。お腹すいているだろう?今日は、テディにばれないくらい細かく刻んだ野菜を入れたハンバーグさ。」
キリズ夫人に肩を抱かれて、エミリは総菜屋に帰った。生きるために一生懸命働いてきたが、こうやって自分を信用してくれて、助けてくれる人がこの村にいることが、エミリは嬉しかった。ここで頑張って働いてきてよかったと思った。同時に、築き上げたこの信用が、一瞬で崩れることもありうると思うと、お腹の底の方が、ひんやりとした。ルートンジュと付き合う事で、この村での自分の居場所が危うくなることに改めて気付かされる。
帰宅して、キリズ一家と和やかに食事をした。最後のお湯を使わせてもらって体を綺麗にする。好きな人と結ばれることの充実感が、まだ肌に残っていた。それを噛みしめると同時に、自分を落ち着かせるように濡れた布で体を拭う。思考がまとまらず、頭がぐるぐるした。屋根裏部屋に戻って、窓を開ける。白い小鳥がひらりと室内に入り込んだ。エミリは手を伸ばして、小鳥の頭を撫でる。
「ねえ、お前。お前の主人と話がしたいの。」
そう言って嘴を撫でて、指に止まらせた小鳥をそっと窓の外に出す。小鳥はパタパタと森のある方角に飛び立った。その拍子に、小鳥から一本の羽がひらりと落ちて、エミリの掌の上に落ちた。
しばらく待っていると、その羽がぼんやりと光り始めた。
「何これ!どうして光っているの?」
「魔鳥の羽だからだ。俺の声は聞こえるか?」
「ルートさんですか?はい、聞こえます!今、どこにいるんですか?村に出て大丈夫なのですか?」
「慌てるな。俺は相変わらず森の小屋にいて、お前が飛ばした鳥に話しかけている。お前の手元に残った羽から俺の声がするだろう。それに話しかければ俺のもとに声が届く。これで、会話ができるようになっている。」
「すごい…。」
エミリは、階下の家族に聞こえないように声を潜めながら、魔鳥越しにルートンジュとたくさん話をした。ルートンジュが正真正銘の魔族であることはまだ信じられなかったが、彼の経歴を聞くとあながち嘘ではないような気もする。ルートンジュの家族の話もした。エミリの方も、今日の仕事は明日に持ち越すことができたことを報告した。また会う約束を交わし、おやすみの挨拶をして、掌の羽の光がふっと消えた。エミリは、温かい気持ちのまま布団に入り、目を閉じた。しばらく仕事を頑張って、また彼に会いに行こうと思った。キリズ夫人の警告が頭をよぎる。迷惑にならないように、休日を選んで行くとしよう。彼と付き合わないという選択肢は、頭から消えていた。
エミリは、これまでより一層仕事に熱心に取り組んだ。休日になるとルートンジュの小屋に行って愛し合った。愛し合った後は、二人でぴったりと肌を合わせて横たわる。互いの鼓動と温もりを感じながらゆったりとお喋りをする時間が、二人とも好きだった。人の目があるので、日が沈む前にエミリは村に帰る。森の入口の少し手前までルートンジュが送ってくれるようになった。この毎日が、いつまでも続けばいいと、エミリは思った。
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