へのへの森田

風翠ヒバリ

第1話

「お前って掴み所無いよな」

 俺が呟くと、森田はやっとノートから顔を上げた。

「そうかな?」

「そうだよ。なんだよそのノート」

 何を一生懸命書いているのかと思えば、へのへのもへじだ。ひらがなを組み合わせて描かれた顔がいくつも並んでいる。

「部活用ノートだよ」

「聞いてんのはそこじゃないんだよなぁ。なんでへのへのもへじばっかりなんだ?」

「ああ、これ? 絵心無いから、人を描こうと思うとこうなるんだ」

「いや、意味わからん」

 森田は「えへへ」とふにゃふにゃ笑って、またへのへのもへじを描き出した。

 俺が森田平次と出会ったのは、つい一か月前のことだ。高校最初で最後のクラス替えで俺の後ろの席に座っていたのが森田だった。休み時間になるとノートに落書きしているような変わった奴だが、何故か声をかけたくなる不思議な雰囲気が森田にはあった。実際話しかけてみると、見た目通り穏やかな良い奴で、自然とよく喋るようになっていた。

「お前、実はいくつも賞貰ってるような凄い美術部員なんだって?」

「凄くないよ?」

「賞貰ってんのは否定しねえのな」

 凄いじゃん、と付け足すと森田はまたふにゃふにゃと笑った。



 誰しも間が悪い場面に出くわす事はある。

 俺はこの時、下校しようと教室から昇降口に向かって歩いていた。最近森田に引っ付いて美術室に入り浸っているせいで、俺の下校時刻は少し中途半端だ。帰宅部が下校するには遅く、最終下校時刻には随分早い。

 遠くに運動部の声を聞きながら歩いていると、曲がり角の向こうから女生徒の声が聞こえてきた。

「私、村瀬慧志君が好きなの……」

 俺の名前が耳に入ってきた時には既に俺は角から顔を出してしまっていて、声の主と目が合ってしまった。ショートヘアとアーモンドみたいな目が特徴的な、可愛らしいクラスメート。甲斐谷由希だった。

 甲斐谷は一瞬顔を青くして、それからみるみる真っ赤になった。

「村瀬くん!」

 次に俺に気がついたのは、甲斐谷と話していた藤堂杏里だ。

「今の、聞こえてた……?」

「悪い」

 俺が謝ると藤堂が甲斐谷を見た。甲斐谷は何かを必死に考えているような、困っているような顔で俺を見つめている。

「村瀬くん、付き合ってる人とか、好きな人とかいる……?」

「いや、いないけど……」

 俺も俺で思いもよらない場面に遭遇したパニックで、藤堂の問いに馬鹿正直に答えていた。予期せぬ場面だったが、告白なんてされたのは初めてで、どうしたら良いか分からない。

「彼女作る気ないとかは?」

「いや、そういうのも特に考えた事ないけど……」

「だったら、由希と付き合っちゃいなよ!」

 藤堂がグイグイ来る。

 正直、悪い気はしなかった。甲斐谷は可愛いし、彼女という存在に夢も憧れもある十六歳だ。

 このまま流れで初彼女ゲットしてしまうのかと期待と戸惑いで心臓が痛くなりだしたころ、流れを止めたのは甲斐谷だった。

「ごめん、杏里。村瀬君と二人で話したい……」

「あ、そうだね。ごめんね、お邪魔して」

 藤堂は「今日は先に帰るね」と言って昇降口に向かった。

 藤堂の姿が見えなくなるまで見送ってから、甲斐谷が俺を見た。真っ直ぐ見上げてから、頭を下げた。

「ごめんなさい、村瀬君。村瀬君の事が好きだっていうのは、嘘なの……」

「嘘……?」

 甲斐谷が頭を上げた。

「つい、杏里に好きな人がいるって言っちゃって、誰かの名前出さないと収まりつかないような状況になっちゃって……」

 それであの会話だったという事か。

甲斐谷がもう一度「ごめんなさい」と呟いた。

「杏里には振られたって言っておくから」

「なあ、なんで本当に好きな人の名前を言わなかったんだ?」

「……よくある話だよ?」

「よくある?」

「杏里の彼氏なんだ」

 甲斐谷が、笑った。俺はこの時初めて、甲斐谷の身長が俺よりずいぶん低い事を実感していた。

「本当に、巻き込んでごめんね。じゃあ、私も帰るから」

「いや、待って、甲斐谷」

 思わず手首を掴むと、甲斐谷が怯えたような顔をした。思ったより華奢な腕だ。壊れそうで怖くなった俺は、慌てて甲斐谷の腕を放した。

「悪い」

「う、ううん。何?」

「俺と、付き合わないか?」

「な、なに言ってるの……?」

 甲斐谷が信じられない物を見る目で俺を見上げる。

「俺このままじゃ、好きな子もいなくて彼女も欲しいのに甲斐谷を振った男になる」

 実際には彼女欲しいとまでは言ってないが、甲斐谷は困った顔になった。

「付き合ってみて、甲斐谷が本当に嫌だったら別れたらいい。俺もダメだったら言う。でも、少し付き合ってみないか?」

「互いに好きでもないのに……?」

「そうだな。でも俺、甲斐谷の事よく知らなかったけど、今喋っただけで良い奴だなって思ったよ」

「なんで?」

「俺の事真っ直ぐ見て謝ってくれたし、誤魔化さずに本当のところ教えてくれたし、友達思いだし」

 それに、切なく笑った顔がとても綺麗だった。

「俺の名誉を守ると思ってさ。俺と付き合ってください」

 俺が握手を求めて右手を差し出すと、甲斐谷はたっぷり迷った後ゆっくり握り返してくれた。



 と言うわけで、初彼女だ。

 勢いで無理矢理付き合ったのは良いが、正直どうしたらいいのか全く分からない。

「なあ森田。お前彼女いた事あるか?」

「僕? 彼女いるよ」

「え、いるの?」

 自分で聞いておいてなんだが、全く予想外の答えが返ってきて、俺は弁当の唐揚げを落としかけた。

「村瀬、好きな人でもいるの?」

「いや、彼女が、できた」

「そうなんだ? この学校? 一緒にお昼食べたりしないの?」

 昼を一緒に。その発想はなかった。

 俺は甲斐谷の方に視線を向けた。甲斐谷は藤堂と机を付き合わせて窓際の席で弁当を食べている。

 そもそも俺は甲斐谷の事をほとんど知らない。藤堂と仲がいい事、藤堂の彼氏に恋している事、藤堂といない時は本を読んでいる事が多い事。俺が知っているのなんてこれぐらいだ。

 後で弁当を一緒に食べるか確認しようと考えていると、甲斐谷を見ていた事を藤堂に気付かれた。藤堂は甲斐谷に何か話してから俺たちの所に来る。

「村瀬くん、森田くん。お昼一緒してもいい?」

「僕はかまわないよ」

 俺が何か言う前に森田が藤堂に笑いかけた。藤堂もニコニコ森田に笑い返していて、もう俺たちがどうこう言える雰囲気ではなくなってしまう。それを遠くから見ていた甲斐谷が申し訳なさそうな顔で二人分の弁当を持って来た。

「村瀬君、森田君も、邪魔してごめんね」

「ううん。藤堂さんとも甲斐谷さんともあまり話した事なかったから嬉しいよ」

 森田が言うと女子二人は互いに視線を交わしてから少し笑った。

 適当に机と椅子を引き寄せて、甲斐谷は俺の隣に藤堂は甲斐谷と森田の間に座る。

「実はずっと森田君に聞きたい事があったの」

「僕に?」

「へのへのもへじ描いてるでしょ? あれ、もしかしてクラスメートの似顔絵?」

「え、似顔絵?」

 甲斐谷の言葉をオウム返ししたのは藤堂だった。

「甲斐谷さん、よく分かったね」

 そう言いながら森田は部活用ノートを取り出した。そこにはいくつかのへのへのもへじが描かれている。

「これ、杏里でしょ?」

「全然分からないんだが」

「うーん、言われてみれば……?」

「ええ、ちゃんと特徴あるよ」

 甲斐谷が森田のノートを広げて、どれが誰か解説し始めた。それを森田が肯定も否定もせず笑いながら聞いている。

「でも、なんでわざわざへのへのもへじで描いてるの? 似顔絵ならちゃんと描けばいいのに」

藤堂の言葉に、森田はきょとんとした。何を言われているのか分かっていない顔だ。

「僕、絵心がないから、人を描こうと思うとこうなるんだ」

「それ、前にも言ってたけど、順番逆じゃね? 文字で描こうと思うからへのへのもへじになるんだろ?」

「これだけ特徴掴んでるなら、森田君は絵心がない訳じゃないと思う」

俺と甲斐谷に言われて、森田は珍しく真面目な、真面目な困った顔をした。

「ちょっと、説明し難いかも。次までに説明できるように考えておくね」

言ってから森田はノートをしまい、それからまたふにゃふにゃと笑った。

「ところで、村瀬の彼女は甲斐谷さんで合ってるのかな?」

俺は唐揚げを落とした。

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