第6話 〝泥水を啜る日々〟

 フィオが竜王国兵たちに連れていかれて何日が経ったかシスは覚えていない。帝都はボロボロになり、皇帝は自害したと言われている。バレッタ家はというと、執事やメイドたちは田舎にいる親族を頼みに皆雲散霧消してしまった。血縁である叔母の住むラナフォード公国は、ロンドニキア竜王国と敵対関係にあり、街道は封鎖されている。


「街道が……――解放されるのはいつだろう?」


 数日が経ち、冷たい寒季の夕立を浴びてびしょびしょのシスを助けてやろうという人間はもう帝都にはいなくなってしまった。残ったのは竜王国兵にこびへつらう矮小な人種だけだ。そんな中シスは腹が減って腹が減って、死にそうになっていた。もともと飼い葉桶だった容器に浮かぶ泥水を手に取って飲み空腹を紛らわせる。


「お父さんやお母さんのところへ行くのもありかな……?」


 誰にとは言わず話すと答えが帰ってきた。黄金妖精――――リンドベル・ベルリリーだ。心が荒み切っているシスを前に、リンドベルは大きな声を出す。


『私が見初めたシス・バレッタはこんなところで終わる存在じゃないわ』

「そんなこと言うのはベルだけだよ。今この旧帝都は何て呼ばれているか知っているかい?」

『さあ? 私から見ればまだまだ生きていける土地であると思うけど?』

「廃都って呼ばれているんだよ。有力な王侯貴族は処刑されて、残るは意地汚い中流階級だけ」


 竜王国になびくものしかもう残っていないのだ。だから、帝都に元々住み、困窮している者を助けて酔うとする者もいない。腐りきった果実のように煮ても焼いても食えぬ者しか残っていない。


『シス……廃都がどうしたっていうのよ。バレッタ家だって、次期当主だったあなたがいればどうとでもなるでしょう? こんな薄汚れて、ガリガリになって……このままじゃ死んじゃうわよ』

「お父さんもお母さんもフィオもきっと死んだんだ。生きる意味なんてないよ」

『バカ‼ この大バカ‼ あなた、ブックマンって呼ばれるくらい頭がいいんでしょ‼ 剣や魔法だってそこそこ使えるって知っているわよ‼』

「だから何だって言うんだよ?」


 シスはふらついていた。疲労困憊というやつだ。とにかく腹に何かを入れたいと飢餓で頭が回らなくなっていた。ダンジョン探索者ギルドの横の酒場の裏手に捨てられたゴミがあった。シスは腐った野菜や食いかけの固くなったパンを腹に詰める。涙が止まらない。空腹が満たせて嬉しかったからでは、決してない。人生でこれほど惨めな食事は初めてだった。


『シス……自分の人生を諦めちゃダメだよ。どんなに這いつくばっても、夢を掴まなきゃ』

「ベル……もういいんだ。僕は……いずれ死ぬだろう」


 黄金の軌跡がクルリと横回転をかけながらシスの方にぶつかる。シスはすっ転ぶ。リンドベルが、〝惨めな〟シスを叱咤激励しようとしているのだ。だが、その思いは伝わらない。シスは口の中が切れて広がった血を地面に吐くとまた行く当てもなく歩いていった。


「おい、坊主? おい、お前だ、坊主‼」


 隻腕の犬獣人が声をかけてきた。明らかに生業が卑しい者だ。

 だが、こんなボロボロの自分に興味を示したことにシスは面白いと感じている。


「あそこの綺麗な白い髪に、眼帯を付けた女の獣人族が、声をかけられている竜王国の兵士の財布を盗んで来い。上手くいったら半分やるからよ」

「ほんとうなの? そんなことバレたら、首つりじゃないの?」

「ああ、そうだが、お前……結構素早そうだから、バレても逃げおおせられるだろう?」


 シスは、心を闇に染めようとしていた。憎い竜王国の兵士に唾をかけるつもりで、背後に忍び寄る。そして……財布を盗んだ。が、気が付くと地面に転がっていた。首つりで終わりかと死んだ瞳をしていると、兵士が一言。


「竜王国の兵士に楯突く奴はな。蹴り殺してやる。血のションベンを漏らしながら死ねや」

「ご、ごめ……ん……」


 その先は言えなかった。消化器官のどこかが傷ついたのか血を吐く。痛みで朦朧として失禁までする始末だった。それも鮮血交じりで地面に広がる。シスは、一体なんの罪を犯したらこんな地獄の日々を送らせるのですかと神に祈った。段々と痛みがぼやけてくる。


「(ぼ、僕は……――これで死ぬんだな)」

『(シス……諦めちゃダメよ)』


 リンドベルが、シスの上着のポケットで声を出して泣いている。酔っ払っているのか竜王国の兵士には聞こえていない。だが、白い髪に、隻眼の青い瞳の女の獣人族の女性が竜王国の兵士を投げ飛ばした。一撃でノックアウト。そしてシスに手を差し伸べる。だがシスは手を取ろうとはしない。心が死んでいるのだ。


『お姉さん……今、この子――――シス・バレッタは家族がみんないなくなり、自暴自棄になっています。どうか、この子だけは助けてあげてください。私は見世物小屋へなり売ってくれて構いません』

「黄金妖精にここまで言わせるとは、相当な実力があるってことだね。気に入った。この子は今日からあたしたち〝泥棒組合〟の仲間だ。手当をしてやるから……って言っても心が聞くのを拒否しているみたいだね」

『〝泥棒組合〟? 廃都で一番有名で正体が掴めないって噂の犯罪組織……さっきの力を見ると……あなたがボスで間違いないわね?』


 それには答えず、白髪の美人でグラマーな猫獣人は仲間たちに手を振った。リンドベルはその光景にギョッとして、目を点にする。視界にいる殆どの者が手を振り返したのだ。一人場違いなのは、シスに盗みを教唆した隻腕の犬獣人の男のみだ。男の周りには周囲の者が集まり、ボッコボコにしている。


「シスか……東の国の有名な神の名前にそっくりだわ」

『博識な白竜の名ね』

「でもこの子にはそんな知識があるのかしら?」

『シスを甘く見ないで、召喚士としては非才だけど、〝ブックマン〟って揶揄われるくらいには、優秀なんだから』

「バレッタ家――――召喚士の名門か……そういえば、フィオ・バレッタという名の竜王国の巫女が誕生したって聞いたような……」


 シスの瞳に炎が宿った。それが分かるのはリンドベル・ベルリリーくらいだ。


「お姉さん、教えてください。フィオは今竜王国のどこにいるんですか?」

「こらこら……野生の動物じゃないんだから……暴れるんじゃないの」

「僕の名前はシス・バレッタです」

「さっき、黄金妖精から聞いたわ」

「お姉さんの名前は?」

「今は……ただのルプスだよ。〝泥棒組合〟の首魁さ」


 シスは、それを全て聞く前に、気を失った。原因は貧血だ。だがルプスは慌てて、治癒院に連れて行った。シスは〝王の書〟だけは服の中に隠して、誰にも見せないでいる。


 この出会いがシス・バレッタの心を救うことになった。

 しかし、ルプスはどんなに仲がよくなっても――――――本名を明かさない。


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