思えば遠い影法師

根ヶ地部 皆人

思えば遠い影法師

 私が炎天下の街中をスーツ姿で歩いているのは、職場の冷房に嫌な寒気を覚えて早退したからだ。汗だくとなったシャツの下、背筋に気持ちの悪い震えを感じる。

 やはり風邪をひいたようだ。

 蝉の鳴く季節になぜガタガタと震えねばならぬのか、とぼやきながら駅の自動改札を抜けてホームへと向かう。

 折よく到着した各駅停車へ滑り込み、寒気を避けて目指すのは『弱冷車』のシールが貼られた車両だ。

 真夏日の昼間、エアコン弱めの車両には、私以外の人影はない。遠慮なくシートの真ん中に腰をおろし、連日の暑さと職場の冷房にいためつけられた体を休めることとした。

 目を閉じると、眠気がゆっくり忍び寄る。

 ああ、あの日もこのような、暑い夏の日であった。

 記憶の底でちりりと鈴が鳴る。


 まだ田舎の実家で暮らしていた頃。昔も昔、小学校低学年の夏休みのことだ。

 私はなけなしの小遣いを握りしめ、普段なら大人と一緒にしか行かぬ街へ独力で出かけてみようと、周囲の隙を見て駅へ向かったのだ。

 別に家出などという大それたものではない。保護者なしで街へ行って帰ってくるという、往復1時間程度のささやかな冒険を企てただけだ。もし見つかったとしても、心配されこそすれ怒られるようなことはなかっただろう。

 列車に乗った私は……そう、列車だ。まだ当時、私の実家の周りに電車はなく、ディーゼルエンジンで動く列車が走っていた……計画通りに街の大きな駅に降りたった私はしばらく小さな達成感に浸ったものの、5分とせぬうちに慣れぬ人込みに心細さと罪悪感を刺激され、帰りの切符を自販機で購入した。

 そこから続いて思い出されるのは、列車の窓の外を見知らぬ景色が流れていたことだけだ。その間の記憶が無い、というよりもその間の意識が無かったように思う。眠り込みでもしたものであろう。

 駅名を告げる声で意識を取り戻した幼い私は、降りるべき駅を通り過ぎたに違いないと信じ込み、アナウンスの内容も聞かずにホームへ飛び降りた。もちろん、見知らぬ駅である。それでも駅員に聞けば帰り道くらいはわかるだろうと、そのくらいの思慮はあったように思う。

 しかし幼い私が踏んだのは、小さな無人駅のホームだった。降りる人も、入れ替わりに乗る人も、期待していた駅員もいなかった。

 あれれと思う間もなく背後で列車の扉が閉まる空気音。そして無情にも列車は走り出し、すぐに小さくなって消えた。

 携帯電話など普及する以前の時代である。古く小さな無人駅に、頼れる人も居ない場所に、幼い私は取り残されたのだ。

 泣きそうになりながら駅員か、せめて通りすがりの人でもいないかと、私は歩き出した。改札口に、切符売り場に、待合室に人影を求めてさまよっていると、不意に声がかけられた。


 はっと目を見開く。心臓が跳ね上がる。

 眠り込みでもしたものか慌てて顔をあげると、窓の外では見知らぬ景色が流れている。

 既視感に苦笑しつつ、もはや幼くない私はスマートフォンのスリープを解除しようとした。時間も現在地も時刻表もたった一台の機械でわかるとは、なんとも便利な世の中になったものだ。

 しかし文明の利器は目覚めなかった。バッテリーが切れたかもっと別の致命的な故障か、何度ボタンを押しても明りがともらない。

 頼りの機械が使えぬとなると、途端に気弱になるものである。さて自分は寝過ごしたものか、それともまだ家路の途中か。景色には全く見覚えがないので後者に違いないと思うのだが。

 ……本当に?

 窓の外へ、改めて目を向ける。

 本当に私は、この景色に見覚えがないのか?

 速度を落とし始めた電車の窓からは、やや古ぼけたビルの群れと、それを結ぶようにかかる大きなアーケードが見える。

 通りに並んでいるであろう建物を、私はたぶん知っている。

 あのアーケードの入口には、和風の花嫁花婿衣装を着たマネキンを飾る写真館があるはずだ。

 通りを覆う大きな屋根の下を、私はきっと見たことがある。

 あのアーケードの下、駅側から最初の十字路の角を右に曲がれば古ぼけた映画館があるはずだ。

 かすかな記憶に残るその商店街を、私は絶対に通ったことがある。

 あのアーケードの下、駅側から2番目の十字路の角には3階建ての本屋と、深い緑の外装の小さな喫茶店があるはずだ。

 電車が止まる。アナウンスも聞かず、開いた扉へ駆け寄る。

 脳裏でちりりと鳴る鈴の音に誘われ外へ出ると、誰も居ない小さな無人駅だ。他に降りる人も入れ替わりに乗る人もおらず、ただ蝉の声だけが響く。

 背後で扉が閉まる空気音。続けて動き出した電車には眼もくれず、私は歩き出す。木立の多い構内を抜け、見覚えのある改札口を、誰もいない切符売り場を、薄暗い待合室を覗き込む。

 そして不意に、いや待ち望んでいた通りに、声がかけられる。


「誰か探してんの?」


 振り返る。

 子供時代の記憶では、そこに当時の私と同年代の少年が居た。

 今は、私よりも年若い青年が立っている。

 私がかつてと同じく降りるつもりだった駅名を告げれば、返ってくる答えは記憶のなかのものとまったく同じだった。

「早く降りすぎたな。そこはまだ先だよ」

 ああ、と現在の私は溜息をつく。

 そんなはずはないのだ。

 私はもう成長し、故郷を遠く離れて生活している。

 知らず知らず、かつてと同じ駅にたどり着くなどあるはずがない。

 夢に違いない。今、私は電車に揺られて夢を見ているのだ。であれば、あの日のことも夢であったのかもしれない。

 記憶の中の少年と、現在の青年の声が重なる。

「次の発車まで時間がある。ゆっくりしていきなよ」


 夢に違いない、と思えば期待が生まれた。また彼女に出会えるかもしれない。

 胸の奥でちりりと鈴が鳴る。

 かつて見知らぬ土地に戸惑う私が出会った、1人の少女。

 白いワンピースを着た、髪の長い女の子だ。

「あなたはだぁれ」

「どこからきたの」

「あそびましょ」

 左手首に結んだ編み紐に小さな鈴がついていて、彼女が走ったり跳ねたりするたびに、ちりりとそれが鳴ったのを覚えている。

 別れ際、帰りの列車に乗る前に、少女は私に同じ鈴をくれたのだ。

「また会った時にわかるようにね。1つあげるね!」

 編み紐に結ばれた小さな鈴を、私は確かに手に取ったのに。

 あの鈴はどこへやってしまったのだろうか。

 また彼女に出会えるかもしれない。私はもう子供ではなくなって、目印の鈴もなくしてしまったが。


 どこかでちりりと鈴が鳴る。


 目を向けると、1人の少女が居た。

 白いワンピースを着た、髪の長い女の子だ。記憶の中と同じく、左手に結んだ編み紐の先で小さな鈴が揺れている。

 息を呑む私に、少女が記憶と変わらぬ笑顔で言う。

「ひさしぶりね」

「いつまでいるの」

「あそびましょ」

 君は誰とか、もらった鈴をなくしてしまってとか、そんなことを口に出す暇はもらえなかった。少女は挨拶もそこそこに強引に私の手を取って、商店街へ駆け出してしまう。

 少女に引きずられつつ振り返ってみれば、青年が苦笑して肩をすくめていた。

「ゆっくりしていきなよ」

 ちりりと鈴が鳴る。


 風邪気味の悪寒も戸惑いもどこへやら、気づけば私は少女とともに力一杯走っていた。

 一度だけ来た街、懐かしい街、何度も記憶でたどった街。

 駅を出て左に曲がれば、長いアーケードの商店街だ。

 アーケード入口には写真館があって、大きなショウウィンドウの中で和風の婚礼衣装の男女が出迎える。古ぼけたマネキンだ。

 まっすぐ進んで最初の十字路を左に曲がれば広場があるが、この夏の日差しの中でコンクリートの地面を目指すわけもない。右に曲がって古ぼけた映画館へ寄ってはみたものの、『絶賛上映中』と書かれた看板は映画館以上に年季の入った白黒の外国恋愛映画のようで、少女も私も落胆の声をあげて踵を返す。

 街を走る。

 私と少女以外、誰も存在しない街。

 すれ違う客もなく、店番の影もない。しかし、百貨店の外にはセール中の靴下を満載したワゴンが出ている。電気屋の店頭ではいくつもの扇風機が首を振っている。

 駆ける。ついさっきまで人々が居たかのような無人の街を、少女に手を引かれて鈴の音とともに駆け抜ける。

 通り過ぎた店の奥から聞こえる音楽が、おもちゃ屋の軒先で猿の人形が叩き続けるシンバルが、そしてそれらを圧倒するほどの蝉の声が私たち2人を包み込み、少女の躍動にあわせてちりりと鈴が鳴る。

 私と少女だけの、夏の街。

「のどかわいちゃった」

 少女がそう言うので喫茶店へ足を向けたが、喫茶店の深緑のドアには休憩中の札が下がっていた。

 暑さ除けの緊急避難として、向かいの本屋に駆け込む。ビジネス書や雑誌が置いてある一階を駆け抜けて左手の階段を昇る。小説が置いてある二階には心惹かれたが、少女の手が引くままに三階へ。そこはマンガ売り場だったが、一角にはプラモデルの箱が積み上げてある。

 少女が歓喜の声をあげる。

「すずしいーーー!」

 私と少女以外に客はおらず、それどころか店員さえいない。しかし照明は煌々とついているし、エアコンも元気に稼働中だ。

 やはりこれは夢なのだろう。きっと昔の夢、昔見た夢を今も見ているだけなのだ。

 小さな物悲しさに襲われた私など知らぬげに、少女は無邪気に言う。

「すずしいけど、やっぱりのどかわいちゃった」

「駅に戻ろうか。自動販売機があったはずだ」

「もどろっかー」

 うなずいた少女が駆け出すと、手首でちりりと鈴が鳴る。


 駅の周りにも、人は居ない。青年もどこかへ行ってしまったようだ。

 少女が自販機に百円玉を1個入れて、背伸びしてボタンを押す。大きな音を立てて落ちてきた缶を、どうぞと私に差し出した。最近は全く見なくなったスリムな体型のコカ・コーラを受け取る。缶の上下にスタイリッシュな絞りがない、無感動に細長い円柱である。

 冷たさと懐かしさに浸ってジュース缶を見つめていると、また自販機が缶を吐き出す音がする。

 目を向けると、少女がUCCの缶コーヒーを取り出すところだった。こちらの缶のデザインは、昔も今も変わった記憶がない。

 彼女のチョイスに吹き出しそうになるのを、懸命に止める。

 子供の頃なら「コーヒーなんて飲むのか、大人だなあ」などと思ったかもしれない。しかし成長した私は知っている。その中に入っているのはコーヒーではなく、ミルクたっぷりの甘い飲み物だ。

 少女は、笑いをこらえる私を不思議そうに見ながら、コーラの缶を指さす。

「飲まないの?」

 どうしようか。半ば夢と思いつつも、躊躇する。

 こういう場所での飲食は、危険なことになるのではなかったか。

 迷う。きっと子供の頃の私なら、問われるまでもなく飲んでいたのだろう。今の私には、いらぬ知識がある。異界の食物よもつへぐいに心惹かれつつも忌避する想いがある。

 迷う私の背後から手が伸びて、まだ冷たいコーラの缶をさらった。

 私のコーラを奪い取った青年は、少女の抗議の声を無視してプルタブを引いて缶を開け、一口飲んでから言う。

「電車が来るぜ」

 え、と聞き返す私に青年がもう一度言う。

「もうすぐ電車が来るぜ。帰るんなら、それに乗りな」

「帰っちゃうの?」

 少女が私を見上げて声をあげる。

 迷う。

 そうだ、かつてもここで迷ったのだ。

 ちりりと鈴が鳴る。


 記憶の中の少年と、現在の青年の声が重なる。

「帰りたくないなら、残ればいいじゃないか」

「ずっとずっと、ここに居ればいいじゃないか」

「誰も困らないさ。お前の代わりなんか、いくらでも居るだろう」


 溜息をつく。

 力無く笑った私に、青年が言い募る。

「なんなら、俺が代わってやろうか?」

「そうもいかないよ」

 答えて無人の改札口を抜けるのと同時に、各駅停車の電車がホームに滑り込んでくる。目の前で『弱冷車』のシールが貼られた扉が開く。

 振り返る。

 少女が寂しそうに手を振っている。手首でちりりと鈴が鳴る。

 その少女の背後から、青年が彼女の両肩へ軽く両手を置いている。きっと私を追いかけたり引き留めたりしないよう、優しく抑えているのだろう。

 少女へ手を振り返し電車に乗り込むと、その背後でアナウンスも無く扉が閉まる。

 見送ってくれる少女と青年にドア越しにもう一度手を振って、私はシートへ腰かけて目を閉じる。


 私は帰る。かつて、子供の私がそうしたように。

 かつて私は少女から鈴をもらった。また会った時にお互いにわかるように同じ鈴を持って行けと、彼女はそう言ってくれたのに。あの鈴はどこへやったのだろう。

 記憶の中で、もらったばかりの鈴を泣きそうな顔で弄り回す私に少年が言った。

「帰りたくないなら、残ればいいじゃないか」

「ずっとずっと、ここに居ればいいじゃないか」

「誰も困らないさ。お前の代わりなんか、いくらでも居るだろう」

「なんなら、ボクが代わってやろうか?」

 子供の私は、その言葉に……


 はっと目を見開く。心臓が跳ね上がる。

 ゆっくり走りだしている電車の中を逆走し、ホームに2人の姿を探す。

 少女と青年は私の姿を認め、そろってこちらへ手を振った。

 彼女たちの手首で、ちりりと2つの鈴が鳴る。

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