第5話 スクナヒコナ

「――――ずっと待ってるって、言ってくれたじゃないかぁぁぁぁぁぁぁッ!!!」


 自らの絶叫で意識が覚醒する。

 すがるように伸ばした手の先に透花の姿はなく、そこにあったのは見慣れた天井だけ。


「……ここ、俺の部屋か……」


 俺が目を覚ましたのは、滅茶苦茶に乱れた自室のベッドの上。

 窓からのぞき込むシンとした闇と月明かりだけが、ベッドと机しかない簡素な室内を照らす。


「無意識の内に帰って来てたのか……?」


 透花に告白した後の記憶がない。

 どうやって帰って来たのかも分からない。

 鶏の鳴く声は聞いた気がするから、もしかしたら朝まであの場で立ち尽くしていたのかもしれない。


「っていうか、今、何時だ。むしろ何曜日だ?」 


 枕元の目覚ましを確認すると、今は土曜の夜七時だった。

 透花に告白したのが金曜の放課後だから……あれからすでに二十四時間以上も経過していることになる。

 時間の感覚が麻痺している。周囲の全てに現実味が感じられない。

 起き上がろうとすると、びしょ濡れの制服が肌に張り付いて気持ち悪い。


「そういえば雨に降られたっけか……」


 少しずつ記憶が蘇る。

 透花に振られた俺は、まるで電池の切れたロボットのようにその場に立ち尽くし、一晩中雨に降られ、濡れ鼠のまま家路に着いたのだった。


 俺はベッドに腰かけ、胸ポケットからスマホを取り出す。

 しかし透花からの連絡はない。

 透花から『冗談だよ』なんてメッセージが届いてたりして、なんて淡い期待は露と消える。

 今度は自分の頬をつねってみた。普通に痛い。

 もしかしたら夢なのではないか、というほのかな希望も頬の痛みに打ち砕かれた。


「…………やっぱり現実じゃねえか……」


 ああ、現実だ。嫌というほど現実だった。

 俺は透花に振られたのだ。

 振られた、振られた、振られた……はは、だとしたら、何のための十年だったのだろう。


『十年かけて透花に見合う男になる。そして十年後、透花にこの想いを伝える』


 誰に決められたわけじゃない。幼い頃、自分で自分に課した戒め。

 今となっては何で十年だったのかも記憶に怪しい。それでも、ただひたすらにその戒めを胸に駆け抜けた十年だった。


「透花が……透花だけが、俺の生きる意味だったってのに……」


 最愛の人との思い出が、走馬灯のように脳裏を巡る。

 透花の笑顔が、泣き顔が、怒った顔が、色鮮やかに浮かんでは消えていく。

 そして、最後に見えたのは、俺の告白を断ったときの今にも泣きそうな困った顔。


「……女の子しか好きになれない……か…………」


 そんなの、どうしようもないじゃないか。

 誰も悪くない。それは仕方のないことだ。

 そういう性的少数者を差別するような時代じゃない。

 十人に一人は性的少数者である――なんて研究もあるくらいだ。愛した人が、ただそうだったってだけの話だ。

 分かってる。分かってるけど……苦しい。胸が苦しくて仕方がない。こんな心臓、今すぐ止まってしまえばいいのに。


「どうして俺は……男なんかに生まれてきたんだろう……」


 もし女に生まれていれば、透花は俺を選んでくれたかもしれないのに……。

 それは魂の奥底から滲み出た恨み言。だが返事など在るはずのないその独り言に、


「その言葉を待っておったぞ、綾崎総一郎!」


 聞き慣れない少女の声が返ってきた。

 その声に俺は慌てて振り向く。と、そこにいたのは白い少女。短い髪も、滑らかな肌も、飾り気のないワンピースも、全てが雪のように白い。

 外から入ってきたのか、その少女は両手で窓を開け放ったまま不敵な笑みを浮かべていた。


「は? え? 子供……何で……?」

 

 っていうか、ここマンションの三階だぞ。それに窓の外には足場なんて無い。なのに、こんな子供がどうやって……?

 そんな俺の困惑を嘲笑うように、少女はふわりと室内に舞い降りる。


「うはは、妾の姿を見て驚く人間の姿は、いつみても滑稽で可笑しいのう」


 ベッドに座ったまま動けずにいる俺を見下し、少女はくつくつと笑う。


「な、何だお前。いきなり人の部屋に!」

「何だとは失礼な男じゃのう。ここは『やっと俺のところにも空から美少女が降ってきたぜ。やっほーい』と歓声を上げるシーンではないのか?」

「不法侵入者を前にして、そんな能天気な奴は普通いねえよ!」

「ふむ……普通の反応か、存外つまらん男じゃな……これはハズレだったかのう? せっかく願いを叶えてやるために、天から降臨してやったというのに……」


 白い少女は縁日でハズレくじを引いた子供のように、その表情を渋く歪ませる。


 人形のように整ったその顔は幼く、だが何人も触れてはならないような、そんな浮世離れした神秘を湛えていた。


「いきなり入って来て、つまらない男ってのは失礼だろ。それに何だよハズレって? 何だお前、家出少女か? それとも迷惑系ユーチューバーってやつか?」


 どちらにしろ子供のやることにしては度が過ぎてる。

 もし窓から入ってきたのが知らないおっさんだったりしたらトラウマものだ。即刻警察沙汰だぞ。


「うはは、妾を前にして物怖じせぬとは流石じゃの。子供ながらに十年も叶わぬ願いに奮励努力し続けただけのことはある。並大抵の人間であれば、妾の神気に当てられて、まともに言葉を発することも叶わんというのに……」

「は? 神? 何を言って……ああ、お前、痛い子ってやつなのか?」

「痛い子違うわッ!」

「こんな小さい子なのに、他人様の家に侵入して自分を神とか言っちゃって……そう考えると何だか可哀想になってきたな……」

「可哀想でもないわ! 貴様、神たる妾に向かって無礼にも程があるぞ!」


 両手を振り上げてムキーッと怒る少女……って、あれ? こいつさっき気になることを言ったような?


「お前、さっき俺のことを『十年も叶わぬ願いに向かって努力し続けた』とか言ったか?」

「おお、言ったぞ」


 当然のように答える少女に俺は眉をひそめる。

 十年の努力。その言葉の意味するところは、考えるまでもなく『俺が透花と出会ってからの十年』に違いない。


 ――透花と釣り合う男になるために、俺が費やしてきた時間。

 ――今では全てが水の泡となり果ててしまった時間。


 そんな俺の人生そのものと言える時間。だがこんな子供がどうしてそのことを知っている?


「お前……一体何者なんだ?」


 目の前の少女の得体の知れなさに、問いかける声が微かに震える。


「妾は何者かとなぁ……」


 白い少女は待っていましたとばかりにニンマリと笑うと、白いワンピースを翻しくるりと一回転、その指先をビシッと俺の鼻先に突き付ける。そして、


「妾の名はスクナヒコナ。汝、綾崎総一郎の願いを叶えるために降臨した、由緒正しき女神様じゃよ♪」


 そう名乗り上げたのだった。

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