QeOffe

藤野ゆくえ

QeOffe

 スマートフォンが机の上で震える。君はそれを手に取って、画面に表示された名前をさっと見る。二氏フタウジネハ。最後に会ったのは何年前だろうか……、そう思いながら通話のボタンに触れて、スマートフォンを耳にあてがう。


「トーミツ、ライブやるって!」


 ネハは挨拶もなくいきなり興奮気味にそう言った。


「え、いや……? もう解散したじゃん……」

「再結成するんだよ! 帰ってくるんだって、トーミツ!」


 トーミツ——正式には Tohmitsu89ml だが、「トーミツハチジュウキュウミリリットル」と呼ぶのが長すぎて、多くのファンが「トーミツ」と呼んでいたバンド——は、もう十年以上も前に解散した。ネハも君もトーミツの熱烈なファン、いや、もはや「信者」だった。


「いや……、でも、風邪馬カゼヤマタクスは……」

「見つかったんだよ! なに、オマエ知らなかったの?」


 君はあまりにもわけがわからなくて、黙りこむしかなかった。


「あとでメール送るから、記事の URL の。とにかくそれ読めよ!」


 ネハはそう言って電話を切った。スマートフォンの画面をぼんやり眺めていると、すぐにメールが届いた。そのメールを開いて、表示されている URL へと飛ぶ。


 記事のタイトルは「風邪馬タクス、帰還」だった。

 十五年ほど前にメジャーデビューを果たした Tohmitsu89ml のギターヴォーカルであり、また作詞作曲を手がける風邪馬タクスは、十年ほど前に行方不明になった。そして、トーミツは解散せざるをえなかった。ベーシストとドラマーはそれぞれ別のバンドに加入し、新しい道を歩んでいた。


 そしてその風邪馬タクスが、見つかった……、ライブハウスで。


 行方不明になってから数年経って、もう誰もが、風邪馬は死んでいるのだろう、と思いこんでいた。

 けれど生きていた。

 小さなライブハウス——それは、トーミツがメジャーデビューする前に、初めてライブをしたハコだった——のステージの上に、倒れていた、と。意識はなかったが、命に別状はなかった。すぐに病院に運ばれて治療を受けて、今はもう退院しているらしい。


 関連記事のリンクの中に「Tohmitsu89ml 再結成」という記事があった。ほとんど無意識に、君はその記事へと飛ぶ。


「帰還」した風邪馬タクスは、行方不明になったことについてはかたく口を閉ざしている。ただ「ライブやります」とだけ、言ったらしい。

 かつてのベーシストとドラマーとともに——つまりは、Tohmitsu89ml として——ライブをやる、と。


 君だって、風邪馬タクスはきっともう死んでいるのだろう、と思っていた。行方不明になって十年経っても見つからないのだから、もう……。

 それでも君は、トーミツの曲を聴かない日は一日もなかった。毎晩、寝る前には必ず風邪馬に想いを馳せた。君にとっての「神様」のような存在に。


 そう、トーミツはもはや「宗教」だった。メジャーデビューしているとはいえ、決して有名とは言いがたい。けれど、ファンの熱量はとてつもなかった。

 好きな人は好き、大好き、むしろそれを超えて傾倒して、崇拝して、「信者」にさえなる。しかし、刺さらない人間には、まったくもって刺さらない。

 それが Tohmitsu89ml というバンド、そして、風邪馬タクスというミュージシャンだった。


 どこかで生きていたら……。そして、ひょっこり戻ってきたら……。

 そんな妄想だって、何千回もした。それなのに。


 なぜだろうか。君は嬉しくもなんともなかった。あんなに帰ってくることを待ちのぞんでいたはずなのに、なんの感慨もない。

 さっきだって、トーミツの曲を聴いていたのに。風邪馬の声はやっぱりいいな、メロディーも歌詞も最高だ、ギターも、ベースもドラムも……。そうやって、いつものようにトーミツに浸り、沈み、そのまま溺れて死んだって構わない、というぐらいに。


 嬉しくもなんともない、その理由がさっぱりわからず、君は戸惑った。大好きなバンドが再結成する……、なぜそのニュースに喜べない? なぜ、ネハのように興奮できない?


 ——ライブに行けば、その理由がわかるかもしれない。


 君はトーミツの公式サイトにアクセスする。真っ白なページに黒い文字が並んでいるだけのシンプルなページだ。とてもバンドのオフィシャルサイトとは思えない。

「ライブスケジュール」というリンクに触れる。同じく真っ白なページに、ただ黒い文字が並んでいる。


 八月九日。


 チケットの抽選は、その一ヶ月ほど前から始まるようだ。その日時をスマートフォンのリマインダーアプリに登録する。


 そもそも、チケットは取れるのだろうか。そのライブハウスは、決して大きなハコとは言えない。もちろん、風邪馬が見つかった、あの小さなライブハウスに比べれば大きいけれど……。

 しかも、有名とは言いがたいが、それでもメジャーデビューしていることには変わりないし、ファンはいくらでもいるだろう。


 ——まあ、取れなくてもいいや。


 君は心の中でそう呟いた。それが本心なのかどうか、君自身にもわからなかった。


   — - - - — - - - — - - - — - - - — - - - —


 チケットの抽選には、外れた。そして君はさしてショックを受けなかった。むしろ、そのショックを受けていない自分に対して、ショックを受けそうだった。

 ネハからメールが来ている。「チケット取れたか?」と、抽選に申しこんだことを前提とした疑問文が書いてあった。

 君は返事を打とうとして、やっぱりやめた。代わりにネハに電話をかける。


「なに、オマエが電話してくるとか珍しいじゃん」

「いや、まあ……。チケット、駄目だったよ」

「そういうことね。かなりの激戦だったみたいだから、しゃあないわ」


 ——ネハにバレないようにしなければ。

 君は、そう思った。チケットを取れなかったことにショックを受けていないこと、そもそも風邪馬が帰還してトーミツが再結成したことに対して、嬉しいという気持ちが湧いていないこと……。それらをネハに気づかれてはいけない、と。


「まあ、そんなこともあろうかと、オレはちゃんと取ってるんだなあ。感謝しろよ」

「え? どういうこと?」

「いや、わかんだろ? オレのぶんとオマエのぶんと、ちゃんと二枚取ってんだよ」

「え……、なんで……」

「当たり前だろ、絶対に激戦になるってわかってたんだから。保険かけといたワケ」

「ご、ごめん……。僕は、その、二枚申しこむなんて……」

「わかってるって。オマエがそういうヤツだってことは。それに、オマエが運のないヤツで、オレが運……、つってもトーミツに関してだけの運だけどな……、とにかくオレは絶対にチケット取れるって信じてたからな」


 君は思わず、はあ、と気の抜けた返事なのか溜息なのかよくわからない音を発した。


「なんだよ、定価だぞ? 高く売りつけようとか思ってねえぞ、オレは」

「いや、それはわかってるよ。その……、ありがとう……」

「当日、ライブハウスの近くで会おうな。オレ、それまで多分そっち行けねえから」

「わかった。八月九日だよね」

「そう、まあせっかくだし昼飯でも食おうや。十一時くらいに最寄駅でどうだ?」

「わかった、そうしよう」


 ネハは、じゃあな、と言って電話を切った。スマートフォンを机の上に置いて、君は思わず溜息をつく。


 ライブに行けることになってしまった。


 十年と少し前——風邪馬タクスがまだ行方不明になっておらず、トーミツが活動していたころ——だったら、喜びのあまり一人暮らしのワンルームで飛びはねただろう。それなのに今は、なんの感情も湧いてこない。

 いや……、違う。


 ——怖い。


 やっとわかった。君は、やっと気づいてしまった。

 怖いんだ。


 ——いったいなにが怖いんだ?


 憧れのミュージシャン。大好きなバンド。もはや崇拝しているとさえ言える、そんな音楽。それをつくった人間が帰ってきた、そしてバンドが復活する、それがどうして怖いのだろうか。


 ああ、面倒だなあ……。


 胸の中でそうひとりごちて、君はベッドに横たわった。

 いずれにせよネハがチケットを用意してくれたのだから、八月九日にライブハウスの最寄駅で落ちあうことは避けられない。そしておそらく、ネハと昼食を共にしたあとに、そのまま一緒にライブハウスに入ることになるだろう。


   Quidquid erit, omnis fortuna ferenda est.

   なるようにしかならねえんだよ

   ぐだぐだ言ってんなよ

   Memento mori. って偉そうに

   忘れてたっていつか死ねるんだろ


 そう……、君は特にお気にいりの歌詞を頭の中で口ずさんだ。Tohmitsu89ml の「QeOffe」という曲のサビだ。

 おそらく “Quidquid erit, omnis fortuna ferenda est.” というのはラテン語だろう。現在は使われていない言語だから、それをどう訳するのが正解なのかは、わからない。

 ただ、英語で言うところの "Whatever will be, will be." であり、つまりは「なるようになる」という意味だろう。

 それを風邪馬は「なるようにしかならねえんだよ」と歌う。


「QeOffe」というタイトルをいったいどう発音するのかは、それこそほんとうに、わからない。

 この曲はライブでは定番の曲になっていたが、トーミツはほとんど MC をしないどころか、曲名すら言わないからだ。

 ネハは勝手に「クェオフ」と呼んでいた。君が「けおふ?」と訊きかえすと、「ちげえよ、『く』にちっちゃい『え』だから、『くぇ』なんだよ。『け』じゃねえの」と力説していた。


 なるように、なる。

 なるようにしか、ならない。


   — - - - — - - - — - - - — - - - — - - - —


 ライブが始まって、三十分ほど経った。君はわけもなくただただ、つらかった。なにがつらいのか、どうしてつらいのか、まったくわからず、そしてそんな君自身のわけのわからなさによって、余計につらくなっていく。


 もう、無理だ。


 君はそっと——もちろん、ネハには気づかれてしまうだろうけれも、それはもうどうしようもない——ライブハウスの後ろの扉から廊下へと体を滑らせた。そのまま、床に座りこんでしまう。


 すぐ近くに、あの憧れの風邪馬タクスがいて、ギターを弾きながら歌って、かつてのベーシストとドラマーも一緒にいて、あんなに近くで、大好きな音楽を生で……。


 それなのに。

 どうして、どうして、どうして。


 君は君自身に、何度も問いかける。

 どうして嬉しくないの? どうして喜べないの? どうしてつらいの?


 ——どうして、泣いているの?


 それは、理由をつきとめるべきことなのだろうか。つきとめたほうがいいのだろうか。そもそも、つきとめることができるのだろうか。


 君の頭の中では、やっぱり Tohmitsu89ml の曲の中でも特にお気にいりの「QeOffe」が、勝手に流れていた。


 どうせ、いつかは死ぬ。すべてが、終わる。それなら、なぜ泣いているのか、その理由など、つきとめたってつきとめなくたって……。


 なんとか立ちあがった君は、出入口へと向かう。スタッフに「再入場はできませんが……」と声をかけられて、黙って頷き、そのまま外へ出た。

 ネハは、ライブに夢中で気づかなかったのか、あるいは気づかないふりをしてくれているのか……。それだって、どうでもいいと思えた。


 きっと君はこれからも Tohmitsu89ml の曲を聴きつづけるだろう。嫌いになったわけじゃない。

 きっと……、いや、君にも君自身の気持ちなど、わかるわけがなかった。けれど、それでも構わない。


 なにもかもがどうでもよかった。


   Quidquid erit, omnis fortuna ferenda est.

   なるようにしかならねえんだよ

   ぐだぐだ言ってんなよ

   Memento mori. って偉そうに

   忘れてたっていつか死ねるんだろ


 そう、いつか死ねる。「死ぬ」ではなく「死んでしまう」でもなく、「死ねる」のだ。死を忘れるな、などと言われなくたって。忘れようが忘れまいが、いつかは死ねる。


 なるようにしかならないし、それはつまり、「なるようになる」ということだ。


 きっと死ぬまで、君はこの日を忘れないだろう。

 それでも君はまた、なんの変哲もない日常へと戻る。一人で Tohmitsu89ml の曲に浸り、沈み、そのまま溺れて、けれども物理的に死ぬことはできず、そうやって日々をやりすごしているうちに、いつかは死ねる。


 なるように、なる。

 なるようにしか、ならない。

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