君打ちたもうこと勿れ
@hoshi
第一章 人間の終わり
壱
現在世界の人口は六十八億人です。九十億人程度まで増加します。しかし、新ワクチンや保健医療、生殖関連で十分な成果を納めれば、おそらく十パーセントから十五パーセント抑えることができるかもしれません。
ビル・ゲイツ 大富豪 2010年TEDゼロ炭素スピーチ 4:21から
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-2031年-
「この十年で出来た発明的な医療技術って、死ぬ日の予測が可能になっただけ、ってなんか皮肉。あと九日で、結婚十年だったのにね」
理恵は病院のベッドに腰掛けて、オレンジ色の日差しを浴びながら呟いた。
彼女は今日死ぬ。僕と同じ三十六歳だった。この溌剌とした体のどこに、死が存在するというのだろう。艶やかな黒髪は光を受けて輝き、肌や瞳も潤っており、話す言葉にも衰弱めいたところは一つもない。
それなのに、彼女は今日死ぬ。
「結婚十周年の記念。スイートテンダイアモンドでしょ。買うよ」
「お金あるの?」
「うーん、硯を売る。実は貴重な清代の一面持ってるんだよ」
「あんな石くれお金になるの?」
「なるよ。そんなこと言ったら、ダイヤだって石くれ」
達也はロマンがないね、などと呟いて、理恵は横になると唐突に眠った。その顔に耳を寄せる。彼女の息を感じ、胸をなで下ろす。眠っているだけだ。一月ほど前から、彼女は突然眠るようになった。自宅で死ぬと言っていたが、自転車に乗っていて、突然眠り、頭を縫う怪我をして、そのまま入院した。
起きている時間はだんだん短くなっていた。今日中に彼女は死ぬ。
まだ午前中の清澄な空気。眠る妻を横目に、僕は寺へ向かった。
竜巻が舞い上がり、熱風が吹き荒れ、うねり押し寄せる波に文明が掠われていく。大気はよどみ、黒雲に覆われた空では常に雷鳴が轟いている。休む間もなく揺れる大地。赤土に横たわる妻の手を握るが、みるみる皮膚はただれ、肉は朽ち、骨が崩れていく。
嫌な夢を見た。
どん、と人が倒れる音で目が覚めた。電車が急なカーブを曲がったときに、目の前の死者は椅子から転がり頭を床に打ち付けた。薄く開いている死者の目と目が合ってしまい、僕は視線を外し車両を変えた。僕以外にも、死体のそばに座っていた何人かが車両を変えた。
毎日一万人が死んでいると言うが、実際はもっと死んでいるのではないだろうか。町中で死者に会ったのは、これが三回目だった。死ぬ日は検査をすれば簡単に分かるのに、それをあえてしない人たちがいる。出来れば検査を受けて自宅か病院で死んで欲しい。正直目の前で死なれるのはいい気分がしない。
いや、あえて人前に自らの死をさらす。この世界に対する最後の抵抗を示しているのか。
アナウンスがちょうど目的の駅を告げた。
寺までは駅から歩いて十五分くらいだった。最近はタクシーも少なく、歩くしかなかった。十月に入り、午前中の涼しい陽気だった。時間がないことを除けば、歩くという選択肢は正しい。門前の花屋で仏花を買う。
寺の前には何台も車が駐まっていた。喪服姿の人たちが屯している。喪服は人々から所属を奪う。その人達が、どういう人たちか測るには、靴を見るか、装飾品を見るか。その点僕は普段着だった。喪服の集団に紛れて門をくぐる。
たまたま本堂から降りてきた住職と目が合った。僕は会釈し、
「すごい、混んでますね」
「ああ、内田さん。ご覧の通りの忙しさです。坊主、まるで儲からず」
住職は戯けて言う。
「墓参りに来ました」
「確か命日は先月でしたな。弟さんも喜ぶでしょう。わたしもあと半年の命です」
住職は呼ばれる声に引き寄せられるように、軽く会釈をすると、足早に去った。
次々に死んでいく。掃いても切りがない秋の落ち葉のように、人々は死に続けている。当分、ここの賑やかさは続くだろう。
寺の後ろ側は丘陵地になっており、そこに墓が犇めいていた。弟と両親、祖父母が眠る内田家の墓は少し登らなければならない。僕はじっとりと汗をかく。
「裕二、僕も今日そっち行くから。理恵と一緒に。だから驚くなよ。あと、嫌味も言うな」
僕は花を添えながら言った。午前中の清々しい風が吹いていた。二歳年下の弟はちょうど十年前にコロナに罹って死んだ。二十四歳だった。当時は、どうして弟が死ななければいけないのか、随分嘆いたが、弟はあの時死んで正解だったのかも知れない。こんな世界の空気を吸わずに済んだのだから。
墓石の裏側に回る。両親の名前よりか、幾分新しい彫りで、内田裕二 1997~2021 と刻まれている。その名前の溝を僕は何度となく撫でてしまう。
踵を返し山を下る。今日僕が死んだら、この墓は誰が管理するのだろうか。住職に伝えた方がいいだろうか。いや、住職も半年で死ぬ。終末を迎えるこの世界で、墓の行方を考えるのも馬鹿らしい。
僕と理恵は子どもを作らなかった。最初、カナダで急に死産が増えた。それがワクチンの影響であると分かったのは随分と後だった。しばらく様子を見ようということにして、2026年を迎え、僕たちは遠からず死ぬことが分かった。仮に子どもを産んでも育てることは出来ない。諦めるしかなかった。理恵は悲しんだ。彼女は子どもを持つことを夢見ていたから。僕も悲しかった。悔しかった。
本堂を通り過ぎるとき、ちょうど住職と遇う。袈裟が厚いのか、うっすらと額に汗を浮かべている。
「本当に忙しそうですね」
「ええ。お参りはお済みですか?」
「はい。あ、ところで、僕もそう長くないわけで、僕が死んだら、お墓どうしたらいいかなって」
住職ははじけるように笑って、
「面白い心配をなさる。そうですなぁ。わたしももう死ぬので、この寺をどうしたものやら」
そう言えば、住職以外の僧侶が見当たらない。昔はもっとたくさんお坊さんがいた。
「ひょっとして、もうご住職お一人?」
恥ずかしそうに頷いて、
「最後のご奉公です。命ある限り、わたしはこのつとめを果たします」
「みんないなくなってしまいますね。最初、
「あの時はまだワクチン副反応が公になっていない頃、ガルシアショックの前でしたからな」
雲水の義章さんはちょうど僕と年齢が一緒で、来るたびによく話していた。両親の法要などでも、なにかと好くしてくれた。たしか、ワクチンの危険性が議論されるようになった2025年頃だったと思う。心筋炎で突然亡くなった。
住職に一礼して寺をあとにした。
駅に戻り、自動改札にモバイルをかざす。金額が表示されるところにハイフンが表示されるのを見るたびに、苦笑が漏れる。妻の病院まではここから二時間かかる。今から戻れば十四時前には着くはずだ。
病院のある駅まで戻ると急に腹が減ってきた。駅と併設されている商業施設はシャッターが多く、一部は電気が消え、悲しい感じがした。繁華街やアミューズメントパーク、むかし人が多く集まっていた場所に行くと、この一、二年で明らかに人が少なくなったのが分かる。
すえの露もとの雫や世の中の後れ先立つためしなるやんっ!
商業施設では天井のスピーカーから、古い和歌をサビに用いた、最近流行っているロックが賑やかに流れていた。
いつもの癖で値引き品やコスパの高そうな弁当に伸びてしまった手を、ぐっと引き戻す。もうそんな必要はない。値札を見ないで食べたいものを選ぶ。自動支払機に表示される金額を無視してモバイルに入ったワクチンパスポートをかざす。金額の数字は、ありがとうございました、という文字に変わった。
余命1年以内の人は在来線の利用と日用品が全て無料になるというサービスを政府は半年前に導入した。僕はつい先週、余命一年を切ったので、まだこのサービスに慣れていない。公園で弁当を食べて病院に戻る。
「達也」
男の声だった。理恵の病室に戻る廊下で、後ろから名前を呼ばれた。
「まさか、海津?」
振り返ると、数年会っていない親友の顔があった。海津は笑った。懐かしい笑顔だった。
「おう。そのまさか」
「五年ぶり、くらいか」
海津は髪が肩に掛かるほど伸びていた。高校の時からいつもオシャレに決めていた記憶なのに、安物のジーパンにネルシャツ姿。声をかけられなければ気がつかなかっただろう。
海津は缶コーヒーを奢ってくれると言うが、僕はワクチンパスポートが使えるから、と断った。逆に奢ってやろうとしたが、二つ目が買えない。モバイルに、次の使用は30分後と表示され、29:59、29:58、29:57と数字が減っていく。連続して二つは買えない仕組みになっているらしい。国が滅びようというのに、政府は相変わらず細かいことに拘る。
夕陽の射す中庭のベンチに腰掛けた。昼間は過ごしやすい秋の涼しさが、日が傾くと肌寒さに変わる。ホットコーヒーの缶を手で包む。
「なんでここにいるんだよ。どっか具合悪いのか?」
「バカ。理恵の見舞いだよ。たまたまここに同期が務めてて、ほんと偶然に知った」
海津も理恵のことが好きだった。海津と僕と理恵は同じ高校で、よく三人で遊んでいた。海津は留学してしまったが、日本に帰ってきてからはたまに会っていた。僕と理恵の結婚式ではもちろん友人代表を務めてもらった。
親友だった。五年前の、あの事件が起きるまでは。事件以来、海津とは音信普通になっていた。
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