人間違い

そうざ

Mistake a Human

「やっぱりこの写真が良いわね」

 実家の八畳間に広げたアルバムの中から、姉が遺影候補の一枚を抜き取った。十年以上前、家族四人で行った最後の旅行で撮ったものだ。当然、父は今よりもずっと若々しいが、一番最近の姿となるとこれしかないから、他に選びようもない。

 あの後、間もなく母が病死し、数年後には二人姉弟の僕達も独立してしまったから、父はこの実家で一人鰥夫ひとりやもめを続けていた。

 記憶に残る父は、寡黙で実直だった。社交的な人ではなかった。悩み事があっても、一人で抱え込む気質だったろう。

「まさか誕生日に亡くなるとはね」

「偶にそういう人の話を聞くけど、まさか自分の親がそうなるなんて思いも寄らなかったわ」

 仮通夜が終わり、駆け付けた親戚は皆、明日の本通夜に備えて早々と帰宅した。実家に残った僕達は、思い出の写真を眺めながら感傷に浸っていた。

 そろそろ休もうかと思った矢先、玄関の方から声がした。

「ご免下さい……」

 こんな夜分に誰だろう。様子を見に行くと、そこに喪服の女性が佇んでいた。

「お線香を上げさせて下さい……」

 それだけ言うと、女はそそくさと上がり込み、迷いもせずに八畳間に向かった。

 葬儀は家族葬で執り行うので、親戚以外には父の死を伝えていない。父が死んでいるのを発見したのは、偶々回覧板を持って来たご近所さんだった。その後、救急車の他に警察車両も駆け付けたので、周辺で噂になったのかも知れない。

 思い切って姉が尋ねようとすると、女が先に口火を切った。

「間違いは何方どなたにも起きるもので御座います……」

 不可解な物言いに、僕達は思わず顔を見合わせた。間違いとは何の事だろう。

「父とはどういうご関係で」

たまさかのご縁で……」

「タクシー会社の方ですか?」

「いいえ……」

 それだけ言うと、女は線香の煙を浴びたまま口を噤んでしまった。

 父は、勤続四十年のタクシー運転手だった。或る夜、泥酔した一人の男を乗せた。乗客は行く先を告げると、直ぐに寝入ってしまったという。

 やがて、タクシーは目的地に到着し、父は乗客を起こした。ところが、そこは指定された場所ではなかった。そもそも乗客の呂律が怪しかった為、父は似た地名と勘違いしてしまったらしい。

 平身低頭の父は直ぐに本来の目的地に向かい、何とか事なきを得たものの、乗客はタクシー会社にねちねちとクレームを入れた。

 同僚達は、この一件と父が体調不良を理由に休暇を願い出た事とに関係があるのではないかと噂し合ったという。

 仕事上のトラブルは皆無に等しかった人だ。間違えたのは自分の方だと気に病み、そんな生来の気質が死へと追い込んだのかも知れない。

「……最後の乗客の方はお悔やみにお越しですか?」

 女が線香を見詰めたままぼそりと言った。

 タクシー会社の人間ではないと言っていたのに、どうしてそんな事まで知っているのだろう。女がさっき、間違いは誰にでもあると言ったのは、やっぱり父が思い悩んでいた件を指しているのか。

 僕は少し上擦った声で答えた。

「その場限りのお客さんでしたから、父が亡くなった事さえ知るよしもありません」

 僕も姉も今はもう乗客を怨んではいない。初めは何とか捜し出せないものかと考えたが、乗客を責めても仕方がないと思い至った。

 台所にお茶を淹れに行った姉が、珠暖簾の陰から僕を手招きしている。僕は女に断って中座した。

「ねぇ、あの女が最後の乗客だったんじゃないの?」

「僕も一瞬そう思ったけど、親父と同年代だったって話だろ」

「もしかしてお父さん、あの女と交際してたとか? 実は向こうも既婚者でさ、ってそういう意味なんじゃない?」

「まさか、そんな」

 僕は呆れながら直ぐに否定した。お堅い父親には有り得ない話だ。嬉しい時も悲しい時も、何かある度に母の遺影に話し掛けていた姿が今も目に浮かぶ。

 姉の推理は止め処なく続く。

「じゃあ、お父さんを追い詰めた乗客の奥さんか、愛人っ」

「仮にそうだったとして、どうやってこの家の住所を知ったのさ。そもそも親父が死んだってどうして判った――」

 僕は、自分で口にした言葉に総毛立った。

 父の死は不可解だった。寝床で穏やかな表情で冷たくなっていたというが、母を早くに亡くしている事もあって人一倍、健康には気を付けていた。病死か、自死か、事件か、警察の中でも意見が分かれた。それは父の死の前日、僕が見た或る光景が捜査会議で注目されたからだった。

 母の十三回忌法要の打ち合わせで、僕は久方振りに一人で実家を訪ねた。

「あれ? 明日って親父の誕生日じゃない?」

 父は、僕に指摘されて初めて気付いた様子だった。今にして思えば、父は何処か心ここにあらずだった。それでも、深く落ち込んでいるとは最後まで気付けなかった。

「どうせなら明日来れば良かったなぁ」

 玄関先で帰る僕を見送ってくれたあの微笑は、作り笑いだったのだろうか。

 田園を行くバスの窓から名残惜しく後ろを振り返っていた時だ。山腹にある実家の方へ進む人影があった。全身黒尽くめに見えたのは、夕闇が迫りつつあったからなのか。細い小径の行く手には、父の住まいしかない。

 姉が声を潜める。

「やっぱりその人影がお父さんを……」

「警察も捜し出せなかったんだから何とも言えないけど、遺体には外傷も毒物反応もなかったし、やっぱり突然死って事で納得するしかないよ」

 その時、八畳間の方から囁くような声が聞こえた。

「この度は誠に申し訳御座いませんでした……」

 僕達は思わず耳をそばだてた。父に謝罪をしているかのような口振りだ。姉の推察通り乗客の身内だったのか、と僕は更に耳を研ぎ澄ませた。

「離魂確定者と貴方様との姿形がよく似ておりましたもので……」

 僕達は顔を見合わせた。話の行方が見えない。

あたつさえ生年月日まで一緒だったとは……」

 不意に、間違い、という単語が脳裏に浮かんだ。

「今後はこのような間違いがないよう……」

 僕達は思い切って八畳間に飛び出した。

 そこに、女の姿はなかった。まるで最初から誰も存在していなかったかのように、線香は火を灯していなかった。

「あ……布がずれてる」

 北枕で永眠ねむっているその面差しに、僕達は言葉を失った。

 玄関の方から、ただいま、と聞こえた。

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