第2話


 いろいろな意味で信じ難いことだが、マスター・サカキがこの僕こと日長椿ひながつばきを《飲み会》に誘ってきたのがおよそ三時間ほど前のことだった。

 未成年を酒の席に誘うことじたいが非常識だと思うが、誘ってきた相手があのサカキだっていう事実がもっと驚きだ。

 僕は三日前、この人の前で死にかけた。

 血みどろになってのたうち回ったところを見てたはずだ。

 そして何よりサカキ先生の正体も知ったのだ。

 だから、飲み会だなんて連絡が来たときはとうとう気でも狂ったのかと思った。


「私は私ですよ。どこにいて何をしていても……。わたし自身がね」


 サカキは至極おだやかな口調で、そう答えた。


「いつか私のことを魔術捜査官が逮捕しに来るかもしれませんが、そのときのことはそのときに考えればいいのです」

「そういう態度が信じられないって言ってるんだけど」

「いつもいつも秘密を抱えたまま、閉じこもっておくわけにはいかないんですから。日常にだって我々の役はあるんです。そうでしょう? あなたは私に……自分を犠牲にする必要はないとおっしゃった」

「それはそうですけど」

「これがわたしの日常なのです」


 彼は手のひらの仕種で、周囲を示す。

 《大山猫》の客たちはめいめい着飾って、会食を楽しんでいる。高級店らしく落ち着いているけれど、厳粛といったふうではなく、それなりに騒がしい。

 大山猫に客を食わせて、その作法を伝統にしてる店だから、まあそんなものだろう……これは悪口だ。

 二階から上は個室が並んでいて、案内されたのはその一室だった。

 サカキは支配人じきじきに車いすを押され、個室に案内されていた。

 なんか見るからに高級店って感じ。


「既にオガル先生とプリムラ先生がいらしてますよ」

「この間から疑問なんだけど、マスター・オガルとどんな顔して会ってるの?」

「ウフフ。先生は意地悪ですね。、仲良くやりましょうよ」


 到着するや否や、仕切りの向こうから孔雀色くじゃくいろのドレスをまとった妙齢の女性が飛び出してきた。


「あいたっ!」


 不意打ちを受け止めそこねて廊下に押し戻されて尻もちをつく。

 女性の体からは香水のにおいと、酒のにおいが立ち昇ってくる。体に全く力が入っておらず、言葉で表現するなら「ぐでぐで」だ。けっこう飲んでるな、これ。

 ちょっと嫌な記憶を呼び出しそうになったけど、無理やりねじ伏せて現実を直視する。

 輝く紫色の瞳がふたつ飛び込んできた。トレードマークの三角魔女帽子は、今日は不在だ。華やかな場にふさわしく結い上げられた髪が無造作にゆるんで、何やら妙になまめかしい気がして僕は可能な限り素早く視線を外した。

 あぶない、魅了の魔術だ。


「ヒナガせんせえ!」


 こっちの気も知らずに、彼女は涙混じりの声を上げた。


「えええっと、もしかしてマスター・プリムラ? いったいどうしたんですか」

「ヒナガせんせえ、わたし、かわいそうなの! すっごくすっごくかわいそうなの~!」


 マスター・プリムラは僕の胸に顔を突っ込んで嗚咽おえつを立て始める。


「申し訳ない。私だけじゃ力不足でどうにもなりませんでした」


 個室の奥からうつむき気味に青い頭を下げて出てきたのはマスガー・オガルだ。

 彼らも今日はプライベートなので教官服じゃない。

 濃紺のジャケットを羽織り、白いニットの上にループタイを合わせてる。

 オガルは泣きつくプリムラを抱え上げ、僕から引きはがした。

 僕は散らばったプリムラの靴やハンドバッグの中身を拾い上げ、個室の中に押し戻すのに必死だった。

 これ以上騒ぎを起こしたら人目につく。

 学院の教官服を着て来なかったのは不幸中の幸いだ。いやちがうな。

 誰かに見られたらまずいから、誰も教官服を着てないんだな。


「たぶん僕にもどうにもならないと思うんですけど、どうしたんですか」

「フラれたんです……。彼女はお付き合いしている男性にフラれるたびに、ヒマそうだからという理由で私たちを呼びつけて深酒をするんです」

「えっ!? 今日の飲み会の趣旨ってまさか、それなの!?」


 僕は驚きのあまり声を上げた。


「いいですか、ヒナガ先生。学院の最年少教官仲間として教えておきます。楽しい飲み会なんてこの世に存在しないんです。この先幾度となく季節が移ろっても、それだけは絶対です」


 マスター・サカキは精いっぱいの諦念ていねんを浮かべた表情で、僕にしょうもないことを説いてみせる。


「今、僕は貴方のことを軽蔑してますよ……?」


 ものすごいポジションを日常に据えてるんだな、とも思った。


「なんとでも仰ってくださって結構。ただ、この会の参加者は極めて常識的でかつ懐豊かな階層出身者で揃えてますので、最年少であるヒナガ先生は財布をポケットから取り出す必要すらありません。私どもの支払いで何でも飲み食いして頂いて結構です」

「冷静と狂気のあいだって感じで評価し難いです」

「シャンパン! シャンパンもってきて!」


 プリムラはこっちの困惑なんか気にする余裕もなく、むせび泣きながら酒を求める。普段、学院でみせる落ち着いた大人の女性らしい姿とは真反対の醜態しゅうたいだ。

 生徒たちがこれを見たら泣くだろうな。怖くて。


「これ、いつもはどうしてたんですか?」

「カガチ先生がひたすら相槌あいづちをうち、死ぬほど飲ませて自宅に送り返してました」

「カ……カガチ先生が……!?」


 オガルの解答はさらに極限を越えた驚きをもたらしたが、しかし、その様子が瞼の裏にありありと思い浮かぶようでもある。

 酒と涙の狂乱をいなすには、あれくらいの器が必要だろう。

 幾千万の竜を殺し、英雄と呼ばれた器が。

 

「海千山千のマスター・カガチとくらべたら僕なんか代打にもならないでしょ。それに恋愛相談はオガル先生の方が得意分野なんじゃ?」

「自分は占えるだけで相談が得意ってわけじゃないんです……。相談が得意なら占い師になってます。むしろどちらかというとそういうの苦手なんです」

「マスター・サカキと根っこは同じ研究者タイプなんですね……」

「というか、どれだけ占ってもうまくいくわけないんですよ」


 オガルは沈痛な面持ちだ。

 サカキもうんうんと訳知り顔で頷いている。


「つまり、どういうこと?」

「マスター・プリムラは普通にモテるんですよ」

「まあ、そうだろうね」


 僕の目線からみても、美人でスタイルがよく優しくて生徒思いな先生という、モテる女性の概念に小麦粉と水を混ぜて人の形にしたような彼女がモテないなんて考えにくい。


「しかも付き合いはじめるとけっこう尽くすタイプでいらっしゃるんですよね」


 マスター・サカキがしみじみ実感をこめて言う。


「じゃあ言うことないじゃん……」

「いやいや。問題はむしろ尽くすほうなのですよ。いったん付き合いはじめると、メイクや服装が変わり始めて、最終的に趣味も変えてしまうような方なんです」

「ああ……いつもは見向きもしないゲームとかアウトドアとかやりはじめたりするやつね……」

「彼女の場合、生来の真面目さと優秀さがあるのか、けっこうやり込んでしまい、短期間のうちに急成長してしまうんです」

「……でも、恋人と同じ趣味とか遊びとかができるのは、うれしくない? いやまあ、僕は女性と付き合ったことないからわかんないけど」


 オガル先生とサカキ先生は揃ってうっすい笑みを浮かべている。


「ヒナガ先生には、永遠にそのままでいてほしいですね、オガル先生」

「そうですねえ、サカキ先生」


 もうツッコミはしないけど、これはまちがいなく生徒が聞いたらイラっとくる職員室での会話ナンバーワンだな。


「プリムラ先生の成長ぶりはちょっと普通じゃないんですよね。たとえ初心者からはじめたとしても、あっという間にプロの領域に達してしまうんです。男性と付き合う度に増える資格、コンテストや大会の優勝トロフィー……」

「あ~…………」


 僕は「あ~」としか言えなかった。

 なるほどこれは、プリムラの問題であると同時に、彼女と付き合った男性の自尊心の問題なのだ。

 プリムラの交際相手だって、かわいらしい恋人が自分の趣味に合わせてくれたら、最初は嬉しいだろう。ずぶの素人である恋人を導いていくことにある種の快感を覚えることもあるに違いない。しかし、ものの数か月で自分よりうまくなられたら、何というか……。複雑な気持ちにもなるだろう。

 はっきり言って、劣等感が刺激されて、恋愛どころじゃない。


「それで交際相手のプライドに修復不可能なほどの傷つけてしまい、結果、別れる、と……」


 僕が残酷な事実を突きつけると、プリムラの泣き声が一際、大きくなった。

 何度も繰り返してるならやめればいいのに、と思ったが、言うのははばかられた。やめれるなら彼女は今ここで不毛な飲み会を主催してはいない。

 運ばれてきた前菜は非常に繊細でおいしいものだったが、泣いてる女性と同じ空間で口に運ぶと味が十割落ちる。無だ。僕はいま虚無を食べてる。

 なんて貴重な経験なんだろうな、無を咀嚼できるなんて。


「私もね、注意はしてるのよ。今度こそは、と思うの。でも、何度も熱心に誘われると断りにくいし、愛し合って信頼してる相手がそんな情けない態度を取るとは思わないじゃない!」

「正しいけど間違ってる……」


 そう呟いた僕に、サカキ先生が大きな咳払いをした。

 この会の趣旨はプリムラ先生をなだめるか慰めることであって、現実を突きつけることじゃない。

 そのとき、僕の袖のカフスが微かに輝いた。


「…………あ、すみません。少し抜けてもいいですか」

「えっ、どうして? いやよ、ヒナガ先生もプリムラを置いていっちゃうの?」

「いやと言われても、今日はもともと別の用事があったんです」

「やだやだ! もっともっとプリムラのお話きいて~!」


 冷静に説明しているのに、酒の影響もあって幼児退行しているプリムラは全然こちらの話を聞いてくれない。

 さすがに、マスター・サカキもたしなめる雰囲気だ。


「マスター・プリムラ、ヒナガ先生は人とお会いする約束があるのです。今日はその待ち合わせ場所を山猫亭にしていただいて、無理を言って飲み会に参加してもらったんですよ。きっと、すぐに戻られますから」

「やだやだ、そう言ってみんな戻ってこないんでしょ!?」


 そう言って涙をこぼすプリムラは、まるで十五歳の少女のそれだった。

 十五歳じゃないところだけが問題なわけだが。


「先生、抜けてもらって構いませんよ。支配人に言って、個室を用意してもらっています。防音で魔術的に封じられた空間です。密談にピッタリのね」

「そうは言われても……」


 マスター・プリムラが泣いているという事実は変わらない。

 そして僕は女性が泣いているという状態が嫌なんだ。


「ヒナガ先生、いっちゃうの?」

「すぐに戻りますよ」


 僕はプリムラ先生の手を取り、そっと握り締めて真剣に謝った。

 酒でぐでぐでで正気を失っていても、彼女はマスター・サカキの大切な日常なのだ。

 そのとき、僕の頭に悪魔的発想がひらめいた。


 こんなとき、あいつだったら何て言うかな。

 たぶんこうだろう、という正解に、少し傷ついた。


 きっと彼なら……。


 僕ってこういうところがある。

 去った人を追ってしまう。いつまでも手放せないでいる。

 僕はにぎった彼女のてのひらを返して、彼女がつけた中指の、やや大振りなアメジストの銀の指輪に軽く口づけた。


「だから戻るまで僕のこと考えててくださいね」


 その瞬間、オガルが息をのむのがわかった。

 サカキは研究対象を発見した、みたいな笑顔。

 そしてプリムラは「はっ」と表情をこわばらせた。

 それは、酔いの波の中に突如として現れた正気の顔だ。


「わたし…………もしかして捕まる……………!?」


 僕は軽くうなずいて個室を出た。

 酔っ払いは……ときどき意識を失って何も覚えてない、なんてことあるけど……大抵はどこかに正気を隠しているものだ……。


「教官だからセーフじゃないですかね」とサカキが言う。


「アウトですよ。教官でも十代は十代です」


 そんな会話が後から聞こえてきた。

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