ベルニエの質問


 男はそう言って、窓の外を指差した。長閑な川縁を抱え、緩やかに流れるヤムナー川が眼下に広がっている。その対岸に、タージ・マハルと呼ばれる白亜の霊廟が、幻のようにぼんやり佇んでいた。


 うだるような暑さの中、そこだけが別世界であるかのように涼やかで果てしなく清い。


「――ムムターズ様がお亡くなりになったときは、どのようなご様子でしたか」


 少し遠慮気味に尋ねると、男の落ち窪んだ黒い瞳がすっと色を失ったように思われた。


 男はシャー・ジャハーンより九つ歳上ということだから、いまは八十半ばであろう。痩せこけた身体に羽織った綿のシャツはぶかぶかで、頭髪は薄く、浅黒い顔には深い皺が刻まれている。


「それはもう――言葉にするのも辛いほどです。まる一週間片時も、ムムターズ様のおそばを離れることはありませんでした。その憔悴ぶりといったらアクバル様を失ったときよりもさらにひどい。まるっきり人が変わってしまったようでした。あの日以来、あれだけお好きだった歌も二度と歌われず、上質の下着をお召しになることもなくなった。あまりの悲しみで、黒々としていた髭が数日のうちに真っ白になってしまったのです。あのときにきっと心が壊れてしまったのでしょう。ご自分の半身を失ったも同然ですから」


 男は真っ直ぐに私を見上げ、あたかも自分のことのように言った。


「愛していたのですよ、ただひとりだけを。自分の魂を捧げ、この世すべてを敵に回しても構わないほどに」


 私はその狂気じみた眼差しに気圧され、ふと自分を省みた。――主人に仕えるとは、こういうことを言うのだろうか。ルイ十四世に忠誠をお誓いしたはずの私に、果たしてこんな目をする日は来るのだろうかと。


 シャー・ジャハーンが六十過ぎに大病を患ったのをきっかけに、四人の息子による激しい帝位相続争いが勃発した。その争いの中で、シャー・ジャハーン自身が後継ぎと考えていた長男のダーラーが三男アウラングゼーブにより殺害され、その首が父帝に送り届けられた。父帝はあまりのショックに食卓に顔を打ちつけ、歯の何本かが折れてしまったという。アウラングゼーブは父帝をこのアーグラ城に幽閉し、第六代皇帝に即位した。


 老いた皇帝は、〈囚われのムサンマン・ブルジュ〉と呼ばれる部屋に七十四歳で死去するまで幽閉され続け、その窓から妃の眠るタージ・マハル廟を眺めるだけの生活を送ったという。


「――もうひとつ、気になる噂についてお聞きしてもよろしいですか?」


 そう尋ねる私に、男は不審な目を向けた。


「シャー・ジャハーン陛下のご長女であられる、ジャハーナーラー様のことです。ムムターズ様の生き写しのように、大変聡明で、お美しい方だったと」


 そう告げた瞬間、穏やかだったその目にこちらを威圧するような、あからさまな敵意が浮かんだ。しかし真実を知りたいという欲求が上回り、私は強引に話を続けた。


「ムムターズ様が亡くなられた後、そして囚われの塔に幽閉されたときも、ジャハーナーラー様が付きっきりで陛下のお世話をしていたと聞いております。あまりにも皇帝の寵愛が厚いもので、下々のものが根も葉もない噂を立てていたことはご存知ですか――ふたりがを持っていたと」


 男は無言のまま、鷹のような目で私を見ていた。その瞳に浮かぶ、凍りつくような怒りと狂気。自分がその男に食い殺される幻覚に襲われ、全身に悪寒が駆け巡った。


「――あなたは、私の話をちゃんと聞いておられたのか」


 男は獰猛な獣が唸るような声を吐いた。


「あの誰よりも高潔で純粋な、世界の帝王たる御方が、鬼畜のような汚らわしい行いをするとでも」


 落ち窪んだ眼窩にぎょろりと光る両眼。それを目撃した瞬間、私は悟った。



 この男は魂を捧げたのではない。その魂は、世界皇帝シャー・ジャハーンそのものなのだと。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る