【永禄九年(1566年)十一月】


【永禄九年(1566年)十一月】



 世継ぎに対する阿南姫と岩城親隆からの働きかけを受けてか、石川氏からは新田に敵対しない旨を告げる使者が訪れた。


 この伝達手段は、蘆名が反新田で挙兵して、押し戻した場合のために言質を取られぬようにしたいのだろう。まあ、処世術と考えるべきか。


 白河結城氏からすれば、二階堂、石川、岩城がひとまず敵対しない方向となったため、蘆名に向き合う形となる。


 二階堂まで含めて考えれば、田村氏と接しているので、そちらの動向にも注意が必要となる。白河城では、二階堂からの救援要請が入った場合に急行する部隊の編成も済まされている。二階堂盛義の文官的な動きについては、本格的な活動は蘆名との決着がついてからとしているが、白川城に頻繁に顔を出し、内政方面に参画しつつあった。


 厩橋に戻った俺のところに、里屋からの情報がもたらされた。織田家の楠木信陸が、松平への援軍として浜松に出ているそうだ。武田が今川攻めの構えを示しているために、予防的な対応なのだろうか。


 剣豪使節は塚原卜伝組が南から、上泉秀綱組が北から諸侯を巡り始めている。蘆名が反新田で挙兵して、打診的と思われる攻撃を仕掛けて来たのは、剣神殿が訪問した直後だったようだ。


 本格的な攻勢に移行する気配はなく、軽めの攻撃があったのみで、互いにほとんど被害は出さずに、敵方は撤退していったそうだ。冬季休戦前の、実力行使による決意表明といったところか。


 周辺勢力も糾合する構えで、塚原卜伝らを追い返す勢力も幾つかあったようだ。蘆名が反関東勢、反新田の盟主として立つ形となるのだろうか。


 ただ……、奥州の雪の深さは、海に近づくにつれて内陸の会津盆地ほどではなくなっていく。共闘要請に応じた相手が窮地に陥るとは考えないのだろうか? まあ、足利義氏や佐竹勢の、雪に詳しくない者たちの意向が入っている可能性もあるが。


 


 蘆名の動きを踏まえて、三国峠が雪に閉ざされる前に、春日山城を訪問することにした。


 直江津や岩船湊に商船を送り込む件は、順調に進んでいる。一方で、佐渡の本間氏から秋頃に、立ち寄る船が減ったとの文句が入ったのだそうだ。


「しかし、商人がどの航路を選ぶかは、彼らの選択だよなあ」


「直江津、岩船湊が賑わっていると聞けば、心中穏やかではないのだろう」


「実際は、直江津で引き返す船も多いだろうしなあ」


「まさか攻め込んでは来ないだろうが、それくらいの憤懣ぶりだったようだぞ」


 そんな状況なら、越中松倉城を拠点とする椎名氏に養子に入っている景直殿のところへの船団派遣は、手控えた方がいいだろうか。そう考えていると、通商話ということで同席していた本庄繁長が、にやりと笑って提案を投げ込んできた。


「いっそ、討伐してしまいましょうか。護邦殿の水軍の支援があれば、攻略は容易でしょう」


 即答したのは、越後の国主だった。


「名分が立たん」


「まあ、確かに。……蘆名は、来春には新田と本格的に開戦する構えですが」


 俺が話を内陸方面に向けると、揚北衆の一員で地理的に近い本庄繁長が問いを発した。


「殿、上杉は動かぬのですか」


「うーむ……、奥州鎮撫の勅命は新田に下ったわけだしな」


 軍神殿の関東管領職は、関東諸将の推挙により、上杉憲政の世襲職を引き継いだ形にせよ、足利幕府の役職となる。一方の新田への奥州鎮撫の勅諚は、幕府を通さない朝廷によるものなので、別系統との考え方も成り立つ。


 広く考えれば最上位者は天皇なのだが、武家を統括するのは征夷大将軍だというのも、この時代の常識ではある。将軍位が空位であるのが、またややこしさをいや増している。


 さらに言えば、この奥州鎮撫における奥州とは、奥州と羽州をまとめた概念となっていて、そこでもわかりづらさが加わるのだった。


 家中の意見も聞いてからの判断にしたいとの言葉は、軍神殿の心境の変化を示すものだろうか。


 陸路での通商話についても幾つか話を進めたところで、外で大音声が鳴り響いた。


「この時期の雷は珍しいですな」


「そして、この雲行きだと、雨がひどくなりそうだ。長く続かないとよいのだが」


 気象庁も気象衛星もないこの時代、精度の高い天気予報は望むべくもない。本当に、ひどい雨にならないとよいのだけれど。




 春日山訪問の目的の一つに、蔵田五郎左衛門との対話があった。そのため、川里屋の岬と箕輪繁朝が一緒に来ている。


 先日の厩橋での初対面の際には、険悪なやり取りに終止してしまったが、改めて顔を合わせると福々しさが漂う好人物である。


 軍神殿を半ば神聖視していると同時に、越後守護代だった長尾家を継いだばかりの頃から支援してきたために、推しを自分だけで支えたい、といった感情も混ざっていたのかもしれない。


 方向性に納得さえしてしまえば、交渉能力に長けた有能な商人であり、北方からの物産に加えて、新田の物産も手際よく捌き始めていた。元々が伊勢神宮の御師と呼ばれる、参拝者の世話や喜捨の呼びかけを行う立場だったそうで、顔も広いようだ。


 実際、新田の産品のうちで、布団や果実酒、緑茶に紅茶といったあたりは、彼の手によって上流階級に受け容れられているようだ。物がよくとも、売り手がだれかもまた重要、ということか。


 これまで、さほど引き合いが生じなかったのは、越後方面は商人任せで、太平洋側についても里屋を含めた在来商人に売っていたためもありそうだ。里屋は有能な商人ではあるが、どちらかと言えば得意分野は米、金、銀、粗銅に木材といった方面で、川里屋の岬はその中で特殊な商材を扱う担当であった。


 新田酒はガラスの瓶に詰め直され、同じくガラス製の酒器とともに桐箱に収める形が取られているし、茶も少量を陶器に入れているそうだ。


 本庄繁長の岩船湊からの商材についても、あれだけ敵対視していたのに、今ではイクラや筋子を贈答品として売り込んでいるようだ。鮭の卵は「はららご」として、貴人を饗応する際の一品となるほどに珍重される場面もあるらしい。それを知っていた蔵田五郎左衛門によって、京向けには徹底した高級路線で、関東には庶民向けとして、大胆な販売戦略の使い分けが実施されている。


 そういった才覚は、明や南蛮向けの商売にも通じそうで、今回は教えを請いに、サンプルを大量に持ち込んでの訪問となっていた。もちろん、上方への流通は、蔵田屋に任せる形となる。


 付加価値が設けられた新田の商材は、元値より数倍の価格で売られているようだが、その点に目くじらを立てるつもりはない。この時代の流通事情を考えれば、転売禁止なんて考え方は成立しようもないし、提示した価格で買ってくれた上に、高級品に仕立て直して価値を高めてくれるのなら、全面的に協力したいところだった。


「この真珠も、これだけ粒が揃うと別の売り方ができそうですなあ」


「紐を通して首飾りにしようかと思ってるんだが」


「南蛮人の好みはわかりかねますが、京ではそのようなごてごてした装いは向きませんな」


「向かんか……」


「髪留めに幾つか散らす、なんていかがでしょうな。どう思う? 清左よ」


「葡萄を象るのもよいですが、銀の花と合わせるのもよさそうですな」


 五郎左衛門に問われて応じたのは、商人の風体をした若者である。


「この御仁は?」


「これは、紹介が遅れて失礼いたしました。蔵田清左を名乗らせておりますが、年が改まれば、二代目五郎左衛門とする予定です」


 平伏する若商人は、ちょっとほんわかとしつつも、抜け目なさも備えているようだ。


「造形についてもわかる人材がいるのなら、岩松親純や十矢辺りの、絵の心得のある者達を連れてくるんだったな」


「それはもしや、新田学校の?」


「ああ。絵や彫刻なんかも含めた、美術教室を仕切ってる連中だ」


「一度お伺いしたいと思っておりました」


「遊びに来るか?」


「よろしいのですかっ」


「もちろんだ。新田学校は、門戸は広く開いているし。……ただ、まあ、商人としての活動に差し障らない程度にな」


 初代蔵田五郎左衛門から、先日の対面時に近い目つきを向けられて、俺は早々に軌道を修整したのだった。




 三国峠でがけ崩れが起こったというので帰国を遅らせていると、能登の畠山氏で政変が起きて、畠山義綱らの当主一族が追放されたとの一報が入った。そう言えば、史実ではそんな話もあったような。


 能登畠山は、河内、紀伊などを拠点に室町幕府内で権勢を獲得した畠山氏の一族となる。本来の畠山の惣流は、奥州で風前の灯状態になっている二本松畠山氏なのだが、完全に本流ではなくなっていた。


 能登畠山氏は代々文化人が多く、芸術振興にも熱心だったとか。追放に至った経緯は、大名に権力を集中させようとして、家臣団に放逐されたんだったか。


 まあ、新田からは遠いし、軍神殿にとっても越中を挟んだその先である。すぐの影響はないだろう。




 思わぬ長期になった滞在期間は、南蛮、明、上方向けの商品開発についての討議や、湊の整備関連の相談に充てる形とした。街道が復旧したのを受けて厩橋に戻ると、北関東で大雨の影響で洪水が発生したとのことで、状況把握と対応のために騒然としていた。


 幸いにも人死にが出なかったようなのは、増水時の避難地域を設定していたためだろうか。その流れで、避難民向けの炊き出しは迅速に行われたそうだ。ただ、田畑の被害がひどく、復旧作業の対象と、諦めるべきところの区分けも行われていた。


 治水部隊は浸水域の調査を実施しており、家中でも治水の必要性が改めて認識されたようだ。計画の策定を進めてもらうとしよう。




 対応が進む中で、俺も避難状況の視察という名目での慰撫に駆り出された。その動きが一段落した頃、八丈島=マカオ交易船団の帰着の報せが入り、俺はリーフデの息子、リヒトと、話し相手がいないと心配だからと同行してくれることになった九鬼一族の娘、初音と鎧島へと向かった。


 親子の対面は邪魔せずに、今回の提督役である小舞木海彦と通訳として参加していた万里夫から報告を受けた。


 新田風の食事処はマカオでも人気を博し、明の役人や他国の商人も出入りするようになっているそうだ。また、ネーデルラント船が更に二隻合流し、通商会社に参加したという。


 新田とネーデルラント勢の折半は変わらず、別建てで船団に参加した船の荷量に応じた報酬を支払う形となっている。ネーデルラント側が利益をどう配分し、どれだけを故郷の独立運動に注ぎ込むのかは、彼らの判断となる。


 そして、独自に活動したいネーデルラント商船も現れたそうで、マカオの商館での取引も、八丈島での交易も歓迎するとの話になった。


 元時代のタイにあたるシャムの商人や、インドネシアの一角相当となるバンテン王国の商人などとの交流も進み、胡椒の種、カカオの種なんかも入手することができた。彼らは、寒い土地じゃ無理だと苦笑しながら売ってくれたそうなのだが、八丈島、小笠原での栽培を試みるとしよう。


 商材は輸出入とも幾らでもあってよい状況のようなので、引き続き外洋商船の建造を進めている。そして、戦闘船は別に開発していくか。


 バンテン王国は、元時代のインドネシアのスマトラ島東端部、ジャワ島の西端部に勢力を持つイスラム国家だそうで、胡椒を含めた香辛料の類いを主産物として栄えているようだ。


 元時代のタイとなるシャムでは、この頃にはアユタヤ王朝が栄えている。アユタヤはポルトガルの縄張りかもしれないが、あいさつくらいならよいだろうか? バンテン王国の方は、オランダが進出して、ジャカルタをバタヴィアとして租借するんだったか。こちらも、日本として交流を持っておいて損はなさそうだ。


 琉球への、改めてのあいさつ的な寄港も問題なく済み、交易を継続しようとの話はついた。また、台湾の南端に避難港を設置する作業も続いており、今回は黒鍬衆を一部残してきているとのことだった。


 八丈島=マカオ船団は、次には三月の出発を予定している。三月に出発して五月に帰着、同様に六月から八月、九月から十一月の年三回を基本としようとリーフデとも話がついた。


 


 万里夫は通訳としての船団同行と新田学校での講義を両立させ、通訳候補を航海に連れて行く流れができつつあるようだ。


 後進の教授役も育っており、新田学校での通訳、翻訳者の養成は万里夫不在の間も続いている。ただ、小桃の例もある通り、単に語学能力があるだけでなく、頭の回転や飲み込みが早いタイプでないと、外交交渉は任せられない。外向きでない性格の者たちには厩橋で翻訳を任せ、対人交渉能力に長けていそうな人物には八丈島=マカオ船団での実地研修を踏まえた上で、マカオ駐在やアイヌとの交渉の補佐役についてもらっている。


 給仕や料理人、剣豪、船乗り、あるいは忍者的素養を持ちながら、言語把握や通訳系のスキルを持つ多彩な者も幾人かはいて、貴重な人材として育成している。


 一方で、既知の異国語を操るのと、初めて触れる言語を把握するのは別の能力であるらしく、後者の才能の持ち主も磨いていきたいところだった。




 明への有力な輸出品として期待が高い、干し牡蠣、干し貝柱の確保を見据えた香取海での養殖事業は、真珠採り名人の助言も得ながら、牡蠣、帆立について進められることになった。稚貝と親貝を持ち込んで、育てながら湖内で稚貝を得る方向の二本立てで進める予定となる。


 同時に、アワビ、なまこなどの乾物化を手掛ける職人たちに、牡蠣と帆立のあるべき乾燥のあり方も探ってもらっている。


 香取海は洪水の心配はあるが、津波被害がなさそうなのと、嵐の影響が限定的だろうと期待される。向きそうな水場を探って、進めてもらうとしよう。


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