【永禄五年(1562年)一月】
【永禄五年(1562年)一月】
川中島合戦で受けた怪我の癒えた軍神殿は早くも動き出し、南方での北条・武田連合との野戦での敗戦から立て直した軍勢を引き連れ、東方へと向かった。
北条は里見攻めを再開していて、古河の守りは手薄となっている。政略面では古河が重要だが、戦略的には里見を叩きたい、という状況なのだろう。それもどうなんだ。
武田と今川との同盟がある北条からすれば、里見を敗滅させれば状況は一変する。江戸湾をほぼ内海化した上で、古河と上野方面に戦力を集中できるようになる。そして、里見の水軍による沿岸襲撃に怯えなくてよくなるのも大きいだろう。
進軍には、足利城、館林城を領有する足利長尾氏と、佐野、岩付太田、新田も参加した。軍勢はおよそ二万。古河はあっさりと無血開城した。
足利義氏は退散し、簗田晴助ら重臣は何のためらいもなく藤氏を古河公方家の当主として迎えた。そのあたりの感覚は、正直ちょっと理解しかねる。
古河に駐屯していた北条勢が仕掛けてきたが、甘粕景持と北条高広が勇戦して追い散らし、関宿城は奪取された。……しきりに戦いたがっていた柿崎景家は、今回の関東遠征は不参加だが、川中島の合戦で満足しただろうか。
軍神殿が香取海の北、西の土地に位置する下野、常陸勢の所領に攻め込む気配を見せる中で、関宿城は足利長尾氏に与えられた。簗田晴助は不満そうだったが、守り切れないのなら文句を言うなということらしい。
新田に守らせようとの話もあったのだが、現状で利根川の東へ進出するのはきつい。
一方で、上杉勢に同心する諸将のうちの、足利長尾や岩付太田らからは、新田が大きくなり過ぎることへの警戒感も出ているようだ。まあ、軍神殿不在の間に、成田氏の忍城域、本庄氏の本庄城域を呑み込んでいるわけで、気持ちはわかる。
そして、古河での滞陣が始まった。
厩橋から古河までは、利根川水運ですぐという立地となる。また、関宿が上杉方となれば、鎧島までの往来も気兼ねなく行える。……と言っても、北条が制圧していた時期にも、さほど遠慮はしていなかったのだが。
厩橋から、長尾藤景、吉江資堅、佐野虎房も古河にやってきている。同じく厩橋駐在でも、関東で確保した土地絡みや、残留時の越後勢の政務を取り仕切る構えの長尾藤景と、そのお目付け役的な位置付けらしい吉江資堅に対して、佐野虎房は健康づくり含みで新田とのつなぎをしている状態である。庶子である息子に向けられる佐野昌綱の視線は、少々の隔意と誇らしさが混ざっているようでもあった。
このところの古河は、上杉方と北条方との間での取り合いが続いている状態だが、古河公方家が一応は健在で、無理押しの攻略は免れていることもあってか、住民にさほどの危機感はない。街並みは華やかと評するのは言い過ぎとしても、関東の北側では栄えているのは間違いない。
ただ、政治的な意味合いを考えると、新田として確保したいとは思えなかった。
古河滞陣中は、商人からの買い入れが可能なため、諸勢力への糧食の供給は最低限の状態となっている。まあ、古河商人が売っている米は、新田の蔵から出ている場合も多いのだが、それはそれである。
厩橋と連絡を取りながら政務をこなしていると、佐野虎房、用土重連を通じて接触してきた者があった。軍神殿の近習勢を取り仕切っている、河田長親だった。十八の若者だが、重臣である直江実綱の後見を受けて、遠征軍の管理を主導している。
何事だろうと紅茶の準備をして応じると、やや深刻な目つきをしていた。
「護邦殿……。長尾藤景の意見は、上杉の総意ではございませぬ。あまり引き込まれないようにご留意いただきたいのです」
現時点では、藤景との間でさほどの悪巧みは進めていない。交易に関する件か、河越城域の開発についてか。
いずれにしても、吉江資堅から情報が回っているのだろう。
「長親殿の言葉は、上杉の総意なのかな?」
「そういうわけではございませんが、殿のお心には近いと存じます」
「諫言のことを気にしておられるのか。けれど、藤景殿を厩橋に詰めさせようというのもまた、軍神殿の指示ではなかったかな」
「ですが……」
遠ざけられた者は、おとなしくしていろと言いたいのだろうか。
「主君の思う通りに進むよう務めるのは、重要なことでしょう。けれど、もしも進む道が間違っているとしたら、再考を促すのも忠臣としての道の一つではないかな」
「殿の意思に背くことが、忠義とは思えませぬ」
「盲従するだけが臣下の在りようではないと思うがなあ」
若い近習の頭はきつい視線を向けてきた。
「新田のご家中はよくまとまっておられます。主の意に背く諫言をする者などおられぬでしょう」
「逆だ、逆。みんな猛烈に駄目出ししてくるぞ」
「まさか」
「嘘は申さん。そこから対話をして、落とし所を見つけて、それでも引けないところはそのように伝えている。そこまでやって、ようやく見解が違っていても、納得して動いてくれる。新田では、それが普通の状態だ」
「輝虎様には、それが足りないと仰るのか」
史実の上杉輝虎は、本庄繁長に長尾藤景を謀殺させ、その見返りが何も得られなかった繁長が反上杉で決起したとされている。
そうまとめてしまうと話は単純だが、その間に関東、越中への遠征が繰り返され、越後の上杉勢は得るものが少ない状態で戦いの日々を送る羽目になっていた。武田と北条を敵とし、出羽方面、越中方面にも彼らの謀略の手が伸びて、苦境に陥った状態で、本庄繁長が背き、厩橋城を預かっていた北条高広(きたじょうたかひろ)が北条(ほうじょう)に寝返った。
中でも本庄繁長の反乱は、寡兵ながらも上杉の主力勢を向こうに回して一年に渡って続き、大きな痛手となるのだった。
もしかすると軍神殿の中には、臣下、従属勢力であるならば自分が掲げる旗についてくるのは当然だ、との考えがあったのかもしれない。だが、敵に囲まれればそうは言っていられないし、得るものがない状態で戦い続けられる者ばかりでもない。
そして、史実において対話が充分だったかと問われれば、答えはノーだろう。臣下ともそうだし、従属国人衆とも、佐野昌綱も含めた関東勢とも、必ずしも意思疎通できていなかったようにも思える。実際、信頼していた太田資正が、軍神殿からの密書を関東諸将に披露してしまい、激怒に至ったなんて案件すらある。まあ、その件は太田資正の方に問題がある気もするが。
ただ……。主君に信仰めいた感情を抱いている様子のこの人物に、明確にそうと伝えるのが最善手だとも思えなかった。
「そうは言っていないぞ。やり方は、人によって、家によって違う。家風というのは、主君と家臣が一体になって、作っていくものではないかな」
「作っていく……ですか」
「ああ、長親殿にも、上杉家をよりよくするためにできることはあろう。意見を異にする者がいるなら、単に切り捨てるのではなく、対話してみてはいかがかな」
「それがしがですか。ですが、殿の指示もなく……」
「近習というのは、指示などなくとも主君のために、考える手足として動くものかと思っていたが、上杉では違うのかな」
「いえ。……考えてみます」
その後は茶菓の話題などを交わして送り出すと、こちらの用土重連と一緒に次の間に控えていた直江実綱が寄ってきた。
「うちの者が失礼致した」
「お若いですが、まっすぐな人物ですな」
お前の方が若いだろうがと言いたげな視線が飛んできたが、軍神殿の重臣が口にしたのは河田長親についてだった。
「ああ、ちと真っ直ぐすぎる。物事には、様々な見方が成り立つものだ。それをご教示いただいて感謝する」
「いえ、余計なことを申しました。……ところで、藤景殿から話は行っておりますかな」
「ああ、与板城域の刀や大工道具をご所望とのことでしたな。それはもちろんかまわんのだが」
「刀もそうですが、諸々の大工道具が今後不足してきそうでしてな。新田としても、出入りの大工を束ねる滝屋でも、いいものを探しておるのです」
「滝屋という者は、土倉だったと聞いたが」
「新田では、高利貸しの上限を厳格に定めて、また、新田自体で領民により低利で融資をしており、高利貸しに業態の転換を求めております。滝屋はその先鞭をつけてくれた貴重な存在でしてな。贔屓はしないにしても、大切にしていきたいところです」
「高利貸しをな……。長親に上杉での対応を検討させよう」
「新田のやりようは過激すぎるかもしれませぬが、足利将軍家の定めたという禁令の水準へと下げるまででも、意味はありましょう」
「打刃物については、承知致した。国許に伝えておこう」
「感謝いたします」
越後との交流を実のあるものにしていくことは、今後の安全保障の面でも意義が大きい。積極的に仕掛けていきたいところだった。
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