鎧島へ
宣言通りというわけではないが、大和では襲ってきた野盗の根城を襲撃し、壊滅させた。蜜柑は先頭にこそ立たなかったが、数人を斬り伏せている。
当世でも指折りの剣豪たちに仕掛けられた野盗たちこそ災難だろうが、彼らのこれまでの所業を考えれば、当然の報いとも言える。
話を聞きつけた柳生の手勢に後始末を頼んで、彼らは伊勢への山越えの道を歩んでいた。
「卜伝殿は、最初から蜜柑の懐妊に気づいていたのかな」
上泉秀綱の問い掛けは、青年剣士である諸岡一羽に向けて投げられたものである。
「そう考えれば、合点がいきます。取り組みを決めさせろというのも、今からすれば、いつもの師匠の言動からは外れているようにも思えます」
「自らが対戦相手となり、一撃を受けて一之太刀を伝授すると宣言して仕合を止めたのも、蜜柑の体調を気遣ったためか」
「ええ、おそらく」
「ふむ……。あの時点では、蜜柑の力量が、武家としてはそこそこ、という枠に留まるということかと思っていた」
足利義輝と北畠具教に伝授されている「一之太刀」は、鹿島新当流の奥義だとされている。彼らは、武士にしては見どころはあるものの、剣術に命をかけた者達より技量で上回っているとは、上泉秀綱には思えない。「一之太刀」とは、つまりそういう対象限定のもので、蜜柑もその程度だと捉えられたというのが、当時の剣聖の判断だった。
実際問題、体調を崩していたし、剣士がその時点での状態で判断されるのは、むしろ当然のことでもある。
「いえ、蜜柑殿の太刀筋は確かです。通常であれば、直弟子に取り立てたがる域に達しているかと。まして、実戦経験も含めれば、新当流にあっても指折りですし」
諸岡一羽は、野盗討伐の際の戦いぶりを目にし、しかも当人がやはり本調子でないなと首を捻っていたのに驚愕したのだった。敵将を討ち取ったにしても、野盗討伐にしても、周囲がお膳立てをした上での仕上げの一太刀程度なのかと考えていた。実際の動きの猛々しさと突貫ぶりは、将としての役割を放棄しているようにすら映った。
本来なら妊婦の山道歩きもいかがなものかと感じていた諸岡一羽だったが、基準を改めざるを得ない。
結果として、山越えの道は問題なく踏破されたのだった。
熱田湊に到着すると、蜜柑を迎えたのは兄弟子の神後宗治と女海賊の亜弓だった。
「無事の到着、なによりです。懐妊とのしらせを聞いておどろきました」
「ホントだよ。帰りはしっかり介抱させてもらうからね」
「ああ、頼むぞ」
並んで立つ二人の距離感は、なかなかに近い。蜜柑は低声で師匠と兄弟子に問いを投げた。
「なんだかあの二人、いい雰囲気のように思えるのじゃが」
「本当だな。犬猿の仲って感じだったのに」
「本当だな。まあ、こうなると思っていたが」
途中までは完全一致だった疋田文五郎と上泉秀綱の答えが、後半は真逆を向いたために蜜柑の戸惑いは深くなる。
「いがみあっていたではないですか」
「そうです、険悪でした」
弟子たちの抗議めいた問い掛けに、流派の主が笑みを浮かべる。
「お主らは、観察眼がまだまだだな。あのお澄まし屋の神後宗治が、歯牙にもかけていない相手に突っかかるはずがなかろう。最初から惹かれていたのさ」
「なんじゃと……」
ようやく応じたのは蜜柑だけで、疋田文五郎は自分の不明さにすっかり落ち込んでしまっている。その肩は、また妹弟子によって撫でられたのだった。
熱田湊では、加藤段蔵が関東に招こうとしている人物と引き合わされる形になった。
老境にありながら精悍で身軽そうな人物は、伊賀の蝶四郎と、対照的に優しげな皺が目立つほんわかとした老人は甲賀の鳩蔵と、それぞれ名乗った。
「我らのような老骨を招きたいとは、新田の殿というのはだいぶ物好きな御仁と見える」
硬い口調での老境にある伊賀忍者の言葉に、蜜柑が柔らかな笑みで応じた。
「確かに夫は物好きなようです。なれど、多くの経験を積んだ方を招いて後進への指導をお願いしようというのが、間違った考えとは思えません」
目を瞠って声を上げたのは、鳩蔵だった。
「ほ……、これは、しっかりした考えをお持ちですな。それにしても、忍者の戯言など、一喝して退ければよろしいものを」
「いえ……、当家では忍者の一部は家臣に組み入れていますし、忍群の長や段蔵殿には軍議に加わってもらっています。段蔵殿は、そのあたりも説明せずにお招きしているのですか? それは、文句を言わなくては……」
「いやいや、くわしく説明いただいておりますよ。この者はへそ曲がりで、わざと反応を見てみたのでしょう」
「ふん。甲賀者になにがわかる」
「この調子ですからな。気にされないことです」
甲賀の老忍の朗らかな笑みからの印象は、鹿島神社の神主に通ずるところもあるようだ。
二人の忍者は鋭利さと、それを包み込む綿のような取り合わせにも映るが、蜜柑は鳩蔵からも油断ならない空気を感じ取っていた。加藤段蔵が穏やかなだけの人物を招くはずもない。侮るべきではなかった。
加藤段蔵は、雑賀と根来との調整に向かっているそうで、場合によっては時期を分けての東下になりそうとの話だった。
そして、いったん離脱していた九鬼兄妹が叔父を連れて戻ってきた。九鬼嘉隆と名乗った十九歳の若武者は、周囲に有名人が多いのに驚いていた。
「剣聖と名高い上泉秀綱殿がご家中におられるとは聞いておりましたが、雲林院光秀殿に愛洲宗通殿と言えば、どちらも水軍衆の名門ではありませぬか」
「おいおい、言いがかりはやめてくれ。雲林院の家督は弟が継いでいるんだ」
「こちらも、愛洲の現当主とは険悪でな。姓こそ捨ててはおらんが、そことの関わりを強調されるのは迷惑だ」
九鬼嘉隆は、二人の剣士の反応に目を白黒させている。その苦境を察してか、諸岡一羽が言葉をかけた。
「愛洲殿も光秀も、非常に後ろ向きながらも、仲良くなっているようでなによりです。ただ、お二方は、新田に仕官したわけではなかったような」
「そうなのじゃ、どちらも誘っているのに、色よい返事をもらえていないのじゃ」
蜜柑の慨嘆に、どこか迷子めいた要素のある二人は、顔を見合わせた。
「声をかけられてはいたが、冗談ではなかったのか? 隠居を目指してるんだぞ」
陰気さが売りとなりつつある雲林院光秀は、疑わしげな表情である。
「隠居するにしても、新田領ですればよいではないか。なにか気が向くことがあったら手伝ってくれればよいのじゃ」
「だが、ご当主はそれでは収まらないのではないか」
「いや、護邦はおもしろがると思うぞ。新田は退去も自由で、変な裏切りでもしない限り追捕することもない。気軽に寄ってくれればいいのじゃ。……宗通殿もじゃぞ」
「それがしは……、行きがかり上、薬を処方しているだけなのでな」
「なら、せっかくだから、ややこの顔を見ていってはどうじゃ。上野の山の様子に触れてからでもいいし」
「ふむ……。薬草の分布は少し興味があるな」
ようやく態勢を立て直した九鬼嘉隆が、流れに乗って二人に問いを投げつける。
「お二人は、水軍には参加されませぬのか。新田家では、海に拠点を築いて、水軍を強化するとの話のようですが」
「いや、興味ないな」
「できなくはなかろうが、陸を駆け回る方が好きだな」
再びばっさりとやられて、少し落ち込んだ様子の嘉隆に、蜜柑が声をかける。
「この二人は、海に強い一族出身ではあろうが、水軍を率いていたわけではあるまい。新田は、川の水軍から始めて、ようやく海に出たところじゃ。安房の勝浦水軍の助けは得ているが、さらなる強化を目指している。無理強いはせぬが、考えてみてほしいのじゃ」
「それは、新田のご当主のお言葉と考えてよいのか」
「いや、護邦は新田では水軍としての働き場所が限られるかもしれないから、よそを紹介しつつ、水軍以外の者達を招くつもりだったみたいじゃぞ。水軍としての参加は、望外の話だと考えるじゃろう」
「……配下ともう一度相談させてほしいのです」
「もちろん、かまわない。我らは風が整えば船出するつもりなれど、来てくれるのならいつでも歓迎じゃ」
九鬼一族の実質的な指導者の頷きを見届けて、蜜柑は夫からの依頼が完遂できたのだと安堵していた。声をかけた以上、来るか来ないかはあちらの判断である。彼女としては、そこは割り切るつもりだった。
鎧島までの航海は、嵐に遭遇しつつも、無事に終えられつつあった。鎧島を出てからの半年近くの間に、多くのことがあった。夫の傍にいても得るものはあっただろうが、見聞を広められたのも間違いない。
悪阻は、愛洲宗通が処方してくれた薬で落ちついている。そうなると、引き続き船酔いに苦しむ疋田文五郎や夜霧の介抱をする余裕も出ていた。
水平線から鎧島が見えると、船内に歓声が上がる。蜜柑は、膨らんできた腹部に手を当てる。そこには、確かな生命の気配が感じられた。
生まれてくるところに悪いけど、戦場に付き合ってね。撫でながら語りかける蜜柑の瞳に、迷いの色合いはなかった、
彼女の視界に広がる関東の土地には、越後長尾の軍勢が進出してきている。
関東管領を代々世襲してきた山内上杉家の上杉憲政と、現職の関白である近衛前嗣も参加し、将軍たる足利義輝も半ば公認しての行動となる。
その影響もあってか、新田勢を含めた北関東の諸将の多くが参加し、その数は十万と公称されることになる。
彼らが目指すのは、相模国の小田原城。後代の豊臣勢に包囲された時期ほどの堅牢さはなくとも、有数の規模を誇る北条の本拠となる。
かつての河越夜戦での北条対その他の関東勢という構図が、越後長尾が加わる形で再現された形になり、新田護邦の介入もあって、どのような結果が出るかは、予断を許さないところだった。
けれど、この大侵攻すらも、関東を揺るがす戦さの連鎖の皮切りでしかなかった。
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