餌は肉片

晴れ時々雨

🎭

彼の自宅には女がいた。いつも同じようで別人のときもあったように思う。というのも、その人は口許のみ現れる黒い覆面をしており、紹介されるときは続柄や関係性などは明かされず、ただ名前だけが情報としてこちらに与えられる。

顔というのは不思議なものだ。その、人の第一印象の九割を左右する器官を隠すと、知らなくてもいいような知ってはいけないような情報が際立って伝わりだす。隠すというのもここでは単に遮蔽しているだけのように思われるのだが、まず初めに視界に入る部分がそうされることにより隠蔽や秘匿の意味合いを帯びるように見えだす。次に、文字通り印象の「顔」となる部分を遮りながら通常と何ら変わらなく過ごすことの異様性に、見える以上に落ち着かなくなるのだった。隠されているということは見てはならないのだが、隠れているからこそ見定めようとする人間の身体的本能が正常に機能しだす。そして次に、はっきり見えないとはいえ、仮面のように硬質な立体の構造ではなく、何がしかの繊維のようなもので作られた覆面なので、本来の顔の造形が曖昧にだがわかり、そこから脳内か視覚かは定かでないが、中身の立体物の補完をし始めるのであった。であるから、三度目にお会いしたかすみさんと呼ばれる女性の顔は何となく富司純子で視える。私の頭はかすみさんの「スミ」と富司純子の「純」を等号で結び、こっそり得心していたのだった。しかしこうした補完から導き出された勝手な憶測は危険を孕むのを忘れてしまう。私は何度か彼女を呼び間違えそうになった。本来ならka(ケーエー)から始まる発音をg(あくまでジーでありjまではいかない)と始めてしまい慌てて言い直したが、これはどうしたっておかしな誤りで、なんとも気不味い思いをした。とはいえ彼女も主人である彼もまた鷹揚な人であったので細事にはこだわっていないようだったが。

顔を隠すと隠れていない部分が際立つ、と前言したが、これがまた厄介な感覚を引き出す。当然かすみさんは着衣しているのだが、覆面を凝視してはいけないと律すればするほど、普段なら決して直視しないはずの女性の肉体に目がいってしまう。そしてやはり布地に覆われて今度こそ完全に秘する部位を透視するかのように見通そうとするのだ。何より、モロに突き出された手、足首やふくらはぎ、首もと、ともすれば鎖骨から隠れた部分を描き出し、彼女を痩せ型だが臀部の凹凸が著しい肉体をした女性だと判断していた。表出した皮膚の色素から色白と断定し、唇や手の甲にある黒子の色からほかの肌に沈着している色素とその数の多少、覆面の後頭部の継ぎ目から背中に流れるしなやかな毛髪の質から癖毛に非ず、と割り出しさえした。彼女の乳頭、まん…そう考えて打ち消す、という作業を幾度か繰り返した。

この空間に揃う面子は口数の多いほうではなかった。しかし私は目まぐるしい前頭葉の働きを悟られまいと、かなり饒舌になった。しかも一番気になることには一切触れず、むしろ触れないようにそれとは無関係のどうでもいいことばかり彼に報告し、醜態を曝したような気がする。彼は記憶の良い人間なのでくだらないことでも逐一覚えており、こちらが言ったことすら忘れるようなみみっちい話を突然蒸し返し、初めは超能力を疑い動転した。彼の元を去り独りになると無性に疲労を感じるのはそのせいもある。

それでも誘われれば赴くのである。いつか彼が、お供の女性の皮を目の前で剥くといった、包み隠さぬ事実を突きつける日の到来の夢想に耽けるのは、えも言われぬほど甘い。しかしあれほど具体的に脳内に現れる女の人の姿の断片が一直線に結ばれると、それには後光がかかっている。なにが私を悦楽に導くのか。順当か凌駕か裏切りか。これを考えるのがまた愉しいがまだ一度もない。

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