夢殺しの白昼夢

植木鉢たかはし

夢殺しの白昼夢

 ――人を、殺したことはありますか。


「小口さん、動き遅いよ、早くして」

「あ、はい! すみません」

「もう二年目なんだから、もっと成長しないと」


 ケーキフィルムを手に取りながら、私は頷く。言葉は痛いほどに刺さっていた。荒れた指先へ感覚を集中させ、お菓子を傷つけないようにフィルムを巻いていく。いつもの作業だ。

 幼いころから憧れたパティシエの仕事は、思っているよりも華やかではない。肉体労働だし、繰り返しの作業が多いし、冬場は手が乾燥してひび割れ、ハンドクリームと軟膏が手放せない。少しぴりついた空気の中、遅い遅いと急かされながら、それでも、仕事は楽しかった。やはりパティシエは天職だった。繰り返しの作業も苦ではない。何より職場に恵まれ、あたたかい仲間と共に仕事が出来ている。本当に、恵まれている。


 紙パーチを広げ、フィルムを巻いたケーキを乗せる。ショーケースにケーキトレーを入れ、次の作業へ。

 ガラスに映った自分の顔を見た。

 ぜんぜんたのしそうじゃない。




 ――死にたいと思ったことはありますか。


 物語の世界が好きでした。特にハッピーエンドの話を好みました。どんなに辛くても最後には報われる。そんなサクセスストーリーが好きでした。

 だから私、小口理名が書く物語は、いつもハッピーエンドだった。小学生のころ、初めて書いた小説もそう。物語は、心を癒してくれる。どんなに嫌なことがあっても、物語の中の登場人物たちが励ましてくれる。同じ、創作をしている仲間に話したことがあるけれど、あまり理解は得られなかった。私は、私のために物語を書いていたから。

 思うままに生み出してきた創作キャラたちは、二十二になる今、ゆうに百を超えた。その一人一人が意思を持って動き回るものだから、頭の中は、書き出せないほどの物語でいっぱいだ。彼らは自由に過ごしながらも、私が落ち込んでいるときには声をかけ、アドバイスをくれるのだ。……自分で動かしていると言われればそれまでだが、それでも、その声が聞けて、楽しかった。嬉しかった。ここに生きていてくれるんだと、偽物の命に、本物を重ねていた。


「鬱ですね」


 そう告げられたとき、初めて気が付いた。あれだけ賑やかだった頭の中が空っぽなこと。


「鬱、ですか」

「そうですね。今、症状を一通り聞いた限り、適応障害とかよりは、鬱病の方があってるかなと」


 精神科医の佐藤先生は、そう、少し困ったような表情で告げていた。


 変化に気が付いたのは専門学校を卒業し、就職して一年目の秋。思えば、この時から私はおかしかったのだろう。

 どうも仕事がうまくいかない。前まで出来ていたことが出来ない。……気が緩んでいるだけだろう、気を引き締めなければと思ったところで、またミス。おかしい。もっと、もっと出来たはずなのに。そんな焦りはかえって良くない結果を招き、出来る仕事は減っていった。鬱に気が付いたのは、始めに異変を感じてから半年後、夏に差し掛かったころだった。


「今、小口さん見てるとね、すごく辛そうなんですよ」

「はぁ」

「希死念慮とかはありませんか?」

「特には」

「もしそういう考えに至っても、行動には移さないでくださいね。これだけ約束してください」

「はい」


 嘘はなかった。死にたいと思ったことも、消えたいと思ったこともない。ただ漠然と、何もできなくて、苦しくて苦しくて、得体のしれない不安感から逃げ出したかった。

 次の日、ペティナイフを手首に押し付けたい衝動に駆られるまで、死にたいなんて思うはずがないと思っていた。

 力が入らなくなり、涙が恐怖と不安で止まらなくなり、立つのもやっとになって、私は一か月、休みをもらうことになった。



 さて。

 私には物語の世界がありました。

 書けば救われる。救ってくれる。そんな世界がありました。

 私の書く物語は、ハッピーエンドだった。


 鬱から逃れようとパソコンに向かい、キーボードに手を置いた。

 ……書けない。

 書けない、書けない、書けない。

 何も思いつかない。何も書けない、描けない。今までそんなことになった経験はなくて、救いだったはずの世界が、私を苦しめ始めた。


 書けない、書けない、書けない。


 書きたいのに、何も、一文字も書くことが出来ない。

 私の書く物語は、ハッピーエンドだった。


「…………」


 ――ねぇ、私、どうしたらいいと思う?

 答えてくれる人はいない。みんな、すぐ近くに感じていた存在がすごく遠く感じて、孤独で、真夏の部屋で、エアコンの音だけが響いていた。

 はぁ、息苦しい。吐き気がする。薬の副作用だろうか、やけに眠い。本当にこの薬でよくなるのだろうか。同僚も、家族も、心配しているようなふりをして、本当は迷惑しているんじゃないか。


 違う。


 私なんて消えてしまえばいいと、思っているんじゃないか。


 違う。


 いっそ消えてしまえば、迷惑なんてかけずに済む。


 違う!


 …………。

 私の書く物語は、ハッピーエンドだった。

 エンディングを知る私は、登場人物たちがどんな結末を迎えるかを知っている。どんなに困難なことがあったとしても、最後は報われ、幸せになると知っている。苦しくても、それを見て、支えてくれている人がいることを、私は知っている。……そうやって救われるように、私が書いたのだ。いつか幸せになれる彼らを見ていて、正気をぎりぎり保っているような状態の私は、思ってしまったのだ。

 ……いいなぁ、羨ましい。どうしてみんなだけ。

 

 家族もいて、仲間も友人もいて、幸せになれる未来が約束されている。そんな、物語の登場人物に、私は嫉妬してしまった。それと同時に、憎んでしまったのだ。生み出したのは私なのに、どうして彼らだけ幸せになって、今私は、こんなに苦しいのかと。

 ……今覚えば、何も書けなかったのは、彼らの抵抗だったのかもしれない。それか、何かの訴えか。


 これは、秘密のお話し。

 法に触れない、罪のお話し。

 人を殺したことはありますか? ……私はあります。

 何度も物語の世界で私を助けてくれたわが子を、仲間を、全員殺しました。……それは、物語の中で。


 それから、頭の中は、本当に静かになった。




 描いたのは、正真正銘のバッドエンド。

 何も書けなかったのに、これだけはすらすら書けたもんだから、恐ろしい。

 今まで、物語の中で死んだキャラクターはたくさんいた。でも彼らは、呼びかけに答えてくれた。死んでいても、生きていたのだ。

 鬱によって消えかけていた脳内の世界が、完全な無に還った。静かになっても心が落ち着くことはなく、寧ろ、あとになるにつれて、罪悪感と孤独感に苛まれ、自己否定勘が激しくなっていった。もう物語は書けない。もう頼れるものがない。殺してしまったのだから。死んだ者は、帰ってはこないのだから。


「劣等感、ですかね」


 とあるカウンセラーが言った。彼女の名前は忘れてしまったが、言葉だけは、異様に覚えている。


「小口さんの心に救っているのは、自身に対する劣等感ではないでしょうか」


 劣等感、と言われてもピンとこなかった。このカウンセリングを受けに行った時もう、私には、言葉を理解する能力も、僅かにしか残っていなかった。言葉はナイフで、どんなものも、浅い切り傷をつけていくのだ。


「一から十の段階で、自分のこと、どれくらい好きですか?」


 最初に言おうとしたのは、ゼロ、だった。なんとなく口に出したのは、一、だったが。


「言葉には種類があります。自分にとっていいもの、悪いもの、どちらでもないもの」

「…………」

「今言ってもらった数字は、自己肯定感がどれくらいか、という数字です。自己肯定感が低いと、自分にとってマイナスの、低い言葉ばかり受け取って、いい言葉を逃してしまう。それだけでなく、どちらでもない普通の言葉も、マイナスに捉えてしまうんですよ」

「……はぁ」

「……小口さん、あなたは、幸せになっていいと思っていますか?」


 その言葉だけが、すっと頭に響いた。答えが、いいえ、だったから。


「いいですか。今あなたは、本当の自分を押し殺して生きているんです。それで今までうまくやってきたから。子供のころ、ちゃんと褒められてきましたか?」

「…………」

「十分頑張ってきました。もう、自分を許してあげてください。自己否定ではなく、肯定して、認めてあげる生き方に変えてみませんか? 自分を苦しめて生きた結果は、今出ています。でもね、認めて、自分に優しく生きた場合の結果は、まだ出ていませんよ。証明が、終わっていませんよ」


 彼女は、自分もかつて鬱だったのだと話した。同じようにカウンセリングを受けて、今に至ると。……こう、なれるとは思えなかった。優しくて、明るいカウンセラーの彼女のように、なれるとは思わなかった。

 だって私は殺してしまった。大切な仲間を、夢を。憎んでそして、殺してしまった。法で裁かれない殺人者なのだ。彼らは許してはくれない。


「目を、閉じてみてください」


 言われるままに目を閉じた。


「想像してみてください。未来のあなたを。自分を認めて、許して、そうして歩んだ場合の未来を。……誰かそこに、立っていませんか? どんな顔をしていますか? 未来の自分が、見えますか?」


 ……正直に言うと、未来の自分は見えなかった。でも、誰か、は、見えたのだ。

 一番最初に創ったキャラクター。その人が、頭の中に立っていた。優しく微笑んで、こちらを見ていた。……そのキャラクター、彼女もまた、私に殺されているというのに。


 彼女は、私のあこがれを詰め込んだキャラクターだった。だからこそ、鬱になってから、会うのが最もつらい相手だった。そんな彼女が、立っていた。

 今でも覚えている。彼女はファンタジー小説の中の登場人物だったが、その時は実に現代的な、シンプルな服装をしていた。白いTシャツにジーンズ。紺色のスニーカー。普段は結んでいる髪を下ろしていた。


『私も、あなたみたいになれる?』


 問いかけると、彼女は笑顔で頷いた。

 もう、自分を、許してあげてほしい。

 カウンセラーの言葉と、彼女の微笑みが重なった。


 ……それから時間が経って、私の脳内は、少しずつ、活気を取り戻していった。あの時の彼女をはじめとし、何人かは戻ってきてくれた。私は……少しずつまた、物語を書けるようになった。

 完全に許せたわけではない。だから、まだ戻らない子もいるのだろう。どうして鬱になったのか、理由もはっきりとしない。だからまだ、抜け出せたわけではない。

 けれど少しだけ……少しだけ、自分を好きになったら、見えてる世界が、大きくひらいた気がする。


 夢殺しは、また、夢に救われたのだ。

 私は物語がないと、生きていけない。

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夢殺しの白昼夢 植木鉢たかはし @Uekibachi

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