なんでそんなこといわれなきゃいけないの?
山桐未乃梨
第1話
仕事はしていない。専業主婦である。
一見すれば『幸せそう』にみえることは間違いない。
小夜子とてその自覚はある。
心にどす黒い澱を沈めて、綺麗な上澄みだけを見せているだけにすぎないのは小夜子の実親でさえ知りえない。
始めにその黒い澱が出来たのは、長男・
小夜子にとって初めての妊娠、出産。
若干の鉄分不足があったものの、鉄剤を処方されただけで済んだのは幸いであったし、無事に生まれて来てくれた息子に心底安堵したものだ。
しかし、赤ん坊特有の『何をしても泣きやまない』ことは、小夜子の心を不安で満たした。
今であれば、まあ赤ん坊とはそういうものであろう、そういうこともあろうと腹を括れるし、実際次男の出産時には幾分楽な気持ちで『何をしても泣きやまない』に付き合っていたように思う。
ところが当時はこの上なく不安だったのだ。
産後はホルモンバランスも崩れ、涙が出やすい。
退院したその日の夜も、邦広は泣きやまなかった。
どうしたら良いか分からない。
その日は退院日だったため夫がいてくれたが、明日からほとんどを一人で対応しなくてはならない。
さらに悪いことに、邦広が泣き止まないことに夫が苛立ち始めた。
小夜子は混乱した。
結婚した当初は優しいと評判の夫だった。
子どもを強く望んだのも夫。
まさか生まれたばかりの赤ちゃんに苛々するなんて。
それとも、泣き止ませられない小夜子への苛立ちだったのか。
どちらにしても、優しい夫ではなくなっていた。
小夜子の感情はめちゃくちゃ。
早く泣き止んで
小夜子が焦れば焦る程、邦広は大きく泣く。
「貸して!」
乱暴に邦広を抱え、小夜子に背を向ける夫。
こんなに苛々する夫が怖くて、どうしたら良いか分からなくて、ついに小夜子の目からも涙が溢れてしまった。
まずい、と思って涙を拭くも遅かった。
「お前まで泣くなよ!面倒くせえな!!」
今まで聞いたことないような声だった。
思えば大きな喧嘩なんてしたことなくて、まさか産後にこんな風になるとは思ってなくて。
小夜子は黙って邦広をもう一度抱いた。
良かった。
夏で。
小夜子は無言で外に出た。
邦広を抱っこしていたら涙は拭けないけど、もうそれでいいや。
玄関の前を行ったり来たり。
外だと新生児の声なんて案外小さいもので。
しばらくすると眠ってくれた。
しかし。
夫は味方なんかじゃない。
小夜子にそう思わせるのには充分な一言だったのだ。
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