恋には遠い

瀬川

第1話 最悪な朝



「それでどうする?」


 俺は目の前で笑っている男を睨みつける。でも、全く怯む様子がない。俺の睨みなんて、相手にとっては弱い抵抗でしかないのだ。

 その事実が悔しくて、でも文句を言える状況じゃなくて、俺はただ睨むことしか出来なかった。

 ……どうしてこんなことに。あの時、こいつに会わなければ。いつも通りの日常を送れるはずだったのに。どんなに後悔しても、もう手遅れだった。



 市居いちい世名せな、17歳。

 俺は、一人の医者と両親しか知らない秘密を抱えて生きていた。それは友人も、親戚さえも知らない秘密だった。小さい頃に分かってから、絶対に誰にもバレてはいけないと親に強く言い聞かされていたからだ。

 子供の時は、どうしてそんなに必死に隠そうとするのかと、ずっと不思議だった。でも成長していくにつれて、俺の体が周りとは違うのに気づいた。普通にしていれば分からない。でも確かに違った。

 人は他とは違うものを排除する傾向がある。両親は俺を守るため、絶対に隠せと教えたのだ。


 誰にもバレてはいけない。隠すのは、とても大変だった。いつでも、どんな場面でも気を遣い、外で安心できるところはどこにもなかった。そして、何度か危機一髪バレずに済んだこともあった。

 何とか隠し続けられたのは、運も味方についてくれたおかげだ。これからも絶対にバレないように。まあここまで来たら大丈夫だろうと、そうタカをくくっていた。その油断が命取りになるとも知らずに。



 その日は朝からついていなかった。

 かけたはずのアラームが鳴らず、遅刻までとはいかずとも時間に余裕がなかった。そんな時に限って、食べていたトーストを床に落としたり、結んだはずの靴紐がほどけていたり、いつもの通学路が工事をしていたりと、焦らせるようなことばかり起こる。

 ただでさえ遅刻ギリギリなのに、遅刻はしたくない。そう思いながら、最後の方は走って学校に向かった。


「……最悪だ」


 俺は痛む腹を押さえて、聞こえないように悪態をつく。授業を受けている時から、嫌な予感はしていた。鈍痛を訴えて来ていたのが、気のせいだと思いたかった。でも、どんどん痛くなってきて、昼休みにはもう我慢出来ないぐらいの痛みに変わっていた。


「……薬、わすれるなんて……」


 カバンの中を探ったが、薬を見つけられなかった。この前最後の1錠を飲んでから、補充をしていなかったせいだ。完全に自業自得である。午後の授業を乗り切れるだろうか。自信が無い。


「いたい……」


 お腹を押さえて、少しでも楽な体勢になろうと机に突っ伏す。本当に駄目そうだったら、保健室に行こう。先生には、ただの腹痛だと説明すればいい。授業中に倒れるよりはマシだ。


「っ!?」


 そんなことを考えていたら、いきなり椅子が動いた。誰かがぶつかったらしい。わざとじゃないにしても、今の俺にとっては苛立たしさしか感じられなかった。

 顔を上げて後ろを見ると、さらに苛立ちが大きくなる。最悪だ。当たってきたのが、こいつだったなんて。


 同じクラスの、千堂せんどう響也きょうや。地毛と言い張る明るい茶髪は、ウェーブがかかっていて前髪も長い。かなり視界が悪そうだ。さらには制服を気崩し、チャラついている。顔がいいから人気はあるけど、俺は完全に嫌いなタイプだった。出来れば関わりたくない。それなのに、たまに何が楽しいのか話しかけてくる。

 ただでさえ相手にしたくない。体調が悪い今は余計にだ。


「ああ、ごめんごめん。ぶつかった」


 全く悪びれた様子もなく、軽い謝罪。ニヤついた顔が憎たらしかった。


「……ああ」


 文句を言いたかった。でも余計なトラブルを起こしたくない。そんな体力は残っていないからだ。軽く頷けば、そのまま終わればいいのに、何故か行かない。


「世名ちゃん、腹痛い感じ?」


 その顔を一発殴りたい。さっさとどこかに消えればいいのに。


「名前で呼ぶなって、言っただろ。ちゃんづけも、するな」


 腹が痛すぎて、文句を言う声も小さくなる。声を出したせいで、さらに痛みが増した。俺は顔をしかめて、お腹をぎゅっと押すように力を強めた。


「いつもより元気無いな。本当に大丈夫。腹でも壊した?」


 話している余裕は無いのに、何故かまだ話しかけてくる。相手にしたくない。でも返事をしないと、こいつはしつこいのだ。


「おまえには、かんけいない」


「えー、酷いなあ。せっかく心配しているのに。保健室にでも連れてこうか?」


「ことわる」


 痛すぎて、話すのも辛い。ここにいたら、ずっと話しかけてこられて体力を消費する。俺はゆっくりと立ち上がった。


「どこ行くの?」


「おまえのいないところ」


「うわ。酷い」


「ついてくるなよ」


 まさかとは思いつつ念を押して、俺はのろのろと教室から出た。そして、誰もいないトイレに向かった。

 中に誰もいないのを念入りに確認してから個室に入ると、俺は座り込んだ。


「……さいあく」


 お腹の痛みと共に、どろりと体から出てくる感覚が気持ち悪かった。

 中学生になってから始まったこれは、月に一度来ているのに全く慣れない。

 吐き気まで出てきて、俺は口と腹を押さえながら生理の痛みに耐えた。



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