第7話
勉強会は一週間のテスト準備期間に毎日開催された。弓槻さんのグループの子が増えたり、木下君の代わりに他の子が参加したりして、メンバーはたまに変わったけれど、僕と三崎さんと弓槻さんと北条君の四人は固定メンバーみたいな感じだった。
僕は一回きりのつもりだったのに、さっさと帰ってしまおうとするといつも弓槻さんか北条君に拘束されて、五時半に解散するまできっちり参加させられた。
卵焼き一個じゃ割に合わない。あまり安請け合いはするものじゃないね。
毎週木曜日が、僕がお姉ちゃんの部屋に行く日だった。別に決めていたわけじゃないんだけど、いつの間にか暗黙の了解ができていた。
僕は今週、お姉ちゃんの部屋に行かなかった。
お姉ちゃんはいつも時間がある時には、いつからか僕が来る前にシャワーを浴びて準備をするようになっていた。別に僕にされることを期待しているわけじゃないだろう。ただ諦めただけだ。
僕はその日、三崎さんと小佐田さんが仲良く言い争っている様子を眺めながら、お姉ちゃんは今日も僕を待っていてくれているだろうかとぼんやり考えていた。
今日は僕が来るはずだからとシャワーを浴びて、来ない僕を一人の部屋で待っている。それは少し寂しい光景のように思えて、僕は罪悪感で気持ちが重かった。本当は行ったらしてしまうことの方が、罪悪感を覚えるべきことなのに。
僕はしきりに携帯を気にしていた。お姉ちゃんから何か連絡がこないかと期待していたのだ。何かあったのかと僕のことを心配して、メッセージを送ってくれるんじゃないかと思っていた。
でも結局、お姉ちゃんがアルバイトに出かけてしまう時間を過ぎても連絡は来なかった。
まあ、当然か。お姉ちゃんにとって僕はただの脅迫者で、いない方がせいせいするに決まっている。
そんな風に自嘲的に思いながら、僕は自分が、未だにお姉ちゃんに気にしてもらいたがっているのだということに気が付いた。幼い子どもが親に見てほしくてちょっと危ないことをしでかしてしまうみたいに、僕はお姉ちゃんを、僕に繋ぎとめたがっている。
「原田さんはさ、どうして自分のことを僕って言うの?」
急にそんなことを尋ねてきたのは木下君だった。
別に彼は下心も何もなさそうだったけれど、次の瞬間には北条君に、お前、ばか!と頭を叩かれ、弓槻さんにはどうも机の下で思い切り足を踏まれたみたいだった。悶絶して机に突っ伏して、すんません……、と唸る。
どうしてそんな腫れ物に触るみたいになっているんだろうと僕は内心で苦笑いをした。むしろそっちの方が傷つくよ。
しかし言われてみれば、いつから自分のことを僕と呼び出したのだっけ。僕だって、女の子は自分を僕とは自称しないことを分かっているのだから、ある程度自覚的に自称を決めたはずだ。
「確か、小学五の頃にはもう僕って言ってた気がするな」
僕が考えているのを見て北条君が言った。
「あれ、君って僕と小学校同じだっけ?」
北条君はひでぇよ~と肩を落として、木下君と弓槻さんににやにや笑われている。
小五の頃には既に言っていたということは、四年生あたりでなにかあったのだろうか。
よく思い出せない。
昔の記憶は曖昧で、あれほど濃密に感じた時間のほとんどを、僕はもう喪失してしまっている。僕はこれまでなんと無為に生きてきたことだろう。そしてこれからも、なんと無為に生きていくことだろう。
「まあ、僕は僕さ」
諦めて肩をすくめると、三崎さんが、よっ、て感じてヨイショしてきた。
「流石は巴様。まさしく、その通りでございます。巴様は巴様であらせられるがゆえに僕なのであり、呼称など巴様の気にかけることではございません!」
なんかバカにされてる気がするな。意味分からんし。
「……三崎さんさ」
「はい、なんでございやしょう」
「いい加減、巴様っての止めない?知らない人が見たら完全にクラスメイトに様付けで呼ばせてる奇人で、いちいち僕の印象が悪くなってる気がするんだけど」
「これは失敬!考えが及びませんで。以後気を付けさせていただきます、巴様」
三崎さんは、たはーって感じでぺちりとおでこを叩いた。よし、分かった。これはバカにされている。脇腹に手刀を突き入れてやったら、うっと唸ってうずくまった。
「こいつの喋り方は何なの?」
「この間テレビで落語やってたから」
小佐田さんが白けた顔で言った。なるほど、二人でテレビを見る仲か。
最近は、勉強会が終わると帰る方向が同じ北条君と弓槻さんと一緒に帰っていた。いつにない賑やかな帰り道は、それはそれで悪くなかった。
でも今日は、用事があると嘘を吐いて途中で道を変えた。なんだか一人で居たい気分だったのだ。
六月になり一日はどんどん長くなっていた。この頃は七時を過ぎても空の方は明るい。六時にもならない今の時刻なら、空はまだ青く、潤みだしそうに微かな橙色を帯びている。
空の色を見上げていると、僕はどうしてかセンチメンタルな気分が湧き上がってくるのを感じた。
きゅっと胸が締め付けられるような心地がする。
嫌だな、そういうのは僕のキャラじゃない。三崎さんとか、似合いそうだけど。
僕の足はいつしかお姉ちゃんのアパートに向かっている。クリーム色の外壁をした二階建ての建物が見えている。部屋にいるのかどうか、ここからじゃ見えない。
メッセージを送ってみようかとふと迷う。でもすぐに諦めた。きっと今はバイトの最中だ。
僕はアパートの前を通り過ぎた。
どうしよう、今度こそ本当に行く当てもない。空が暗くなりさえすれば帰ろうという気も起きるかもしれない。でも太陽は傾斜しつつもまだ高い。僕はどこにも行き場がない。
ふと目の前から小学生の一団が走って来るのに気が付き立ち止まった。前も見ないでおしゃべりに夢中で、危ないとは思ったけれど、すぐに通り過ぎた。
そう言えばあのくらいの頃はお姉ちゃんと一緒にヒーローごっこをしていた。いつも僕がヒーロー側で、お姉ちゃんは悪役をしてくれた。
僕は何となく両手を振り上げて、あの頃みたいにやってみた。
「へん、しん!」
頭の中でベルトの変身ギミックが発動。がきゅん、がきゅん、がきゅん!輝く紅の装甲、シャープなフルフェイスのマスク。我こそは――!
「何してんの?」
急に後ろから呼び止められて、我……僕は振り返った。
「あれ、弓槻さん」
僕はにわかに顔が熱くなるのを感じた。平気な顔を装ってはいるけれど、ダメだ、赤くなってしまうのは止められない。ポーカーフェイスってのは難しいな。今度三崎さんにコツを聞こう。
「ボ……」
「ぼ?」
「ボルトスラッシャー!」
僕は必殺技名を叫びながら切りかかった。見られてしまっては殺すしかない。いや、そういう設定はなかったはずだけれど。
弓槻さんは割と演技派だった。
「ぐわぁああ、ヤラレター!しかしこの俺を倒しても第二第三の俺が……」
「ええっ……と。ナニっ、まさか貴様は!」
「そう、俺は闇の賢帝ダークエンペラーの百三十二体目のクローンだったのだよ!」
なんだと、まさか、とか、わはははは、ダマサレタカ~、とかやっている内にお互いに限界が来たので、どちらからともなく素に戻った。
「うん、まあ、はい」
「えっと……。今みたいなので良かったの?」
「うん、気を遣ってくれてありがとう。トテモタノシカッタデス」
弓槻さんはとても優しい。僕だったら冷たい目でスルーしてしまうに違いない。
「それはそれとして、どうしたの。僕これから用事あるんだけど」
また嘘を吐いた。
「わたしもたまたまこっちに用事」
弓槻さんも嘘を吐いた。
「そう。なら、仕方ないね」
僕は歩き出した。呼び起こしたヒーローのおかげか、どうなのか。僕は行き先が分からなくても歩き出せるようになっていた。
「待ってよ」
「付いてこないで」
「わたしもこっちに用事なの」
そうか、それなら仕方がない。行き先がたまたま同じだけならば、僕に言うことはなかった。
夕暮れの迫る茜色の町を歩く。折角だから知らない路地に入ってしまえ。
知っている町の知らない風景を探して歩く。
古びた民家、散歩の犬に吠えられたり、打ち捨てられた自転車を見たりして、何の興味もなかった景色の一つ一つに、一人一人の生活があることを知る。
弓槻さんは黙りこくって僕の後をついて来る。何か言いたげなのは分かるけれど、何のつもりかは分からない。
いくつか太い路地を通り越した先の住宅街で行き止まりになった。戻ろうと振り返った時、弓槻さんが少し、泣きそうな顔をしているのを見てしまった。
見なければよかったと思った。面倒くさいと。そんな風に考えてしまう僕のことを、僕はまた一つ嫌いになった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます