第6話
球技大会が終わってから、クラスの子の僕に対する見方が変わった気がする。具体的には以前より話しかけられやすくなったし、何か用があって話しかけても、不安げな顔をされることがなくなった。
クラスメイトを支配下に置く得体の知れない不愛想な読書好きから、クラスメイトを支配下に置く得体の知れないスポーツのできる読書好きに変わったということだろうか。
うーん、そんなに変わったとも思えないのだが。というか、主に怪しいのは三崎さん関係だろう、どう考えても。
ともあれ球技大会の親睦を深めるという趣旨は無事に達成されたらしい。
僕は準優勝の陰の立役者として称賛され、バレー部の子から、あんなにできるなら入りなよ、と勧誘を受けた。
ちなみに陰の、というのは僕の身長が小さすぎて、ほとんど攻撃には参加していなかったせいだ。僕だってもっと伸びるものだと思っていたさ。三年前からほとんど変わっていないがね。
そんな熱気もすぐに過ぎ去り、春霞が消えて水色の絵の具を塗りたくったような夏空が広がり始める頃、高校生活初めてのテストが告知された。
僕は別に適当に切り抜けるつもりだったけれど、慌てていたのは三崎さんだった。
「実はわたし、ここにも猛勉強して入ったので、気を抜くとすぐに落第しそうなのです……」
「へえ、そりゃ大変だ」
僕はパンをかじりつつ事も無げに言う。今朝は少し早く家を出たので、コンビニに寄る余裕もあった。だからこのパンは僕が自分で買ったものである。とても偉い。
「もうちょっと真面目に聞いてくださいよ~。卵焼きあげますから」
三崎さんが半分に切った卵焼きを箸につまんで突き出してくる。なるほど、三崎家はちょっとしょっぱめの味付けか。嫌いじゃない。
「で、何をしてほしいのよ」
「巴様って家で勉強してます?」
「別に」
やっぱり、と三崎さんが机に突っ伏した。
「そんな気はしてたんだよね。宿題はこっそり授業中に済ませてるし、暇さえあったら本読んでるし、きっと家でも好きなことばっかりしてんだろうなって」
頭いい人はいいですよね~、とか拗ねたことを言い出したので、後頭部にチョップを入れてやった。
「うるさい。勉強教えてほしいの?」
「単刀直入に言えば」
「隣のクラスの美人さんに聞けば?」
三崎さんは途端に嫌な顔をした。
「小佐田ですか~。あいつ、向いてないっす。他人に教えるの」
「なんでよ」
「だって分かんないって言ったら、なんで分かんないのよ!ってキレるんだもん」
僕はちょっと笑ってしまった。あのきつそうな美人さんが、物分かりの悪い生徒にイーッてなっている状況は容易に想像できたからだ。
仲いいんだね、と言ったら、三崎さんは曖昧に首を傾げて、いいんだかどうだか、と呟いていた。まあ、傍から見てどうかというのは本人たちに関わりのないことだ。
放課後に勉強会をすることが決まった。面倒だが、別に今日は用事もないしいいだろう。
会場は、騒いでもいいように教室になった。
僕と三崎さんが授業が終わってから机をくっつけだしたら、なにすんの、と弓槻さんが寄ってきた。
「勉強」
「ふ~ん、あんたがねぇ」
弓槻さんは品定めするように僕の顔を見る。他人に勉強を教えるようなタマかとでも言いたいのだろう。
「弓槻さんも参加する?」
三崎さんが言った。いろいろと遺恨もあろうに、あまり細かいことは気にしないのか、煽ってんのか。
「いいの?」
意外に乗り気だ。弓槻さんはグループの他の子に、居残り勉強するわ、と手を振って前の机をずりずりとくっつけた。彼女も何事もなかったかのような態度だ。ポーカーフェイスの上手い女たちに挟まれるの嫌だな。
すると北条君も、俺も寄せて、と言ってくるし、すると最近彼と仲のいい木下君も寄って来る。いつの間にか隣のクラスの美人さんも来て、三崎さんとけんかしていた。
「これだけ居るんなら僕、要らなくない?」
面倒くさくなって立ち上がると、弓槻さんと北条君がほとんど同時に僕の手を掴んで座らせた。
「あんたはいなきゃダメでしょ」
その発言の意味も、無駄に強い眼光も意味が分からない。木下君は頬杖を突いてにやついているし、三崎さんは小佐田さんとまだなにか言い争っている。
僕は諦めて英語の参考書を開いた。
「で、なにすんの」
それぞれ勉強したい範囲がばらばらだったので、適当に教え合えばいいんじゃない、という木下君の提案が採用された。なので、各人好き勝手にやっている。
僕は宿題も済ませてしまったし本でも読もうと思ったけれど、あちこちから呼ばれてそんなに暇でもなかった。
「だから、歴史は流れで覚えるんだって。単語一つ覚えたって意味ないでしょ。一つの出来事が起こる前にはその発端があるんだから、その連続を覚える」
「漢文なんてほぼ日本語でしょ。基本的な構文だけ覚えて、あとは漢字の意味さえ分かれば分かるよね」
「英語は基本的な構文の連続と応用だから、そこのとこしっかり理解できてれば簡単。あとは単語を覚えるだけね。リスニングは僕も分からん」
そんな風にお悩み相談をばっさばっさと切っていく。
北条君と三崎さんは、ほー、と分かったような分からないような顔で聞いてくれた。木下君はたぶん僕より頭がいいので教える方に回っている。弓槻さんはもう少し細かいところの質問が多かった。小佐田さんはたまに三崎さんにダメ出しして楽しそうだ。
今まで僕は誰かに教えることなんてほとんどしたことがなかった。勉強法とか覚え方とかは無意識にやっていることが多くて、それを言語化するのは難しい。でもどうしてか、普段考えたこともない基本的な考え方が僕の中からはするすると出てきた。
思い起こせば、それらはみんな渚お姉ちゃんに教わったことかもしれない。
昔、まだお姉ちゃんが大学生くらいの頃には、勉強を教えてもらう名目でお姉ちゃんの部屋に入り浸っていた。
お姉ちゃんは教育学部の所属で、その頃から教師を目指していた。塾のアルバイトは既に始めていて、今思えば、無償で家庭教師を引き受けてもらっていたようなものだ、ありがたいことだった。
お姉ちゃんは教え方が上手だったと思う。何が分からないのか、何を理解すれば分かるようになるのか、僕の立場で考えて教えてくれた。
できるようになれば誉めてくれたし、間違えてもまずは挑戦したことを誉めてからどこが悪かったのか教えてくれた。
僕が今、授業を聞けば分かるだろ、くらいの気持ちでいられるのも、そういう基礎があったからなのだと思う。
優しかったお姉ちゃん。僕が間違ったり困ったりしていても、どうすればいいか教えてくれたお姉ちゃん。
僕はどうして、そんな人を許してあげられないんだろう。
僕はこんなに狭量だったか。
どうしてほとんど何も感じずに仕返しばかりしていられるのだろう。
十二月のことだ。
僕はお姉ちゃんの部屋でハローワークのチラシや企業の説明資料を見つけた。それを持って問い詰めると、今年の教員採用試験は受けないつもりだと言った。今の学校も辞めるつもりだと。
どうしてか尋ねかけて、止めた。どう考えても僕のせいだったからだ。僕が追い詰めすぎてしまったから、お姉ちゃんは夢を諦めようとしている。
その時、何も気にしていないと許してやればよかったのだ。お酒の失敗だし、気を付けなくてはいけないけれど、なにも取り返しのつかないことじゃない。お姉ちゃんはいい先生で、これまで教えてくれたことは僕のこれまでとこれからにとってとても大切でかけがえのないものなんだと、僕の気持ちを伝えて、忘れてあげればよかった。
だから止めないでほしいと頼めばよかった。
でも僕の口から出てきたのは脅迫のような言葉だった。
「そうやって被害者ぶっていたら、逃げられるとでも思ってるの?」
お姉ちゃんはきっとそんな風に考えて教師を諦めようとしたわけじゃない。子どもに手を出したこと、僕をそんなことを言う子に変えてしまった責任を感じて、自分に教師としての資格がないと考えたのだと思う。
僕は震えるお姉ちゃんの首許に手を掛けて、耳元に囁いた。
「止めてよ。僕に、お姉ちゃんの人生を潰したって思わせるのは」
お姉ちゃんは僕に言い訳をしなかった。顔を俯けて、ごめんなさいと呟いた。
僕はとても嫌な奴だ。たった一度の過ちに付け込んで、許そうともせず、贖罪の機会も与えず、お姉ちゃんから尊厳を奪おうとしている。僕の思い通りになる姿を見て、昏い喜びを感じている。
僕はどうしてこんなことをしているんだろう?
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