第9話 メアリーの記憶
「メアリー、いい子でありなさい。メアリー、いい点をとりなさい」
母はいつも私にそういった。まるで自分の夢を私に託してくれたかのように顔を覗きこみ、だからこそ私はその期待に応えるのだと心に誓っていた。なによりお父さんがいないこの家ではお母さんの愛情だけが私にとっての心の拠り所であり、いい点をとることは褒めてもらう唯一の方法だったのだ。
お母さんはいつも忙しそうにしていた。仕事から帰ってきたと思ったらまた仕事に向かい、ひとりでいる家はとても寂しかった。だからお母さんが家にいるときはとても嬉しかったしたくさん会話をしたかった、褒めてもらいたかった。
「ねぇねぇお母さん。あのこくごでね、読むの上手っていわれたの」
「きょうね、テストで百点とったよ!」
「だれかピンポン鳴らしてて、わたし開けなかったよ。ちゃんと留守番してたの」
思い返せば私の話を聞く母は疲れていたに違いない。たまに大声で怒鳴られたときには理由も分からず私は泣いて、そしてとても悲しかった。どうして怒られたのかと分かる様になる前に、私は母の顔色から機嫌が悪い時が分かる様になっていた。今日は母の話を遮ってはいけない日だ。はいとだけしか言わない方がいいな。そう気を付けていても怒られるときは怒られた。
「いい? メアリーはあんな人にはなってはダメよ」
あんな人とは父の事だが私には父の姿を知らない。それでも私は「うん」と頷くのだ。
「大人になったら勉強なんかする暇ないからね。今のうちしかできないの。今できない人は大人になってから後悔するの。だからメアリーはちゃあんと勉強して、いい大人になるのよ」
「はーい!」
「うん、やっぱりあなたはいい子ね」
優しい時のお母さんが一番大好きだった。だから私はちゃんとしなくてはいけない。いい大人になるためにいい点数を取らなくてはいけない。母が機嫌が悪くなるのは私がちゃんとしてないからで、喜ぶ姿をみるために私は頑張らなくてはならない。
必死に必死に勉強した。
でもいつからだろう、母が褒めてくれる機会が減っていった。きっと私がいい子ではなかったからなのだと解釈して、私はさらに頑張った。
本当は母は仕事が忙しくて私に構う余裕などなかっただけだ。だけど私はそんなことも知らずに母の休む邪魔をするようになんども話しかけた。テストを広げては褒めて欲しくて母に話しかけた。しかし母は私を叩いた。少ない休む時間を邪魔した私が悪いのだが、このころの私にはなぜ叩かれたのか分からなかった。
だからもっと頑張った。学校で誰よりもいい子であるために率先して掃除をして片づけをして、発表もたくさんして。クラスの一部がそれを気に食わないのかちょっかいをかけてきても私は母に褒められるために頑張った。
母が叩くのは私のせいなのだから。だからもっと頑張るのだ。
―――そんななか、私は『二重人格』になってしまった。
中学に上がり席次で皆との順位が明確になるものが出てきて、きっと私にはそれがプレッシャーになっていたのかもしれない。塾に入った人との成績が格段に上がったのをみて焦ったのかもしれない。
『メリー』もうひとつの人格を皆はそう呼んで区別した。私より明るく元気で活発だと薫から教えてもらった。
二重人格が発覚してから医者に診てもらった。その医者がいうには過度のストレスが原因なのだと言っていた。それから学校で母も併せて面談も行われた。私のこれからの生活に対して話し合った。
メリーは自分が二重人格だとは知らない。結果としては中学に上がって環境の変化も合わさってストレスが来たのかもしれないと話され、取り合えず様子見、ストレスだと感じることがあれば誰にでも相談するようにと言われた。
また別の日に家で暴力が振るわれてないかとしつこく聞かれた。もちろんそんなことはない。母を悪くいうような先生の喋りが嫌いになった。私はお母さんが大好きなのだとはっきり言うと解放してくれた。
でも問題はそのあとからであった。
メリーになっている間は記憶がない。そのせいでまともに授業も受けられず成績も落ちる一方だった。「いい点をとりなさい」私にとっては最悪のケースだった。どんなに頑張ろうとも私の中のもう一人が出てくるだけですべて無に帰されるのである。
それでもそれを帳消しにできるぐらい勉強しようと頑張った。なんど記憶を飛んでもその分勉強すればいいのだと、気が付いた瞬間から周りに授業の内容を聞いてはノートを借りて、余裕があれば予習もした。
でも、メリーはテストの時も現れた。必死になって勉強した私をあざ笑うようにクラスの中での順位は下がった。どうあがいても自分はいい点を取ることはかなわないのだと絶望した。それでも勉強しないのは悪い子なのだからと必死に食らいつこうとまた頑張った。
それでも何度もメリーは出てくる。もしストレスが原因というならば、きっとこれこそがストレスだろうと私は怒り狂った。どうして私がこんな仕打ちを受けなければいけないかと物に当たった。そしてそのあと壊れた家具がお母さんにばれて怒られては、後悔するのである。
母との時間だけはメリーに取られたくなかった。小さいころからそれが好きで好きで、母に褒められるために私は頑張っているからだ。それを神様が叶えてくれたのか、母の前でメリーに替わることはなかった。
しかし、それが逆効果だったのだ。お母さんにとって私が二重人格だと信じられなかったのだ。ただ私が母の気を引くための演技ではないかと疑い始めたのだ。私は大好きな母ににそういう疑いをかけられたことがなによりショックだった。「本当だよ」といってもまるでその言葉を信じていないような顔が嫌だった。
だから私はメリーが大っ嫌いだ。私からすべてを奪っていく彼女が嫌いで仕方ない。どうして私だけがこんなにも苦痛で、なのに彼女はその事情も知らずにのうのうと生きているのかと考えると耐えがたい。
どんなに頑張っても上がらない成績。記憶が飛ぶストレス。疑いをかける母。私が限界を迎えるにはあまりある条件だった。
「出てけ!私の中から出てけぇ!!」
ある日私は学校でカッターを握りしめて自分自身を刺した。といっても腹を刺すには恐怖が勝り、代わりに腕を刺した。
「私の中から出てってよ!」
イタイ、イタイ、イタイ、痛い、イタイ。皆の視線を浴びながら、赤い血を教室にまき散らしながら、私は何度も刺した。誰かの叫び声、悲鳴、そして止めてくれるそれまで私は狂ったように刺した。
しかしメリーは消えなかった。逆に皆に迷惑をかけるだけでなく、お母さんに相当迷惑をかけてしまった。「ごめんねぇ」と抱きしめる母の温かさは奇しくも私が求めていたものであるはずなのに少しも嬉しくはなかった。母が泣いているのは私がこんなことをしでかしたからなのだと罪悪感で押しつぶされそうだった。
メリー。私はあなたを恨む。だけど私はあなたを消すことは出来ない。
諦めた。私は普段通りの生活をするように心がけた。「もう大丈夫」と周りに、自分にも言い聞かせてはこれ以上迷惑をかけないように、悪い子にならないようにと注意した。
それでもメリーはそんなことをつゆ知らずに『学校が楽しい』だとかそういう話を聞くたびに怒りが湧いてきた。だけどなるべく無視するように生きた。
薫と美帆が前よりも私を助けてくれるようになった。気が付いたときには大体二人のどっちかが私の隣にいて、すぐに私なのだと気づいてくれた。それがどれほど心の支えになったのか。どれだけ感謝してもしきれない。
母も私に優しくしてくれるようになった。しかしその優しさの奥に余裕のなさに気づいた。それもこれも私がカッターで暴れたせいなのだ。そのせいできっと周りから母に対する意見が集中してしまっただろう。私はただ母に褒めて欲しかっただけなのだ。迷惑をかけるつもりなんてみじんもなかったのに。
それから日が経って自分でもストレスが減ったと明言できるぐらいには回復した。薫たちがメリーを監視するおかげで事前にカンニングを防いでくれたりしてとても助かっていた。クラスの皆もサポートしてくれるようになってきて、少しばつが悪いものの過ごしやすくなっていた。
だから夏祭りの時は薫たちに酷いことをしたものだと後悔している。前の日にも電話で話題にあげては楽しみにしていたはずなのに私のせいで台無しにしてしまった。
そんな私だが薫と美帆はそれでも優しいままだった。記憶が飛んでも楽しめるようにと遊園地で遊ぶ計画を立ててくれた。友達の証としてユニコーンのキーホルダーもくれた。一体どれだけの恩を返せばいいのか分からないぐらいに私は嬉しかった。
メリーがいても私は私でいれる。私でいいのだと胸を張って生きていける。
そう思っていた。
事件は起きる。私が行くはずだった告白の場にメリーが現れてしまったのだ。
私はそのまま幸せになれるとか、なんて思い違いをしていたのだろう。自分の二重人格を忘れて、迷惑をかけるのは周りにいる人なのに私はのんきに平和だななんて教室で思っていたのだ。直哉と話して青春だなんて思ってしまったのだ。胸の高鳴りを抑えることが出来なかったのだ。
全ては見て見ぬふりをした私のせいだ。
体育館裏、直哉と薫に美帆。私はそれを見て自分が犯した過ちを知った。これは私の問題であるはずなのに私はそれをほったらかしにしては、ただそのつけが回ってきただけに過ぎない。だから私はもうだれにも迷惑をかけないように一人でいるべきだと誓った。
その日以来、私はだれとも関わらないように目が合っては背けた。一緒に給食を食べてるときも、私は空気であるように黙り続けた。薫と美帆から喋ってくることもなかったから、本当に一人で過ごしていた。ただ直哉が私をメリーと間違えては「手紙渡したか?」と聞いてきた。どうやら私に直接会うのを気まずく思って遠回りにメリーを通したのだろう。「私メアリーだけど」その一言以来、直哉も私を避けるようになった。その時に、私は他の人が自分に喋りかけないのは自分がメリーかメアリーか判断できなくなっているからなのだと気づいた。
それならそれで都合がいい。私はそう納得した。
ただ普通でありたかった。普通に、ただいい子でいい点をとる普通に。でも私は二重人格であり、周りに迷惑をかけてしまう厄介ものなのだ。迷惑をかける悪い子にならないように、私はだれとも関わってはいけない。
誰とも。きっとそれがお母さんをこれ以上心配させることのない選択に違いない。そう信じた。
「…ねぇメリー?私限界だよ。もうたくさん苦しんだよ、だからさ、満足したなら出てってよ。ねぇ」
ぼやいてみる。でもきっとメリーはまだ私の中にいる。どれだけ私を苦しめれば気が済むのだろうか。
―――――メアリーは限界だった。
――――
バンっ! 母がメリーを叩く。
「あっ…もうやめて…」
ドス! また叩く。
「もう…」
メアリーの記憶を見た。きっと全部。今まで自分が知らなかったそのすべての記憶をメリーは垣間見た。母はメアリーにとって最愛の人であり唯一の心の拠り所。その母を通してメリーは全部を知った。メアリーの記憶も想いも全部、全部。
メアリーは限界だったんだ。でも、メアリーだけじゃない。
――――――メリーも限界だった。
二重人格に悩まされるメアリーとメリー。二人は初めて同じ心境に追い込まれていた。皆と距離を置き、ただ唯一母を願うその心。それすらも瓦解し、その心の拠り所を失った二つの人格はいま確かに共有しようとしていた。
メアリーの記憶を共有し、同じく精神に限界がきた。
バンっ!
叩かれているとき、ふとメアリーの声が頭に響いた。
「自業自得なんだ! お前が今叩かれてるのはお前のせいなんだ!」
声が聴こえる。
「メアリー?」
~~~~
真っ暗な世界の中、メリーはメアリーを見た。自分と同じ姿をした少女。長い髪を垂らして見た目は同じはずだが、はっきりとメアリーだと分かった。
「メリー。やっと、やっと会えたな。お前のせいでどれだけ私の人生が狂ったか…」
メリーを睨むメアリー。
限界を超えた二人は心の中でようやく相対した。
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