その長い闇の向こうへ

 そうして一週間後、クウェス・コンクラーヴェの環の席に成康は現れた。青い顔をして。

「環さん、お助け下さい」

「まずはお座り下さい」

 成康の顔は最初に見た時のように戸惑いや胡乱さなどなく、その表情は必死だった。昨晩の夢ではよほど近づかれたのだろう。これならクーリングオフは発生しないな、と思いながら環は紙を広げた。

「それではまず契約書を作りましょう」

「契約書?」

「はい。後々揉めたくはありません。だからこの人が大勢いる場所なのです。業務内容は調査委託で、今回頂くお金はその着手金と報酬という名目になります」

「はぁ」

 環は鞄から契約書式を取り出す。それはA3の一枚物で、裏側には小さな文字でさまざまな条項が記載されていた。環は呪術師として仕事をするときはいつも、この何パターンかあるテンプレートに調査対象の場所と着手金と報酬を記載して使用している。知り合いの探偵が使っているものを流用しているのだ。

 困惑する成康を前に、環は一つ一つ条項を読み上げる。


「あの、本当にこの値段でよろしいのでしょうか。もっと高いものと思っていました」

「この特約に記載の通り、将来的に名前を伏せて学術または商業利用させて頂くことを条件としております。それに実費と危険性を重ね合わせると今回はその金額で結構です」

 そもそも金額なんてあってないようなものなのだ。

 櫟井が金を持っていそうで、もっと信心深そうであれば、環はもう少しはふっかけるだろう。ここに記載された金額には、赤字が出ずに後でもめない値段、というだけの意味しかない。

 そして成康からネットバンク経由で環の口座に着手金が振り込まれたことを確認した。

「では行きましょう」

「あの、今すぐにですか?」

「ええ、早いほうがいい。櫟井さんもそうですよね?」


 環の言葉に成康は神妙な顔で頷いた。

 環が期限を1週間と決めたのには理由がある。

 決断を求めるという意味に加えて、山姥の力が強くなりすぎないうちに、という理由だ。

 化け物というものにも旬がある。例えば雪女であれば冬、海坊主であれば夏、というように力が強まる時期がある。そしてこの山姥は秋が旬なのだろう。物語で師匠が小僧に危険だと注意をしたのが秋であり、だからこそ成康の夢の中でも春より秋が間近の今のほうが息遣いが近いのだ。

 そうしてたどり着いた辻切下の黄泉路に環は目を見張った。

 その奥は真の闇。何も見えないその果てからは生ぬるい風が吹き、環と櫟井がそれぞれ端部を持ちあう紐にかかった鈴をならし、清涼な音がチリンと響いた。

「ここで間違いないのですね」

「わかりません。わかりませんが、確かに夢の出口はこのような形の四角でした」

 環はそのライターという職業柄も、この黄泉路を何度も探したことがある。けれども見つからなかったのだ。けれども今は普通に一般道を直進したらここにたどり着いてしまった。おそらくそれは成康がいるからで、代々この黄泉路を監理してきた櫟井家の血か何かがここに導いたのかもしれない。


 環は改めてそこを観察した。

 トンネルの中はコンクリ舗装されているようだ。けれどもトンネル自体が崖地に突き刺さるように作られていて、今にも入り口が倒壊しそうな風情だ。こちらにせり出すよう威圧的にそびえ立つ分厚いコンクリートの壁には深いヒビが入り、そのヒビの隙間から生臭い甘い風が流れていた。

 トンネルを囲う上部や左右の擁壁は古く劣化し、ところどころぽろぽろと剥落している。

 つまり、黄泉に繋がるかどうか以前に、物理的にも危険性がある。

 いっそこのままトンネル自体を破壊してしまえば難を逃れられるのだろうか。環の脳裏にそのような考えが浮かんだが、すぐ打ち消された。そんな単純なことで済むのなら、きっと誰かが既にそうしているだろう。


「それでは入って下さい」

「本当に?」

「ええ。大丈夫です。おじいさんの宗派を調べて新しい札を書いてきました。これをお持ちになって、何かあれば投げて下さい」

 環は三枚の札を成康にわたす。描いたばかりの墨の香りの未だ鮮やかなものだ。そのしっかりとした和紙の手触りと温かみに、成康は懐かしさと安心感を覚えた。

「そして、こちらもお持ち下さい」

「これは?」

「命綱です。決して離さないよう」

 差し出された細い紅白の組紐を手に取る。太さも1センチほどだ。命綱というにはあまりに細い。けれどもトンネルに入るよう促された。

 そして恐る恐るトンネルに踏み込む。靴の裏にシタリ、と湿った音が響いた。

 黄泉の路。たしかにそう言われればそうだ。一歩歩くがごとに次第に光は後ろに流れ遠ざかり、世界は真っ黒に塗り込められていく。

 心細い。

 夢の中と同じ、いや、それ以上にリアリティのある闇。俺は確かに夢の中でここを走っていた。

 けれども、俺は本当にこんなところに昔入ったのだろうか。

 けれども、その鼻孔をくすぐる香りは身に覚えがある。妙に南国を思わせる甘い香りだ。

 あの円城環という男の言っていたのと同じように。


 したり、したりと音を響かせながら進むと、奥から強い風が吹いてきた。いや、風自体は先程から吹いてはいたのだ。けれどもそれが急に強まった。

 何もないように見える真っ暗な奥。光を通さない闇。思わず振り返れば、光は既に一点に修練されている。遠い。まるで夢と同じだ。

 そう思ってふぅ、と息を吐いた。

 そうすると急に、空気が対流を初めた。俺の息がこの空気を動かし、それがドミノ倒しのように回りに回ってその何者かの眠りを妨げ、身を起き上がらせる。

 耳をすますと確かにフウフウ、という音が聞こえた。

 聞こえれば入り口に戻るように言われている。

 踵を返し、脱兎の如く走り出す。夢と同じく、遠くに見えるかそけき光を目指して一直線に。

 走る。

 走る。光をめがけて。

 夢の中と同じように、息を荒げ、肺をフル活用させる。心臓はバクバクと波打ち、全身に血液を巡らせる。その一方で、夢と同じだと感じる。いや、あの夢は夢ではなかったのだろうか。

 すると夢とは異なり後ろから明確な音が聞こえた。

 タッ。

 タッタッタッ。

 その僅かで明確な足音は次第に大きくなり、そしてタンッタンッと地面を蹴る振動まで響き始めた。それはあっという間に彼我の距離を詰め、背中に接しそうになり、首筋の後ろに生臭い息が吹きかけられた時、札の一枚を投げた。


「ぎゃおう」


 動物のような、人間のような、悍ましい声が洞窟内に響き渡る。

 それは反響し、そして静かになった。けれども安心はできない。今のうちに距離を確保しようと更に全力を出す。

 ホッとしたのもつかの間、すぐに後方の足取りは復活し、あと一歩という時、更に一枚、札を投げた。


「ぎゃうルル」


 同じように足音は一瞬は遠ざかる。けれども今度は先程より早く、足音が復活した。やばい、やばい、まずい、札はあと、一枚しかない。

 あの光はどれほど遠い。

 この真っ暗な闇。脱出口である光。

 この世界には黒と白の二つしかなく、物事を片目で見ているように遠近感がまるでない。

 あの光は遠いのか、近いのか。

 息が上がるより早く、滂沱のごとく背筋を汗が垂れ落ちる。

 タッ。

 騙されないぞ、と言うがのごとく、その足音は瞬く間に背後に迫る。

 ぎうと心臓が絞られたように波打つ。

 全速力で走るなど何年ぶりだ。

 夢の中と異なり体力は限界を迎え、既に息は途切れ途切れで、顔面はおそらくうっ血し、全身から玉のように汗が流れおちている。けれども足を止めるわけにはいかない。もうその足音と息遣いは、再びすぐ後ろに迫っているのだから。


 たいして効かないじゃないか!

 そう思いながら祈る気持ちで最後の一枚を投げ捨て、痙攣する足をなんとか動かし前を向いた時、その先の光景に目を奪われた。

 鮮烈に真っ青な空。

 きらめく白い入道雲。

 青々とした木々の枝葉。

 そして三つの楽しそうに踊る黒い四角。

 これが俺を守ってくれていた、爺さんの三枚の札。

 俺はその隙間をまっすぐに走りぬけた。

 今度こそ、迷いはなかった。

 そしてその影を抜ける瞬間、爺ちゃんの声が聞こえた、気がした。


 そのまま駆け抜け、倒れ込み、擦り切れた膝の痛みと衝撃で巻き上がった土埃のいがらっぽさにむせ返ると、突然ジィジィという蝉の音が響いたのに気がついた。

 そして俺を追いかけていた足音と息が消え失せていることも。

 振り向けば真っ暗な闇を孕む暗いトンネル。けれどもそのトンネルの中と外は夏の光で完全に遮断されている。光のこちら側に闇は漏れてはこないのだ。

 当然のことながら、そのことに酷く安堵した。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る