出征(その4)
「では、リアン、ではどうだろう」
どうだろう、と問われてそれが彼女が子供の名前として思いついたものなのだと知ったアンナマリアであった。
その物語本の中で、そのリアンなる登場人物がどのような役割を果たしているかについてはアンナマリアは寡聞にして知らなかったが、架空の物語から引用しようというその発想はギルダとしては及第点と言えただろうか。お話の中で不吉な命運を辿って無ければいいけど、とちらりと思ったが、うっすら埃をかぶったその古びた書物をじっと見やって、敢えて話の筋を確認する気にもなれなかった。
ともあれ、普通の母親であれば赤子一人を産むのはまさに命がけの、一世一代の大仕事と言えたが、ギルダ自身は生まれた子が得体の知れない怪物ではないと分かればそれで安堵したようだった。
「……もし、仮に普通の赤ちゃんじゃなかったら、あなたはどうするつもりだったの?」
「人に害をなすようであれば、当然産み落とした者に責任があろう」
だからどうする、というところまでアンナマリアは踏み込んで質問する気にはなれなかった。
とはいえ、まともな人間の赤子だったというのであれば――今度は産み落とした者にはその成長に対して責任が生じるというものだ。
母親であるならまずは赤子に乳をのませるところから子育ては始まるだろうが、そもそもギルダは人間のように食べ物を食べて生きているわけではないから、自身が得た滋養を乳として子供に与えるという、普通の母親のような身体の変化は見られなかった。自身には不要でも赤子には必要な事だからと試しにしばらく食事を採らせてみたが、これと言って意味は無かった。子供を抱っこしてあやすのも壊れ物をあつかうような恐る恐るといった、やっとやっとの様子ではあったので、さすがにギルダ一人に赤子の面倒を任せるのは難しい、と早々に悟ったアンナマリアだった。
そもそも足の悪いギルダに赤子を背負わせて、その辺で転びでもしようものなら彼女一人が怪我をするだけでは済まない。少なくとも子供が立って歩けるようになるまでは、アンナマリア以下診療所に出入りしている者たち皆で面倒を見る必要があっただろう。
その子供――リアンは、ギルダから生まれた、という一点を除けば逆におどろくぐらいに普通の人間の子供だった。人造人間のギルダは人間ではまず見たことのない透き通った空色の双眸に、ともすれば銀色とも表現しうるような灰色の髪が特徴的だった。往事の火傷の後を除けばまるで白磁細工の人形のように整った容姿が目を引いたが、その娘リアンは同じく色白ではあったものの髪はやや茶色がかって栗色と呼ぶに近く、その双眸は父親譲りの茶色で、顔立ちこそ母親に似た面影はあれど、ギルダのように作り物めいた雰囲気はまるで感じられなかった。
母親のように魔導の才能があったわけでもなく、並外れた身体能力に恵まれているのでもない。そこいらの路地を駆け回ってどこかで転んで擦り傷を作っても、母親のようにものの数分で傷が消え去るということもなかった。
だから逆に、どう接すればいいのかはギルダ以外の大人達はさほど戸惑わずに済んだ、と言えたかもしれない。
むしろ、人造人間のギルダが子育てを知らないのはまだいいとして、それ以上に親としての自覚を持ってもらいたいのが人造人間でも何でもない、フレデリクの方だった。
もともと農民兵だった彼は、薬草集めの件でアンナマリアが声がけして以来、しばらくは診療院で雑用のようなことをしていたが、街道工事の事業が始まると稼ぎを得るために時折人足として働きに出るようになった。だが生来の怠け者で、まとまった稼ぎが入ると昼間から酒を飲んでは寝て暮らしている有様だった。ギルダ懐妊の折に工事人夫の親方に頼み込んでそちらに専念するように仕向けたこともあったが、それも長続きはしなかった。そういう事もあって、時折アンナマリアが適当な雑用を言いつけてはこき使っていたのだった。
自分でギルダの事を女房だと言っておきながら、その女房子供のためにあくせくと日銭を稼ぐわけでもなく、脚の悪いギルダに代わって積極的に娘の面倒を見るでもない。そもそもギルダが彼との婚姻に同意しなかったため、三人で同じ屋根の下に住まいを構えていたわけでもないところが親としての自覚の無さにつながったのは否めないが、それにしてももう少しは子供の父親としてなにかの役には立ってほしい……他人事ながらアンナマリアなどはそんな風に思うのだった。
そんな状況にある日変化が起きる。王国を二分する内戦のさなかであってさえ、国境を侵すような周辺国の不穏な動きは目立っては見られなかったのに、北方の騎馬の民が、このところ国境地帯の守備隊とひと悶着をおこして、国境の小さな城塞のひとつが奪われてしまったというのだ。
若き国王クラヴィスはその城塞を奪還するべく、国境地帯へ出兵するようにと王令を発したのであった。
このいくさに、何を思ったのか志願兵として加わると言い出したのが、フレデリクであった。
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