第2話
「ふぅー、、、」
しんと静まり返る体育館の隅。
混じり気など何もないように感じさせられる、無機質な呼気が静かに反響した。
「大丈夫。集中出来てる」
あの後、葵のLINEに動揺した拓海は、既読をつけずに携帯の電源を落として、ベットに突っ伏した。
そのまま無気力とも激情とも取れる感情をただひたすらに流し続け、結局、日付が変わって家族が寝静まるまで目は閉じずに体勢を幾度も変えながら寝転がり続けた。
家族を起こさないように気を付けながらお風呂に入って寝る前のルーティンを済ませ、気絶するかのように眠るまで、ずっとその調子だった。
拓海の心の中にはやっぱりかという諦めと、絶対に嫌だという執念が同居していて、純粋に悲しむという事がたったの数時間という短い時間では出来ていなかった。
「ああもう、、」
瞑想をしては集中を切らして目を開け、辺りを見回して誰も居ない事を確認し、自分に悪態をついて瞑想を再開する。
そんな行程を何回繰り返しただろうか。
碌な睡眠が取れずに早く起きてしまい、朝練の一時間前に体育館に入った拓海は、体感で数分に感じる30分を既に過ごしていた。
何度意識を深く沈めても、何度イメージトレーニングをしても、葵の事が頭から離れない。
葵からのLINEが、頭から離れない。
何度も返信をしようと開いては文面を考えてはを繰り返したが結局思いつかずで、瞑想中で昨晩よりは集中力の上がってる今でも、納得のいく返信が思い付かないでいた。
〖えー、珍しいね!葵からのそういうの初めてかも〗
〖それ僕で力になれるやつ、、?〗
〖気になり過ぎるけど大会後まで我慢しとく!笑〗
無難な返信。
〖僕も葵に恋愛話あるよ〗
〖恋人でも出来た!?〗
少し攻めた返信。
色々なパターンを考えた。
でもそのどれもが納得のいくものにならず、この時間に送っても学校まで移動してる時間だろうから携帯は見れないと思うし、それなら瞑想でもして気を静めよう!そう考えた拓海だったはずだが、結局は瞑想中ですら葵の事にばかり気を取られていた。
惚れた弱みと言ってしまえばそれまでだが、小学生の頃から剣道一筋で打ち込んできた拓海にとって、好きな人が出来た事のない拓海にとって、ここまで恋愛に取り乱されるというのは、完全に予想外という他ないのだった。
「、、携帯見ようかな」
瞑想中にも拘らず、携帯を取りに行って篭手を外して戻ってきてという約10分程かかる行程を行おうとするくらいには、拓海の意識は葵へと向けられていた。
いや、ここまで頻繁に集中を切らして目を開けている今の拓海を瞑想中というのは、それ自体が間違っているかもしれない。
言うなれば、煩悩を消し去っている最中といったところだろうか。
本人には全くその意識がなく、きちんと瞑想を行っているつもりなのだが。
「瞑想中?」
───ガタンッ
時間を確認して携帯を見に行く事を諦めて瞑想に戻って数分。
突然すぐ側で聞こえた声に驚き、拓海は受け身のような形でその場を退いた。
「あ、葵!?早いね!?」
「LINE返ってこんかったから、多分早く来よるんやろなと思って」
「そ、そうなんだ。ごめんね返信してなくて」
「ううん。それは全然。それにしても拓海、、ふ、ふふっ」
「ど、どうしたの?」
「驚きすぎやない?」
自分がお化けにでもなった気分やったわ。と葵は付け足して心底楽しそうに笑った。
「だ、だって!集中してイメトレしてたからびっくりして」
葵の事で頭がいっぱいで、その本人が現れた事もあってより驚いた事実を隠して嘘を吐いたのは棚に上げ、責める口調で拓海は早口でそう言った。
わたわたと体の至るところを触って落ち着きのない拓海の篭手の中には、首の後ろの熱さは伝わらなかった。
朝の、ひんやりと冷えた体育館に似つかわしくないその熱さが。
「ふふっ。ごめんごめん。もうすぐ遥も来ると思う」
「一緒に来たの?」
「たまたま途中で合流したんよ。そや聞いてほしいねん。遥ここに来る途中でさ──」
「あーおーいー!その話内緒って言ったろ!!!」
「うわあ。タイミング悪いなあ。先生が校庭一周してから練習開始するって言いよったで?」
「じゃあ一緒に行くぞ」
「ううん。遥だけ特別にやって」
「なんでだよ!!!」
朝練開始の15分前。
遥の登場で一気に騒がしくなった体育館は、続々とやってくる部員によって数十分前までの静謐さの一切を失わせた。
練習中のハリのある圧力の籠った騒々しさとは違う、学生特有のがやがやしさ。
パンッ───
朝練開始2分前。
がやがやしさは体育館全体に響いた柏手に連なる息の合った挨拶によって掻き消された。
国語教諭であり剣道部顧問、そして五段の有段者である薮本先生の柏手は、その短い一音で全員の意識を向けさせる程の強い力を持っていた。
「おはようございます」
「「「おはようございます!!!!」」」
薮本先生の声に呼応して、生徒達は二度目の挨拶をする。
朝早くだというのに誰一人手を抜く事はなく、当人達の知らぬところではあるが、その声は近隣の住宅地にまで届いていた。
「今日の朝練は女子剣道部の長谷川先生が参加されない為、男女共に私が担当する。だが、練習は男女別で行う。男子がこちら側、女子があちら側。二人一組で向かい合って素振り15分。始め」
「「「はい!!!」」」
勢いのいい返事通りの素早い動きで移動する生徒達だったが、体育館には不自然な程に足音が響かなかった。
部活動中の移動は必ずすり足で行う事。
それがこの部の鉄則であり、破った者には見せしめのように辛いトレーニングが科される。
入部してすぐの一年生がうっかりドタドタと移動してしまってはトレーニングを科されてというのが4月ごろの風物詩のような光景なのだが、夏も終わりが近付いて来たこの時期になると、移動速度にばらつきはあれど分かりやすく足音を立ててしまうような者はいなくなっていた。
「次!体育館の端から端、すり足と素振り!」
「「「はい!!!」」」
それからいくつかの練習を挟んで、実践の半分の広さでの模擬戦を行う事になった。
男女に別れて円になり、男子は1~12、女子は1~5までの数字を言っていく。
それが二周したところで同じ番号同士のペアに別れて模擬戦を行い、終われば勝者が右回りに移動していき、10回勝てば勝ち抜けで終了となる。
剣道部恒例のこの練習。
一部の例外を除いては、不思議な事に負け残る生徒はいつもばらつきがあった。
戦う順番、相性。
それらが作用して生み出す不可思議なのだが、だからこそこの練習には意味があり、薮本先生もほぼ毎日にように取り入れるのだった。
ただ、一試合ごとの制限時間が設けられているとはいえ負け残ると長時間戦う事になるので、最下位争いを何度か経験した生徒達はこの模擬戦を嫌っていて、一部では打ち合わせをして勝敗を調整している生徒もいた。
「強くなりたい者にのみ強くなる方法を教える」という方針を持つ薮本先生がその企みに気付いている事を、誰もまだ知らない。
「無敗か…相変わらずだな」
「ありがとうございます」
無敗で早々に模擬戦を抜け出してきた拓海に、少し申し訳なさそうな表情で薮本先生が称賛を含んだ声をかけた。
ただの無敗ではなく、圧倒的な無敗。
危なげのある試合は一つもなかった。
初めこそその才に両手を挙げて喜んでどう育てようかと心を躍らせていた薮本先生だったが、他の生徒とのあまりの差に、2年半の時間をかけて少しずつ罪悪感が募っていった。
切磋琢磨出来る相手のいる環境を作ってあげられない事、圧倒的な才を燻らせてしまっている事に。
「拓海。一本手合わせしてもらってもいいか?」
「先生と…ですか?」
「ああ」
かたや現役、かたや剣道に打ち込まなくなって15年は経つアラフォー。
大丈夫か?と心配されているのだろうなと薮本先生は思った。
見下されているとは微塵も思わなかったのは、単に拓海の普段の行いの良さのおかげだろう。
「お願いします!!」
喜色を浮かべて頭を下げる拓海を見て、薮本先生は自分の邪推を恥じた。
拓海は間違いなく自分の事を尊敬し、格上の存在だと認識してくれている。
その認識は、今後強くなる一方の才能の塊である拓海にとっては刹那的なものなのかもしれない。
それでも、ただ一時でも。
拓海の尊敬の対象である事が薮本先生はたまらく嬉しく感じた。
同時に、熱い思いに答えられるだろうかという大き過ぎる不安も襲ってきてはいたが。
半年程前からこういった事態になるだろうなと想定していた薮本先生は、体力をつけて体を絞り、休みの日は毎日のように町の剣道場へ足を運んだ。
その結果、全盛期程ではないとはいえ四段を取った時程度の実力は戻ってきただろうと思い、拓海に模擬戦を申し込む決意を固めた。
(半年前の自分では間違いなく翻弄されて終わっていただろう、、)
模擬戦開始前、向き合った拓海の雰囲気にそう思わされた。
姿勢、脱力、細かな所作の体の使い方。
伸びしろはまだまだあるとはいえ、それら全てが既に一流の域にあった。
勝負は5本先取。
厳しい特訓を重ねたとはいえ、油断をすれば確実に負ける。
油断をしなくとも負ける可能性がある。
手厳しいかもしれないが、ここは今後の拓海の成長の為にあらゆる手を尽くして全力で勝ちにいく。
どうせ、半年後には追い付けないところまで行ってしまっているのだからと薮本先生は考えた。
「ィ────」
「ィヤー!!!!メーーーン!!!!」
顧問の利点。
ずっと生徒の事を考え、得手不得手を理解し、成長を考えてきた。
その過程を、最大限に活用する。
拓海が苦手とする序盤からの激しい攻め。
立ち上がり声を上げるよりも早く、大きな声で場の雰囲気を手繰り寄せ、その勢いのまま打ち込んだ。
(反応が悪い、、?)
威嚇の為に打ち込んだ面は、
相手の動きを読む時ですら出来る限り紙一重で避けて相手の油断や体勢の崩れを狙う拓海が、初撃から。
その違和感は、打ち込みを重ねる度に増していった。
このタイミングじゃない。
そんな姿勢を崩した状態で避けない。
誰よりも拓海の才を認め、半年の時間をかけて準備し、イメージトレーニングを重ねてきた薮本先生は、既に模擬戦を終えた待機時間中の野次馬達の誰よりも早く、拓海の違和感に気付いた。
以前怪我をした手首の状態が悪くない事は、本人の申告と練習の様子を見た事から明らかだ。
(だとしたら何が、、)
圧倒的過ぎる力で生徒間での模擬戦では浮き彫りにならなかった拓海の調子の悪さが、薮本先生を不安にさせ、攻めを慎重にさせた。
「ドウーーーー!!!」
(あっぶない!!!)
慎重になり過ぎて出来た連撃の隙間に、拓海が狙いすました胴を打ち込んでくる。
攻めの手を緩めていた事によって重心が前がかりになっておらず、無事にバックステップで躱す事が出来たが、調子が悪くともこういった隙を突く動きは流石だなと、薮本先生は一つ大きく声を上げ直し、集中を重ねがけした。
「あと二分!!」
審判役の生徒の声が飛ぶ。
あと二分。
その間で調子の悪さの原因を探ろうと集中を深め、初めよりもより激しい攻撃を重ねた。
面、胴、小手、突き。
様々な手段で、多くの手数で、拓海を防戦一方にしつつ調子が悪い原因を探る。
(集中が浅い、、?)
ここ10年で一番の集中力の深さを持った薮本先生は、自身の深まった集中力と拓海の間に違和感を覚えた。
可能性の一つとして、初めての顧問との対戦で動きが固くなってるというものも考えてはいたが、最初の威嚇で縮こまらなかった拓海を見て、薮本先生はその考えをとうに棄てていた。
緊張でもなく怪我でもない。
だが、どの打ち込みに対しても反応が鈍く、攻勢に移るタイミングもいつもより1秒未満程度の誤差ではあるが遅い。
それらの獲得した情報から、薮本先生は拓海の集中力が欠けているという答えに辿り着いた。
もしかしたら見立てが間違っているかもしれない。
ただ、可能性としてはかなり大きい。
(だとしたら、、)
腹が立つな、と大人げないとは思いつつ薮本先生はそう思った。
誰よりも拓海の剣道に於ける成長を考え、半年前から休みの日を使ってまでこの日の為に猛特訓を重ねてきたからこそ、年齢差や立場など考えず、面の下で静かに、薮本先生は烈火の如く怒りを沸かせた。
判定勝ちでは面白くない。
ここは、必ず時間内に一本を取って終わらせる。
拓海の不調を探る為に割いていた思考を勝ち筋を探る事に全て使う。
そうする事によって拓海の動きがより見えて、たまに打ち込まれていた隙も激減した。
───バッ!!
「一本!!」
薮本先生の側を示す赤旗が審判の生徒によって上げられる。
圧倒的強さを誇る拓海が成す術なく破れた事に、体育館内は湧いた。
喜びの意味ではなく、驚きの意味を含んで。
「先生、、?」
本来であれば勝敗が決まった瞬間に元の位置に戻り次が始めるのが模擬戦のルールなのだが、薮本先生は一本を取った後自分の位置には戻らずに、戻って構え直そうとする拓海の下へと歩みよった。
「拓海。お前にとって私は集中力を欠いた状態で相手出来るような相手か?今まで圧倒してきた者のように、取るに足らぬ存在か?」
「───ッ!」
上手く隠せていると思っていた。いつもとそこまで変わらない実力を発揮出来ていると思っていた。
拓海は、自身の集中力の欠如が早々に見破られた事に面の下で驚きを見せた。
「そう思うのであれば、私はお前の剣道へ対する真摯な姿勢を見誤っていた。早々に五本先取して、いつも通りの練習メニューに戻そう」
ルール外の行動に所在なさげに視線を彷徨わせる審判。
薮本先生が何を言っているのか気になり聞き耳を立てる野次馬。
がっかりした気持ちとこの挑発で少しでもやる気を出してくれたらという淡い気持ちを持って踵を返した薮本先生の背には、そんな混沌を孕んだ場の視線の全てが注がれた。
(この半年は何だったんだ)
継続する苛立ちを噛み締め拓海と向き合った薮本先生は、猛特訓の日々を振り返り、悔恨の念に駆られた。
宣言通り、早々に終わらせてしまおう。
もう動きは読み切った。
あの程度の動きであれば、あと四本程度なら体力的にも余裕があるだろう。
そう考えて、立ち上がり、先程と同じように気合いの声を───
「一本!!!」
「───ッ!!」
声を出し切る前に踏み込んで来た拓海の面に驚き防いだ薮本先生の胴は、試合開始5秒も経たずに打ち込まれていた。
あまりの速さに目を凝らしていた審判以外は状況を把握するのに暫くの時間を要した。
それは、負かされた薮本先生も同じくだった。
「先生すみません。忠告いただいたおかげで、集中力を持ち直す事が出来ました。残り、お願いします」
「ああ」
呆然と、拓海の言葉に頷いた。
絶対に先手は打ってこないだろうと、集中力が一気に増す事はないだろうと薮本先生が油断していたのは確かだった。
ただそれでも、あまりにも鮮やかな動き、流れ。
まるで動きを予め読まれていたかのような──
(そうか。集中力が欠如していたとはいえ、動きを見る事はしていたんだな)
まだまだ驕りがあったなと薮本先生は反省した。
それと同時に煽られた拓海はあそこまでの良い動きをするのだと自身の真摯ではない行動を棚に上げて嬉しくなった。
あまり褒められた行動ではないが、危うい試合の時は煽る事も視野に入れたほうがいいかもしれない。
そう頭の隅で考えて、先程の驕りを捨てつつ拓海と向かいあった。
(生徒の成長は喜ばしいが、そう簡単にやられるわけにもいかない。無駄な思考はそぎ落として、反応速度を上げて──)
決着がつくまでの四戦。
薮本先生は久し振りの真剣な試合を全力で楽しんだ。
今はまだ負けない。だが止まらず早々に越えて行け。
そんな想いを込めて。
「あー悔しかったなあ、、」
いつもより少し短縮された授業、放課後の部活を終えた帰路。
今日何度目かの台詞を拓海は吐いた。
「いやでも二本目のあれ凄かったぞ。先手も打てるんだな拓海」
「確かに。今まで見た中で一番綺麗な一本やなかった?」
「ほんとにな」
時間を経ても褪せない朝練の一幕を、悔しがる拓海を挟んで葵と遥が熱く語り合う。
「あの時の先生絶対面白い表情してたよな、笑 一瞬でいいから面外してほしかったな」
「あれ?遥あの時模擬戦中やなかった?負けてばっかやのに余所見したらあかんやん」
「今日は一敗だけだよ今日は!!!!」
その一敗こそ拓海と薮本先生の一本目で葵の忠告通り余所見した事で取られた一本なのだが、そんな事は棚に上げて噛みついた。
噛みつかれた葵も実は一敗していたのだが、そんな事は棚に上げて続けて遥をいじるのだった。
「僕は5敗、、、」
「「あっ」」
拓海を挟んでお互いをいじりあっていた二人は、ぼそりと呟かれた一言で気まずそうな表情を浮かべた。
相手は先生とはいえ、負けた回数は確かに5回。
二人の5倍。
久しい負けに、拓海は大会まで引き摺ってしまうのではないかという程落ち込んでしまっていた。
「だ、大丈夫やって。ほら、相手は5段の先生やし?部員相手は全勝やったやん。落ち込まんで?」
「葵の言う通りだぞ!それに、一本取れただけでも凄いだろ」
イメージトレーニングをせずに自分の理想通りの展開で取れたあの一本は、拓海にとってもとても喜ばしいもので、確かにあの瞬間は自分は凄いのかもしれないと思っていた。
ただ、その後の4連敗が拓海の自信を打ち砕き、落ち込ませた。
お互い一本を取らないまま制限時間を迎えれば、一戦ごとに判定で勝ち負けを決めるのだが、4敗の内判定となったのは最後の一戦のみ。
それ以外の試合は全て薮本先生が誰も文句の付けようのない綺麗な決着をつけた。
勿論、対策を立ててカウンターを打ち込むのが主な戦術の拓海は試合を重ねる毎に動きを捉えていって、徐々に実力差は埋まっていっていたのだが、久しく味わっていない敗北の感覚はあまりにも重く圧し掛かった。
怪我が治っていて集中力もここ最近で一番高かったという点も、言い分けの出来なさを如実に表していて、より敗北を重くしている。
「あの後もう一回5本先取でしたら、勝ちよったんやない?」
「多分、、」
最後の一本。
判定負けにはなったが、拓海自身多少の手応えは感じていた。
次はどうか分からないが、その次からは負けない。
そんな手応えを。
「でも結局六戦もして一回しか勝ててないからあんまり言い訳も出来ないや、、」
良い経験にはなったと思うけど、と拓海は思ってない様子で続けた。
経験値としては良い物を得られた。
ただ、だからといって敗北の感触をすぐに受け入れられるかというとそういうわけではない。
だから、拓海は終わってから今まで、次があれば絶対に負けないように対薮本先生用のイメージトレーニングを続けていた。
当の本人は体力作りが間に合ってない状態で無理をし過ぎたと、数日後の自分を憂いて後悔している真っ最中で、次戦の事など考える余裕を持ってはいないのだが。
「そ、そういえば一戦目終わった後なんて言われたんだ?」
冷や汗を掻いていそうな顔で、遥が重苦しい空気を打破する為にそう尋ねた。
「そうそう。負け残ってる人らのが煩くて聞こえんかったんよね」
よくやった!と言わんばかりに葵も同調する。
顔を合わせば言い合いをしている二人だというのに、こういう時の息の合い方は目を見張るものがある。
いや、いつも言い合いをしているからとも言えるからかもしれない。
「集中力が切れてる状態で戦えると思ってるのか?っていうのと、うーん。細かく覚えてるわけじゃないけど、剣道に対する真摯な気持ちを見誤ってたみたいな事言われた」
腕を組んで上を見上げながら、イメージトレーニングに割いていた頭の要領を振り返りに使い、薮本先生の言葉を思い出す。
「こわ、、」
「薮本先生って煽るんやね」
「煽る?」
「「え?」」
・・・。
三人の間に微妙な空気が流れた。
疑問を投げかけられた葵がまるで間違った発言をしているかのような空気だ。
「煽られたの気付いてないのか、、?」
「悲しそうな呆れたような感じだったから、単純に反省して申し訳ないって思っただけだったけど、、」
「まじか、、、」
「それでようあの二戦目の動き出来たね」
確かに、と遥が同調する。
薮本先生が大人げない行動だと恥じていたあの煽りは拓海には届いておらず、ただ純粋に額面通りに発言を受け止めて反省していた。
「尊敬してる先生で、きっと僕の事を心配してくれて模擬戦しようって声掛けてくれたと思ったから、そんな相手に集中力の欠けた状態で戦ってたのかって思ったら罪悪感が酷くて、、。期待に応える為には何とか一本取らないとって思ったんだよ」
「拓海らしいっちゃ拓海らしいか」
おそらく、剣道部の誰が聞いても煽られていると感じる発言だったのだが、拓海の真っすぐ過ぎる優しさを中学の頃から知っている遥は、そこまで驚く事もなく、驚愕の事実を受け止めた。
「そのままいけるかもって思ったら負けちゃったけどね。薮本先生凄いなって思った反面、やっぱり悔しかったよ」
最後の四戦も、薮本先生からすればどちらに軍配が上がってもおかしくないもので、辛うじて対戦経験の多さが生きて勝てたのだが、それを知ったとしても拓海は悔しがる事をやめなかっただろう。
それだけ、剣道に対する想いは強く、真摯であるから。
そこに、葵への告白の為の勇気を蓄える為という理由と、自分の剣道をしている姿を好きだと言ってくれる葵にカッコイイ姿を見せたいという想いが乗っていたとしても。
「明後日の大会までに振り切れそう?」
「難しいかも、、」
葵の問い掛けに、拓海は自信無さげに苦笑いした。
いざ試合が始まれば集中力を高められてしまう拓海だったが、この時ばかりは自信が持てなかった。
「やったら明日ついてくる?」
「明日?」
「あー、確かオープンキャンパスだったよな葵」
「第一志望のね」
大会前やから誘うの遠慮しよったけど、息抜きにどう?と葵は続けた。
拓海の志望校候補にも入りよったしね確か。と付け足す。
「え!行きたい!!」
先程までの暗雲はどこへやら。
拓海の表情は一気に晴れ、葵の提案を受け入れた。
ただ純粋に嬉しかった気持ちと、オープンキャンパスくらいで大事な大会前に怪我をするような事はないだろうという気持ちが重なったから。
葵からの誘いであれば、余程の理由が無ければ志望校でなくても付いて行きたいなと思った拓海だったが、流石に引かれるかもしれないと口に出すのはやめておいた。
「遥は別のとこやけど近いし、終わったら合流しよ」
「そうだな。多分昼過ぎくらいに終わる」
「わかった。二人で迎えに行くし連絡して」
「りょーかい」
お昼過ぎまで葵と二人、、。
明日の事を想像して呆ける拓海を放置して、葵と遥が時間を確認し合って予定を組み立てる。
誘ってくれた要因やただのオープンキャンパスという事は拓海の頭になく、ただ明日葵と二人で出掛けられるという事実が心を高揚感で包んだ。
どんな服着ていこうと考える拓海が制服で行かないといけないと気付いたのは、夜中に葵からオープンキャンパスの資料の画像が送られてきてからだった。
「楽しみだなあ」
帰宅後、寝る準備を終えた拓海が、明日行く大学のホームページを見て頬を緩ませた。
明日向かうのは、偏差値65の国立大学。
剣道が出来る、もしくは剣道場が近くにあるという理由で他の志望校を選んだ拓海だったが、この大学に関してだけは葵が志望しているという理由だけで自分も候補に入れた。
剣道サークルはないし近くに剣道場は無い。
それでも、葵と一緒に大学生活を送れるかもしれないというその一点だけで、候補に入れていた。
だからこそ、葵の誘いに拓海は諸手を挙げて喜んだ。
葵が通うかもしれないという事以外に大学自体に興味が無さ過ぎて、誘われるまでオープンキャンパスがあるという事すら知らなかったが。
「、、、予習しとこう」
何も知らな過ぎる事に不安を覚えた拓海は、ベットから降りて勉強机に向かい、卓上ライトを点けてノートを開いた。
進路希望を出す際に買ったそのノートには拓海の志望校の情報がページ毎にずらりと書かれている。
軽く他の志望校に目移りしつつもパラパラとページを捲り、白紙のページの左上に明日向かう大学の名前を書いた。
それだけで妄想が広がってにやけてしまうのだから、拓海に対する葵の影響力は計り知れないものがある。
「経済、、心理、、。この二つぐらいかな」
学部一覧を見て、拓海は希望する学部を赤字で書き込んだ。
経済は自分が剣道場を開いた時の経営用に。
心理は人間の心理を分かるようになりたいから。
細かく調べて知れば知る程、興味のなかったはずの大学に興味が出てきて、結局二時間近くかけて予習を完了させた。
予習が終わる頃には大学自体への興味と葵と一緒に通えるかもしれないという興味が相まって興奮を高め、朝練の時の悔しさからくる落ち込みは思考の彼方へと飛んで行ってしまっていた。
その代わり、収まる事のない昂りによって中々入眠出来ずに寝不足で翌日を迎えるというデメリットを得たのだが、楽しみな気持ちが湧き続ける拓海にとってはどうでもいい事なのだった。
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