潮風も届かない場所で

李涼透悟

潮風も届かない場所で

 12時のチャイムが街に響く。松井はゆっくりと椅子に座る。背もたれに体を預けると錆びたパイプがキシキシと音を立てる。そうか、お前も俺と同じで年だよな。

 そう考えて自分の今までの生き方について思いを巡らせてみた。宮城の片田舎で育ち、大学で法律の勉強をした後にすぐに弁護士に。その後キャリアを積み、伴侶も見つけ、普通の生活を送るにはほぼ苦労しないようなお金を稼いだ。そして弁護士としての生活を終えた後は地元に戻り、今は小さな探偵事務所をやっている。だが、実際人からの探偵依頼なんてほとんどない。

 普通なのか、そうじゃないのか分からない生涯だな。そう考えながら眠りに入ろうとした瞬間、誰かがドアをノックする音が聞こえた。松井は目をこすりながらドアへと向かう。どうせいつもの買い物終わりの佐藤さんだろう。そう思いながら開けたドアの先にいたのは、痩せこけた姿をした一人の老人だった。松井は拍子抜けしたような表情を隠せないままに、その老人の姿を眺めた。

 もう色素ももうすべて抜けきってしまったような白髪の頭。長袖を着ていても分かる細い腕。いつかったのか当の本人でさえ分からないであろうほどにぼろぼろになった靴。少なくとも、この辺りに住んでいる人間ではなかった。

 その老人と目が合いながら気まずい何とも言えない時間が続く。こちらから何か話さなければと口を開こうとしたとき、老人の口が開いた。

「あの…探偵さんなんですよね」

 とても、弱々しい声であった。

 ほとんど忘れかけていた自分の役職をふっと思い出した。いそいで繕い、事務所の中へと案内する。入り口からお客さん用の椅子まで、数歩しかないような距離でもすり足気味にゆっくり歩いている様子を見ると、もう見た目以上の年齢をしているように思えた。

「ご用件は何でしょうか」

 ぎこちない笑顔で応答をする。その老人は震えた手をポケットにいれ、そこからもう色もあせ、ぼろぼろになった一枚の写真を取り出した。

「ここが…どこか教えてほしいんです」

 その写真を受け取り、破れないように丁寧にハンカチの上に置く。しわになっているだけでなく、少しぬれているのでふと気を抜けばすぐに破れてしまいそうだった。

「ここ…ですか」

 老人は、一切表情を変えずに黙って首を縦に振った。

 手渡された写真を慎重に覗く。その写真には、青空と海に映える一人の少女の笑顔があった。

「この写真を撮られたのは、貴方ですか?」

「はい。でも生憎、どこで撮ったのかをあんまり覚えていなくて…」

「そうですか。じゃあ、思い出せるようにお手伝いいたしますね」

 松井の堅い表情が消え、柔らかい口調で言いながら写真をのぞく。一見すればただのありふれた砂浜だった。その中から必死にヒントを探し出す。そして写真のなかに、海の方に幾つか小島があるのが見えた。

「これ、もしかしたら桑山海岸の所じゃないですかね。この島とか、かなり似てるんで」

 恐る恐る聞くと、老人の顔はすぐに明るくなった。どうやら、その写真の記憶と場所の記憶がつながってくれたらしい。

「ああ、もう本当にありがとうございます。」

 椅子を立ち、深々と礼をしながら老人が言う。そして、そこから立ち去ろうとした小さな背中を松井は呼び止めた。

「もしよかったら、そこまで一緒に行きませんか?」

 その老人はあっけにとられた顔をしていた。だが、すぐに優しく笑いながら首を縦に振った。

 車に誰かを乗せるのはかなり慣れている。特に、この手のお客さんならなおさらだ。窓を開け、風をあびながらやけに新築の多い海岸線の道を走る。

「聞いてなかったんですけど、お客さんお名前はなんていうんですか」

 老人は質問に答えず、車内にアスファルトを転がるタイヤの音だけが響く。

「あの・・・実は名乗っちゃ行けないって言われているんですよ」

 気まずそうに老人が答える。またしばらく言葉のない、ただタイヤの音だけが聞こえる空間が続いた。ただ、ミラーに映る松井の顔は笑っていた。確信に満ちた顔だ。

「じゃあ、前来たのは10年くらい前ですかね」

「まあ、はい。だから10年くらい前の街なら何となく覚えてるんですよ」

「となると、はっきり覚えてるのは3月の10日あたりまでですよね」

 松井がそう聞くと、その老人の顔色がはっきりと変わった。

「やっぱり、分かりますか?」

 彼は、笑いながら嘘がばれた子供のような笑顔をして言った

「そりゃ、今まで何回もそういう関連の依頼受けてきましたから。この時期増えるんですよ。そっちの世界からのご依頼。知らないですけど、僕結構そっちで評判らしいですね」

「そうなんですか。てっきり、始めにあったときすごく驚かれてたから間違えたかなと思ったんですけども…」

「ああ、あれはすいません。基本、うち来るの若い人が多いんですよ。少なくとも、僕より年上の人が来たんでびっくりしちゃって」

「そういうことですか。そりゃ、年甲斐のないことをしてしまいましたかね…」

「いやいや、全然そんなことないですよ。もう一回、あの頃の記憶が残る場所に行きたいって思うのは、こっちの世界でもみんな思いますよ」

 互いが互いの本当の「姿」を知ったとき、まるで二人は旧友のように語り合った。この年月の間の出来事について、すこしずつ変わった街の姿について、それでも変わらない心の奥にあるものについて。そして、互いが失った大切な物について。時間を忘れながら話しているうちに、カーナビのゴールマークと現在地点のマークが重なった。

 車の脇にそびえ立つ高く無機質なコンクリートの防潮堤。ゆっくりとその老人の手を引いて階段を上る。やがて堤防の上に立って何一つあの写真と変わらない、青く澄んだ海の空の光景だった。

 いやあ、本当に綺麗ですね

「…せっかくでしたら、お孫さんのところまで行かれませんか?」

 老人は笑みを浮かべ、そして呟くような声で答えた。

「いや、そんな贅沢なんてできませんよ」

「そんなこといわずに」と返したかった。だが、これは一つの約束を破った「人間」の持つ良心と諦観なのだろう。

 そう思い、こちらも笑いながら何も答えなかった。

 そのまま二人は黙って海を眺め続けていた。その時間は、限りなく永遠に近いように思えた。

 やがて、少し強い風が二人の間を吹き抜けた。松井がメガネについた塵を払おうと縁に指をかけたとき、その老人は口を開いた。

「じゃあ、そろそろ行きます。本当に今日は、有り難うございました」

 その声はあまりにも耳に優しくで、甘美的だった。

 あっけにとられながら老人の方を見る。しかし既にもう老人はおらず、彼が立っていたはずのコンクリートには水たまりができ、その上にはしわくちゃになった一枚の写真があった。

 カモメの鳴き声と波音だけが聞こえる場所で、松井はため息をつき、笑みを浮かべながら写真を拾い上げた。そして、これ以上決して形が崩れてしまわぬよう、大事に両手で挟んで防潮堤の階段を降りた。まるでその姿は、小さな子供が宝物を家にもちかえるかのように。

 階段を降り、ざくざくと砂を踏み、松井はゆっくりと波打ち際へ歩く。そして、革靴の先が少しぬれる場所にしゃがみ、その手を開いた。

「仕事が終わったら、借りた物は返さなくちゃいけないんですよ。」

 まるで誰かに言い聞かせるような声でささやきながら、その写真を砂浜に、小さな波が手を伸ばしに来る場所に静かに置いた。

 3月のまだ冷たい波がその写真をさらうと、やがてその写真は海に流れ、波間に浮かび、そしてちりぢりになって溶けた。松井はその光景を見届け、その場所を跡にした。

 高いコンクリートの壁にあり、滅多に人も訪れないその砂浜にまたしばらくの静寂が訪れるのだった。








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潮風も届かない場所で 李涼透悟 @rityo_kurokuma27

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