第3話 疑惑

 逃げるように小役人が琅玕の別邸を去ってのち。

 琅玕は紫翠をにわか助手に仕立て、傍らで絵師に遺体のびょう(デッサン)をさせながら、二日をかけて黒焦げ焼死体2体をひたすら切り刻み続けた。

 さらにその翌日になって、琅玕と紫翠はようやく別邸の外へ出た。服装を整え、先触れを出し、紫翠の実家へと挨拶に出向いたのである。

 火災からは四日ほども経過してしまっている。その間、琅玕は紫翠を一度も家へ帰していない(それでも人をやって、事の次第だけは伝えてあったが)。それどころか役所仕事も完全にさぼらせて(自分もだが)手元に置き続けた。全く無茶な真似をしたものだ。

 紫翠の実家の当主、彼の歳の離れた異母兄という人物は、己の弟が、思いもよらぬなりゆきで政府高官の目に留まった事に、肝を潰して慌てふためいていたという。

 無理もない事で、さらには、琅玕が、

 ―――弟御をただちに正式な妾としてわが別邸に迎えたい、いずれ彼が子を産むことがあれば実家・共家の跡取りとして医学を学ばせたい。云々。

 との希望を聞いて、驚愕と同時に欣喜雀躍。それはまあ、なにしろ国主の一族、および歴史ある医の名家と縁戚になれるわけであるから、こんな幸運はそうそうない。

 そんなわけで、紫翠はさらにその翌日、火災から五日経ってから、ようやく役人稼業に復帰した。      

 




 が、その日の夕刻――と言うにはまだ日も高い時分に、なにやら、困惑とも苦笑ともつかぬ妙な表情をぶら下げて、別邸へと戻ってきた。

「可能なかぎり閣下のお世話を優先いたせ、職務ばかりにかまけていてはいかぬ、などと言われてしまいまして」

 姑でもあるまいに、くだんの小役人――紫翠の直接の上司は、勝手にその辺りを忖度そんたくし、紫翠の勤務時間を減らして、普段よりだいぶ早いうちに帰宅させてしまったという。さすがの紫翠も、上官の命にそう露骨に逆らうわけにはいかず、言われるまま、馬鹿馬鹿しいのを我慢して大人しく帰ってくるしかなかったようだ。

「まあ丁度ようございますゆえ、あそこの掃除をしていてもよろしゅうございますか」

「構わぬが、暇だな、お前も」

 好きにしろ、と琅玕。まだ出会って幾日も経たぬはずが、なにやら既に幾星霜いくせいそうを重ねた熟年夫婦にでもなったような気がせぬでもない。

 紫翠が言う「あそこ」とは、琅玕の書斎のことである。

 琅玕以外、余人は原則、立ち入り禁止であった。入室を許されたのは実に紫翠が初めてであるというが、

 ―――泥棒にでも入られたのでございますか。

 一歩足を踏み入れたその瞬間にそう言ってしまったほど、派手にとっ散らかっていた。

 使用人たちは入ることを赦されておらぬため、これまでは掃除は琅玕が自分でしていた。

「独創的な才能をお持ちのかたは、えてして日頃の生活能力は壊滅的なものと話に聞いたことがありますが、本当でございますねえ」

 ゆうの支度が整うまでの間、そんなことをつぶやきながら、紫翠は書斎の掃除にいそしみはじめた。

 なぜか、琅玕も付き合わされているのだが、

「おい、俺は、一体なにをすればよいのだ」

 手を動かすのはもっぱら紫翠ひとりで、ときおり、これをどこに仕舞しまえば良いのかとか、高いところにあるものを取ってくれだとか、あれとそれはどこに片付けたので覚えておいてくれだとか、そんなことを聞かれるだけで、琅玕はなにもすることがない。

「それでも、この書斎をお使いになるのは閣下なのですから、居て下さらねば困ります。私がどこに何を片付けたかぐらいは覚えておいてくださいまし」

 そんなことをいちいち覚えていられるような自信は皆無だったが、仕方がない。真っ先に片付けさせた書き物机に陣取り、手持ち無沙汰に先日解剖した焼死体二体の所見しょけん記録などめくっている琅玕であった。

 今朝、琅玕は紫翠に、この所見の写しを持たせて登庁させたのだが、

「他の役人どもの反応は、どうだった」

「はあ、誠に残念ではございますが」

 誰も真面目に読んだ様子はございませぬ、と申し訳なさげな紫翠。

「どうせそんなこったろうと思っていたさ」

 琅玕も、驚かない。

 たとえ市中に変死体が出たとしても、この頃はまだ、ことさら解剖が義務づけられているわけではなく、そんな必要性を説く者すら(琅玕以外には)いないのが現状であった。世間に、解剖を手がける医者の存在からして極めてめずらしく、今回はたまたま琅玕自身が関係者であったから、わざわざ義務付けられてもいない解剖所見を提出するなど、完全にこちらの余計なお世話でしたことでしかない。

「どうせ、焼け死んだうちのひとりがたまたま、うちの従僕でなかったら、捜査すら最初からされずに終わっておったに違いない。単なる失火による火災、焼死で済まされていたに決まっている。被害者の主人の俺が高官だったからそうもゆかず、捜査継続されておるのはただの体面にすぎぬ」

 安月給の下っ端役人どもは、わざわざ面倒を背負い込んで自分の仕事を増やすほど仕事熱心ではない。体面のためだけに続いているような捜査だから、どうせそのうち大した収穫もなく終了、『破落戸が、狼藉あるいは金銭目的で高官邸づとめの者をかどわかしたは良いが、身代金を要求する前に火災に遭って共に焼死した』という既定路線のままで終わってしまう、というか、役人どもはそのように手っ取り早く終わらせたいに違いない。

 琅玕は、破落戸ふたりの解剖の結果を、

 ―――被害者はふたりともに、死因は焼死にあらず。

 所見に、そのように書いた。

 役人どもの大方は、黒焦げ遺体の死因は純然たる焼死と思っているはずで、だから解剖所見を真面目に読めばさぞかし驚くはずなのだが、なにも言ってこないからにはなるほど、誰もきちんと読んでおらぬ証左であろう。

 ―――こう・気道・肺に火傷もなく、灰やすす等も見当たらず。

 炎に巻かれて死ねば当然、死の間際に煙や熱風を吸い込む。ひと息吸うごとにのどが油煙混じりの炎風で焼かれてふくれ上がり、気道がふさがれて息ができず気を失う。場合によってはそのまま窒息死する。身体が炎に焼かれるのは、その後である。

 が、琅玕が今回切り刻んだ遺体は、二体どちらも、喉も肺も火傷の形跡が一切なく、鼻毛も焦げず、灰も煤も検出されていない。

 さらには、

 ―――炭化のうすき部位の皮膚にも火傷・ぶくれの跡なし。

 息ができずに気を失った後、焼け死ぬのが早いか、それとも窒息死するのが早いかは状況による。ただ、失神状態で焼かれた場合は「生きたまま」身体が焼かれるわけで、その場合、肌には火傷、水疱すいほうなどができる。しかし窒息死、あるいは他の要因で死んだあと、つまり身体が死体になってから焼かれた場合は、そういうものが出来ない。

「生きた身体と死んだ身体では、同じ火に焼かれるでも残る痕跡に違いがあるのだ。切り身にした肉を炉にかけて焼いても火傷は出来ぬであろう?」

 今度の遺体は黒焦げではあったが、内腿うちもものあたりにごくわずかに焼け残りの皮膚が見つかって、その部分は、

「まさしく、そのへんの肉屋で買ってきた皮付き肉をこんがり焼いたような状態だった」

 のだそうだ。

 そして前述の通り、鼻にも喉にも肺にも、火傷もなければ灰や煤も見当たらず、

「火事による窒息死ではない。炎のなかで、呼吸をしたという形跡そのものが最初からないのだ」

 ―――火事の起こる前、すでに死亡せしものと思われる。

 琅玕は、遺体の臓器という臓器を、それこそ向こうが透けて見えるほど薄切りにしてみたり、胃の腑の中で半分消化されかかった食いものを丹念に調べてみたり、遺体の喉にぎんかんざしをつっこんだりめしかたまりを押し込んだり、挙句、なんのつもりかその飯塊をにわとりに食わせたりと、

(これは、もはや解剖ですらないのでは)

 紫翠ですら、そう思いたくなるような意味のわからぬ奇行に及んだ挙句、

 ―――死因は特定に至らず、なれどおそらく毒死。胃中に山菜料理の残骸ざんがいあり、毒性植物の誤食にあらずやと。

 そのため、死亡場所はかならずしも宿の中とはかぎらず――と所見にてそう主張していた。

 が、これも、役人どもの注意を引いた様子はない。

 焼け落ちた安宿は、提供するのは素泊まりのみ、頼めば水や茶が出る程度で、食事などは全く出さない。食ったものが死因なら、宿に入る前にどこかで食事をしたか、宿に持ち込んで食った後に死んだか、でなければ、

 ―――死後に遺体の状態で宿に運び込まれたか。

 それらのうち、どれかであろう。

「概ね、毒性植物は食してのち、症状が出て死に至るまでに、かなりの時間を要するものなのだ」

 この、症状が出るまでの時間、そして死に至るまでの時間、どのような症状が出るか、などは毒草の種類や状況によってだいぶ違う。が、胃の腑から出てきた食事の残骸はかなり消化が進んでおり、毒草の種類の特定までは不可能だったという。

 ―――従って、女将その他の証言を疑う事にはじまり、死亡せし破落戸ふたりの生前および火災直前の動向を可能な限り詳細に調査すべし。

 当人たちがどのような経緯をたどってあの宿に入ったか、いつどこで山菜料理を食ったのか、そしてそれらが自分の意思でなされたことなのか、そもそも本当に誤食なのか、騙されるなり脅されるなりして強引に食わされたものではないか、等々、そういった疑問は少し考えればいくらでも出てくる。

 さらに言うなら遺体というものは死因にかかわらず、凍らせる、土に埋めておくなどすれば腐敗が遅れる。うじも湧きにくくなり、遺体の変質をとどめておくことが可能だとかで、つまり死後の時間経過を誤魔化すことも、やろうと思えば出来ぬこともない。

 そういった時間的な偽装がなかったと仮定するなら、遺体の状態から言って、死の直後、すぐに炎に焼かれたと思われるが、

 ―――たとえばたれぞが女将や他の客に嘘をつかせ、すでに死んでいた遺体を運び込んで焼死のように見せかける意図などあるやもしれず。

 そう言った事情も考えられ、ゆえに焼死者とされる破落戸ふたりの死の直前の動向を詳細に調査すべし、と琅玕は所見にてそう主張していたのだった。

「そこまで解剖医が口を出すべきことではないかも知れぬが、可能性を指摘しておく手間を惜しむべきではないと思ってな」

「おっしゃる通りと私も思いますが、読む方が、閣下の示唆しさなされたことに注目しないのでは、仕方がございませぬ」

「俺とても、この火事と焼死事件そのものにそこまで興味を惹かれておるわけではないのだが」

 しかし己の出した解剖の結果が注目すらされず、誤った死因のまま真相究明されずに終わるのは業腹ごうはらだ、と言って琅玕は腐った。

「そもそも俺の解剖した焼死体二体、あれが本当にまちがいなく、女将のそう証言した顔馴染みの破落戸たちである、と決定的に特定されておるわけですらないのだからな」

 たとえば、安宿の玄関口を通って入っていったのち、何らかの方法で別人との入れ替わりがなかったとは言い切れぬ。火災当日はほかにも大勢の宿泊客がいた。周囲の目を盗み、その中の誰ぞと入れ替わるのは難しくあるまい。宿帳なども焼けてしまっているし、よしんば残っていたとしても細工は可能であろうし、宿の玄関口でない場所から逃げ出すことも当然可能であろう。女将はじめ、目撃者や周辺人物の証言も、どこまであてになるかわからぬ。前述の通り、たれぞに脅されるなり買収されるなりしていない、という保証はないのである。 

「焼死体は黒焦げだからな。勿論、人相など判らぬ。髪の色だの肌の色なども当然、焼けてしまっているから、これも不明。健康状態や栄養状態などは世辞にも良いとは言えず、いかにもその日暮らしの破落戸らしくはあったが、それだけでどこの誰と言えるようなものではなし、要するにこの場合、解剖だけでは身元の特定は出来ぬ」

「しかしそれでは、御一緒に焼死したとされる当家の従僕殿も、かならずしも本人ほんにんとは言えぬのではございませんか」

「ああ、良いところに気づいたな、そのとおりだ」

 俺がしつこく王仁礼の遺体を解剖させろと要求しているのはそのためだ、と琅玕。

 なにしろ、解剖を許された破落戸ふたりですら、琅玕に言わせれば「身元の確定に至らず」という塩梅なのであるから、解剖許可の出なかった最後のひとりが王仁礼であるという物的証拠は、ただ制服の燃え残りの切れ端ひとつでしかない。

「うちの制服は、よそに持ち出しを禁じてはいるものの、だからといって流出せぬという保証はないからな」

 ちなみに王仁礼とされる遺体は、すでに葬儀をあげたうえ埋葬されてしまっている。

 琅玕は、ともかくも雇主やといぬしとして式に参列したのだが、例の解剖依頼の一件のおかげで、喪主である彼の母からだいぶしつこく嫌味を言われたとやら。

「あれでは今後も解剖は許されまいなあ」

「まだ諦めていない閣下も大概だと思いますが」

 さすがに少し呆れた様子で、紫翠は片付けに戻った。琅玕はそれでも、あの母親には早く機嫌を治して貰わねば困る、腐敗が進んでしまった後では元も子もない、身元の特定には至らぬかもしれぬがそれでもしないよりましだ、などとしつこくぶつぶつ言っている。

 そんな、捜査進捗しんちょくとも雑談ともつかぬ話をするうち。

「紫翠、どうかしたか」

 琅玕の馬鹿話(?)に相槌を打っていた紫翠が、急に静かになった。

 見れば、なにやらその場に棒立ちになり、手に紙束を握りしめて凝視している。

「なんだ、ずいぶん昔の解剖所見だな」

 紫翠が、食いいるようなかおで見つめていたのは、解剖された遺体を描いたびょう

 「閣下、これは、一体どなたですか」

 

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