きみに恋をした医薬師のお話 2
「……ダ。ナイーダ・ブェノスティーっ!」
おい、聞いているのか?と、遠慮なくドカッと隣に座り込む存在にようやく気がついたのか、彼女は顔を上げ、柔らかい笑みを浮かべた。
その造形は、どんな彫刻よりも美しい。
「ああ、チナン。こんばんは」
また夢中になってしまっていた、と苦笑しながら彼女は腰まである長く美しい黒髪をかき上げる。左耳に輝く、赤いピアスがキラリと光るその姿に、今日もまた俺は目を奪われる。
「こんばんは、じゃない。もう何時だと思っている? いくら熱心とはいえ、おまえが体を壊したら元も子もないんだぞ?」
この人もこの人だ。
さすがは『孤高の怪物チナン』と呼ばれた男だ。
全く動じることなく机いっぱいに散らばった、暗号に近い文字をたくさん書き込まれた紙切れを一枚つかみ上げ、ぶっきらぼうに言い放つ。
「医薬師の卵のおまえが……」
そしてギロッと鋭くなったその瞳になぜか俺だけ飛び上がった。
もともと彼は目つきの悪い先輩医薬師ではあるが、こうして故意に睨まれたりするとさらにすごみが増す。きっとここに他の医薬師の卵がいたら半分くらいは金縛りにあっていたはずだ。普通は彼の怒りを買わないようにする。しかし彼女は違った。
平然とした表情を浮かべ、伸びをすると清々しい顔で笑った。
「昼間はそこの男に邪魔されるので……」
告げ口をした俺への当てつけだろうか。
チナンの鋭い眼差しが俺を捉えて身動きがどれなくなる。か、勘弁してくれっ!
「だからって何もこんな時間まで残ることはない。医薬師は体が資本だ。それに、さっきも言ったが、医薬師のおまえが倒れたら、そんな人間の作った薬など、誰も使わんぞ?」
その言葉一つ一つがまさに的確で、余裕綽々だったナイーダと呼ばれる彼女もそのとおりです、と答えざるを得なくなっている。
そろそろ引き上げた方がいいと言っているのになかなか聞いてくれないから彼女の師匠であるチナンに声をかけたのだが、眼の前の様子を見るに、やりすぎてしまったたかもしれないと罪悪感が湧き上がってくる。
「あ、あの……俺……」
「報告を聞く。手短に言え」
対してチナンはそんなこと全く気にしない様子で目の前に広がる赤い付箋が山のように貼られた資料を手に取り、珍しく興味を持ったように、パラリとめくった。
そこには一言、『呪いの森』と記されていた。
それは、ナイーダが先月自身の研究課題にと選んだものである。
「『呪いの森』のデータか? 一体何に使うつもりだ。これは全て、女性の患者の記録しか載っていないが……」
「はい。俺の今度の課題のテーマは、それについて行おうと思っていて……」
「『呪いの森』でか?」
少し意外だった、というように彼はナイーダに目をやった。
それもそのはず、その『呪いの森』とは、彼らの住む、イディアーノ国の北東に位置する場所にある森なのであるが、名前の通り本当に呪われているらしく、不気味な噂が後を絶たない。
たとえば、あの森に入った『女性』ばかりがなぜかすぐに意識を失ってしまうというのは有名な話であり、調査結果も残されているという。
「疑問に思うことがあるんです」
「ん?」
言うと同時に目を輝かせ、別の資料を一枚一枚楽しそうにめくり、それをかざすナイーダに、チナンは驚いたように目を見張っていた。
「その疑問、聞かせてくれ」
試すように資料とナイーダを交互に見たチナンに、ナイーダは嬉しそうに笑った。
ナイーダもわかったのだ。
孤高の怪物の医薬師としてのスイッチが入れられたということを。
(あーあ……)
いつもの光景なんだけど、すごいなぁ、とだけ思って、話に入っていけない俺は、ただぼんやりとその光景を眺めていた。
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