第17話 思いの力
開け放たれた網戸の向こう側からは、犬が吠える喧しい声が聞こえてきたが、二人が打ち付けた乾杯の音が、それを痛快に打ち消してくれる。
サイダーの入ったコップを片手に、奈緒は嬉しそうに笑っていた。
「おつかれ、一樹君! 本当によく頑張ったね」
「お、おお……ありがとう」
一樹もまたコーラの注がれたコップを片手に、礼を告げる。目の前のちゃぶ台にはオードブルの数々やピザ、ケーキといった、いつもより豪華な昼飯が並んでいる。
どれもスーパーで取り急ぎ買い揃えたものだが、それでも即席の“祝賀会”としては、大したものだ。
「いやぁ、約5カ月かぁ。短かったようで、長かったようで、不思議な感覚だよぉ」
「そうだなぁ。思えば、もう奈緒と会ってから半年くらいは経つんだな。そんな短い間に、色々とやったもんだ」
春先の図書館で、奈緒に偶然原稿を読まれてしまった日のことを思い出す。あの偶然がなければ、今頃こうして自宅の狭いアパートで、彼女と“祝賀会”など行うこともなかったのだろう。
奈緒は嬉しそうに何度も頷く。
「だねぇ。“幽霊”の情報を探して街中駆け巡ったり、ヤバいのに追いかけられたり……でも今じゃあ全部、いい思い出だねぇ、うん」
勝手に納得し、彼女は手にしたサイダーを一気に飲み干した後、「かぁー!」と声を上げた。
――おっさんか。
砕けた彼女の姿に肩の力が抜けつつ、変わらないその姿にはただ素直に安堵してしまう。一樹もコーラを飲み込み、喉を伝わる心地いい刺激を堪能した。
約半年――一樹はその間も“ゴーストライター”として、女優名義の作品「ラブ&ゴースト」を書き続けていた。
だが一方で、合間を縫って着実に“調査”を行い、その内容を反映した自身の作品も同時並行で作り上げていったのだ。
そして先日、ついにその“自作小説”を書き終えることができたのである。この豪華な即席ランチは、その労をねぎらうためのものだったというわけだ。
食事に舌鼓を打ちつつ、様々な思い出話に花を咲かせる二人。半年というわずかな時間の中に、実に多くの喜怒哀楽があったことに、喋りながらもなんだかため息が漏れてしまう。
ソーダをお代わりした後、奈緒は笑いながら告げた。
「それにしても、あの時は驚いたなぁ。本音を言うと“嘘でしょ”って思ったよぉ」
「え、なにが?」
「ほら、一樹君が“ゼロから書き直す”って言いだした時だよ」
言われて、一樹も「ああ」と納得する。思わずその目が、脇に置かれたノートパソコンと、その隣にどっしりと鎮座するA4用紙の束を見つめてしまった。
その“原稿”の厚みは、当初よりも遥かに分厚い。結局、予定していたよりも遥かに長編になってしまった“それ”には、今ではしっかりとタイトルが記されていた。
“
一樹は“図書館の幽霊”こと、
当初、それを告げた時の奈緒のあんぐりとした驚き顔を、今でもしっかりと覚えている。本人の前で再現すると「絶対やってないよ」と怒るのも、なんとも滑稽だった。
「俺も、最後まで迷ったんだけどね。だけど、最初書いていた“幽霊”が悪いもの――っていう物語が、なんだか納得できなくなっちゃったんだよ」
「それって、やっぱり小春さん達の件があったから?」
「ああ。もちろん、世の中には“怖い幽霊”ってのは、いるんだと思う。前に館で追い掛け回されたみたいな“悪霊”だっているんだろう。だけど小春さんみたいに――“純粋な思い”でそこにとどまっている存在もいる。そう思うと、あれから随分と“幽霊”ってものの見方が、変わった気がしてね」
一樹の思いを、ちゃぶ台を挟んで座る奈緒はじっくりと受け止めてくれる。こちらを見つめる純朴な眼差しが、どうにもほっとしてしまう。
「“幽霊”だから倒す――そういうのはちょっと、違うと思ったんだ。だからいっそ、話の方向性自体を変えちゃおうと思ってさ」
「なるほどぉ。そんな背景があったんだね」
「ああ。いっそのこと主人公ごと変えて、作品の雰囲気をガラッと変えちゃった方が、書きやすかったんだよね」
「そっかぁ、それなら納得だよ。でも、ちゃんと前のキャラクターも残してくれたから、一安心しちゃった。私、“バキン”が消えたら、どうしようかと――」
相変わらず、彼女は“バキン”なるサブキャラクターが好きなようで、心の底からほっとしていたようだ。大きなリアクションで嬉しそうに語る彼女を見ると、作者である一樹としてはなんだか報われた気がしてしまう。
“
それは全て、この数ヶ月で一樹と奈緒が体験してきたことを詰め込んだ、“幽霊”という非現実的な存在の“リアリティ”を詰め込んだ物語である。
一樹自身、未だに不安は残っていた。毎日毎日、何度も書き上げた原稿を見直しては、細かい表現を変えたりセリフを手直ししたりと、少しずつ追記、修正を繰り返してしまう。
だがそれが、“満足”のいく出来になることは、未来永劫ありえないのだと理解していた。
どれだけ完成度を上げようが、あくまで作品の出来を決めるのが自分ではなく“読者”であるのだから、一樹が気になっている箇所が正しいか否かも、誰かに読んでもらう以外に答えが出るわけでもないのだ。
奈緒も畳の上に置かれた原稿の束を見つつ、嬉しそうに語る。
「私、前のストーリーも好きだったんだけど、今のストーリーも良いなって思うよ。なんていうか、“一樹君っぽい”っていうかさぁ」
「なんだ、そりゃあ。俺っぽいって、なんかよく分からないな……」
「まぁ、“味”ってやつだよ。だから前よりもずっと、良いものになったと思う! いやぁ、楽しみだね。もしコンテスト受賞したら、あの女優に一泡吹かせられるねっ」
「そうなったら嬉しいけどなぁ。でも、最初からうまくはいかないかもだから、気長に待つさ」
賞賛してくれる彼女に、一樹もなんだか嬉しくなってしまう。
思い返せば、元々は「ラブ&ゴースト」という代筆作品を自身の実力で堂々とねじ伏せるために、始めたことだった。
大女優・
これはきっと、“幽霊”として代筆を続ける“自分”に打ち勝つための戦いだったのだろう。どちらも混じり気のない自分自身であるだけに、なんとも一樹は妙な気分になってしまう。
はたして、この作品が一樹の望む“復讐”を果たしてくれるのか。物騒な言葉とは裏腹に、狭いアパートの一室を包む空気は終始、和やかだった。
吉と出るか凶と出るか、それはいまだに分からない。ただそれでも、一樹は一つのことをやり遂げた“達成感”に、今だけは素直に酔いしれようと思う。
相変わらず、祝い酒のようにサイダーをあおり、無邪気な笑顔を浮かべる奈緒。その姿はまさに、無垢な子供のそれだった。
「でも本当に嬉しいよ。一樹君がやり遂げてくれたこともだし、私も一緒に“幽霊”について、色々なことを知ることができたからね。怖い思いもしたけど、それでも一樹君と一緒に頑張れて、楽しかった!」
重ね重ね、“不思議な女性”だと思う。思えば奈緒の人生にとっては、一樹の小説が賞をとるかどうかは、そう大きな意味はなさないはずなのだ。
だというのに、どうしてここまで純粋に、素朴に、一樹の“生き方”に寄り添おうとしてくれるのか。
その意図するところは分からないままだ。それでも一樹は、無邪気に笑う彼女を見ていると、心が温かくなってしまう。
それはあの時――図書館で“彼女”が見せた、あの暖かさに似ていた。
笑いあい、馬鹿を言いあう二人の隣で、書き上げた物語――“
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