第8話 来訪者:バイク事故――①
山道を照らすのは月明かりだけだった。
冷たい風の音はバイクの駆動音にかき消され、周囲を囲む森のざわめきさえ耳に入らない。青年の乗る黒いバイクはただひたすら山道の合間のアスファルトをカーブしながら進んでいく。
青年の名は松下敏雄。大学二年生だ。
気ままな大学の寮生ではあったが、一日中煙草と麻雀に明け暮れる他の寮生たちと違い、外へ出ることを好んだ。二年前、浪人中にとった免許で念願のバイクを手に入れてからというもの、こうして一人で旅行を楽しむことに全力を尽くしていた。今回は少しの遠出のつもりがずいぶんと時間がかかってしまった。おかげでこんな夜中に山道を下る羽目になっている。
しかし、町中では体験できない走りはずいぶんと心地良かった。興奮に満ちたまま、急なカーブにもスピードを抑えきらないまま曲がる。ギリギリでカーブを通過するスリルが心を躍らせる。吹き抜ける冷気も気にならないほどだった。降り積もった雪はとっくに解けて、隅の方で白く固まっているだけで、春の予感さえある。なにごとにも終わりが来るように、敏雄はこの冒険にもいつか終わりがくることを惜しんでさえいた。前を阻むものはなにもない。次のカーブもスピードをそのままにして走らせた。
――まずい。
凍結した地面を滑る車体。
次の瞬間にはもうガードレールの隙間にバイクごと突っ込んでいた。体が浮くような感覚。スローモーションのように景色が流れていく。バイクごと崖下に放り出されたあとは、縦横無尽に生えた木々の中に突っ込んでいった。木々が衣服を切り裂いていく痛みを感じながら、意識ごと暗い闇の中へと落ちていった。
*
敏雄が微睡みから目覚めたとき、何か重みのあるものが自分の上に乗っていると思った。
――……なんだ?
そいつは胸の上を我が物顔で通り過ぎていく。にゃあん、という声。なんとか目を開ける。顔を覗き込んでいる猫と目があった。
「うおっ、なんだこいつっ」
布団をはねのけると、猫はしなやかな動きで一斉に降りていった。数匹、開いたドアの向こうへと走り去っていく。見た事の無い猫だ。そもそも敏雄は猫なんか飼っていない。
なんだか頭が痛い。体もあちこち痛かった。
よく見ればここは見慣れた自分の家でもない。慌ててここがどこなのか記憶を呼び覚ます。
――どこだここは!?
すっかり見慣れた寮の部屋でもなければ、兄弟と一緒だった窮屈な実家の部屋でもない。
どこかの部屋のようだが、まったく記憶にない。
クリーム色の壁紙に、落ち着いた茶色の腰壁が使われていた。見慣れない西洋風の作りであることはわかる。ぐるりと見回してみても、部屋の中にあるものはベッドの他にはこれまた西洋風だがシンプルな洋服ダンスだけ。ホテルにしても物がなさ過ぎる。微かに寒さを感じて窓の外を見ようとすると、真っ暗だった。雪でも降っているのか風の音がしている。
自分はベッドに寝かされていて、隣に置かれたテーブルにはヘルメットと荷物があった。荷物もヘルメットも確かに自分のものだが、あちこちに傷がついて少し凹んでいる。見ていると、記憶が次第に蘇ってきた。
山道を走っていて、凍結した地面で滑ったのだ。ガードレールの隙間から転がり落ちたところまで鮮明に覚えている。
――そうだ、夢じゃない。俺は事故で、崖下に落ちたはずだ……!
不意に部屋のドアが大きく開いた。最後の猫と入れ違いに男が入ってきた。
「あ、起きたか」
やや無愛想に声をかけてきたのは、灰色の髪の若い男だった。髪は一部だけ黒い色のメッシュが入っている。黒灰色のスーツに、その上から濃紺色の外套を羽織っている。極めつけにその瞳は金色で、あきらかに日本人ではない。
「だれだあんた……、あー、えーと、コンニーチハ? じゃなくて、ハロー?」
「落ち着け、ちゃんと聞こえてるはずだろ」
男はあきれたように言った。確かに落ち着いて聞いてみれば、ちゃんと日本語だ。
「な、なんだ、日本語しゃべれるのかよ。驚かせやがって」
いまの言動が恥ずかしくなってくる。非難するように言い捨ててやったが、男はまったく意に介していなかった。
「それで、記憶の方はどうだ。自分が誰で、何があったかわかるか?」
男は近寄ってきながら、自分のこめかみあたりを突く。
「……そうだ、俺はバイクで事故って……!」
「名前も覚えているか?」
「ばっちりだ。俺は松下敏雄だ。忘れるわけないだろ」
「ふん。そうかよ」
どことなく面白くなさそうに男は言った。
その反応に僅かにムッとする。何か言う前に男が口を挟んだ。
「まあいい。動けるか? お仲間が会いたがっていたぞ。案内してやる」
「なんだって? お仲間?」
「それとも……」
「いや、動ける!」
聞きたいことは山ほどあった。
立とうとするとギシギシと関節が痛んだが、動けないほどではなかった。軽く腕を動かして、健康体であることをアピールしてやるが、男はこれといった反応を示さなかった。
目の前の男はどうにも気に食わなかったが、「お仲間」も気になる。もしかしたら、自分を発見してここへ連れてきた人間がいるのかもしれない。それなら、きちんと礼ぐらいはしないといけないと思ったのだ。
廊下に出ると、確かに案内は必要だと気付いた。
この家――家というより屋敷――のなかは想像以上に広かった。廊下は深紅のカーペットが敷かれて、落ち着いた洋風の通路になっていた。家というには大きすぎる。テレビの中か、ホテルでしか見ないような広さだ。見た目は落ち着いているが、敏雄は落ち着かなかった。気になることがたくさんありすぎる。
「そういえば、俺のバイクを見なかったかっ?」
「バイク?」
「そうだ。俺の近くに転がってたはずだ。車体にオレンジ色が入ってるバイク」
ああ、と男は思い出した。
「お前の乗り物だったら、いまはガレージだ。昨日からカナリアが……、修理できるやつが走れるようになるまで修理してる。いまチェックだかチューンナップだかしてるはずだ」
「本当か!? というか、昨日だと!? まさか、俺は一日中寝てたのか?」
「そうだが」
「なんてこった……。そ、それじゃあ、電話は? せめて連絡しないと……」
「……持ってないのか?」
「電話なんざどうやって持ち歩くんだよ! こっちが聞いてるんだ、電話は無いのかって!」
「……。電話は無い」
敏雄は呆気にとられた。いくら田舎とはいえ、いまどき電話のひとつも無いとは。そもそもバイクのガレージはあるのに電話はないとはどういう了見だ。
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