懺悔樹
* * *
新興住宅地には、宅地にしきれなかった雑木林などが残存しがちである。
街外れにある森林地帯もそのひとつだった。
ろくに整地もされていない足場の悪い場所に、わざわざ立ち入る者はいない。
だがその女性は嬉々とした表情で、木々が連なる薄暗い空間の中に入っていった。
誰も知らないのだ。
ここが素敵な場所であることを。
その女性だけが知っている、特別なものがこの森にはある。
サァ、サァ、と葉音と一緒に聞こえてくるものがあった。
──オイデ、オイデ、コッチニオイデ?
とても、とても優しい声色に導かれて、女性はウットリとした表情で森の深部に歩を進める。
──オイデ、オイデ、コッチニハ甘イ蜜ガアルヨ?
鼻孔を刺激する甘ったるい香り。
ああ、これだ。
この匂いがたまらない。
嗅ぐだけでとても幸せな気持ちになれる。
いつも抱えている悩みが、バカらしくなってくるほどに。
──オイデ、オイデ、コッチダヨ?
女性は森の最も深い場所に辿り着く。
そこには一本だけ異様に大きい樹木がある。
甘い香りは、その巨木から香っている。
女性は恍惚とした顔で巨木に身を預ける。
……すると、頭上から蜜のように粘度の強い液体が、ドロドロと垂れ流れてくる。
──サァ、蜜ヲタント、オ飲ミ? 辛イコトナンテ、スグニ忘レラレルヨ?
巨木から分泌される樹液を、女性は躊躇うこともなく口をつけた。
途方もない多幸感が胸に広がる。
ああ、幸せだ。こんなにおいしい蜜を味わえる自分は、なんて幸せなんだろう。
ここで、ずっと蜜を吸っていたい。
もう日常に帰りたくない。
だって、辛いことしかないのだから。
──マタ、悲シイコトガアッタンダネ? 聞カセテ? 辛イコト、苦シイコト、全部打チ明ケテゴラン?
自分の味方はこの木だけだ。
誰にも話せない悩みも、この木だけは受け止めてくれる。
女性は蜜を舐めながら、心の中で思いの丈をぶちまける。
些細な失敗で、また人に迷惑をかけてしまったこと。
そんな自分が情けなくてしょうがない。
いつまでも人並みのことすらできない自分が嫌いでしょうがない。
そんなことを打ち明ける。
──君ハ、悪クナイ。一生懸命、ヤッテイルジャナイカ。君ハ、偉イ。誰ヨリモ、偉イ。
木はそんな女性の独白を、すべて肯定してくれる。
そうすることで女性は満ち足りた気持ちになる。
──サァ、モット打チ明ケテゴラン。心ヲ、軽クスルタメニ。
数日前から、女性はこうしてこの場所で懺悔をしている。
ずっと、ずっと心の中で抱えてきた後悔や罪悪感を、木に対して打ち明けているのだった。
幼い頃、親しい友人が虐められていても助けることもせず、他人のフリをしたこと。
どうしても欲しいものがあって、親の財布からこっそりお金を抜き取ったこと。
父のお気に入りだった模型を壊してしまって、妹に罪をなすりつけたこと。
気になる男子に恋人がすでにいることがショックのあまり、その女の子の悪い噂を捏造して流したこと。
友人たちと一緒に行きたかった志望校に自分だけが受からなかった悔しさのあまり、露骨に素っ気なく振る舞って縁を切ったこと。
その他にも、河にゴミを捨てたこと。拾った札束を警察に届けなかったこと。未成年なのに飲酒をしたこと。
ずっと胸の中で燻っていたわだかまりを、女性は木に向けて話してきた。
そのたびに木は、女性を憐れみ、その苦しみを受け入れてくれた。
幸せだった。
もう、人の世界になんて、戻りたくない。
ここでずっと、この木と一緒に暮らしていたい。
だって、だって、もう本当に、耐えられないのだ。
罪の意識に。
とても、とても、抱えきれない。
──……マダ、アルンダネ? 本当ノ、後悔ガ?
そう。
まだ、あるのだ。
自分の人生で、最も罪深いといえる所業。
──教エテ? 教エテ? 何ガ、苦シイノ?
ああ、だが、あのことまで打ち明けてしまったら……歯止めが効かなくなって、本当に日常に戻れなくなってしまう。
──許スヨ? 全部、全部、受ケ入レテアゲル。
「あ」
蜜が降り注ぐ。
女性は満面の笑みで、蜜を啜る。
……ああ、もう、いいや。
全部、全部、話してしまおう。
「……赤ん坊ができたの。でも……『おろせ』って言われちゃった。産みたかったのに……ああ、許して。ごめんなさい。産んであげられなくて。ダメな母親で、ごめんなさい……」
産まれるはずだった尊い命を、相手の身勝手な要望で手放した。
その罪悪感が、ずっと女性を苦しめていた。
余所の赤ん坊の泣き声が聞こえるたび、女性は震え上がった。
まるで自分の愚かな行為を、赤ん坊に非難されているように感じてしまった。
夜に幻聴を聞くこともある。どうして産んでくれなかったの? と恨みがましい声で赤ん坊が囁くのだ。
ああ、辛い。苦しい。重い。この罪の重さに耐えられない。
解放されたい。この罪悪感から。
──ジャア、終ワリニシヨウカ?
終わり?
いったい何を?
木が囁く。
とても甘ったるく、蜜のように粘つく声色で。
──ヤメヨウ? 『ヒト』デアルコトヲ。
木々がざわつく。
巨木の周りに生える樹木がざわざわと騒がしく葉音を鳴らす。
……女性には聞こえる。それが『笑い声』のように。
きゃははは、と楽しそうに木々が笑っている。
……だって、ほら。あそこの木なんて、とっても嬉しそうな顔で笑って……。
(……顔?)
女性は気づく。
どの木にも、顔がある。
ヒトの顔が。
あっちにも。こっちにも。どの顔も、嬉しそうで、幸せそうで、満面の笑みを浮かべている。見ているこっちが羨ましくなるほどに。
──オイデ? アナタモ、コッチニ、オイデ?
──仲間ニナロウ? モウ、苦シマナクテ、ヨクナルヨ?
──ヤメヨウ? 『ヒト』ナンテ、ヤメヨウ? 本当ノ幸セハ、ココニアルヨ?
木々が囁く。
樹液が降り注ぐ。
気づけば、女性は衣服を脱ぎ捨て、生まれたままの姿となっていた。
……そうだ。
簡単なことだった。
やめてしまえば、良かったんだ。
こんな辛い思いをする生き物であることを捨てて……。
自分も『木』になればいいんだ。
巨木の枝が伸びる。
まるで蛇のように蠢いて、女性の体に巻き付く。
──サァ……オイデ? コノ中ニ入ッテオイデ? ソウスレバ、永遠ニ幸セニナレルヨ?
巨木の一部がピシッと音を立ててひび割れる。
僅かにできた隙間が……グパァと口が開くように広がる。
樹液を滴らせる大きな空洞ができた。
人間がスッポリと収まりそうな穴の中に、女性は引き寄せられる。
──オイデ? オイデオイデオイデ……『木』ニナロウ? 『ヒト』ヲヤメヨウ? 罪ノ意識ナンテ忘レヨウ……安ラギハココニアル……ダカラ……イタダキマァス!
「させない」
紅色の一閃が、枝を断ち斬る。
巨木の口の中に捕食されそうになっていた女性の身柄を、寸前のところで救い出す。
……霊装『紅糸繰』の形態のひとつ、紅色の大鎌『三日月』を握る、ルカであった。
「アイシャ! お願い!」
「わかっていますわ!」
救出した女性をルカはアイシャの元へ届ける。
アイシャが女性を受け止めるのを確認すると、ルカはすぐさま巨木から距離を取り、霊装を構えた。
「アイシャ、その女の人の様態は?」
ルカは巨木に警戒しつつ、霊視で女性の体を調べているアイシャに尋ねる。
「命に別状はありませんわ。……ただ長期間に及んで、この謎の液体を摂取していたようですわね。治療霊術で取り除かないと、危険かもしれないですわ」
「わかった……どちらにせよ、コイツを倒してからの話だね」
「ええ。どうやら、向こうは、わたくしたちを逃がす気がないようですわ」
巨木から軋む音が鳴り響く。怒りを示すように、地響きが起こる。
──邪魔ヲ、スルナ……!
土から木の根が隆起する。
その先端はまるで槍のように鋭く尖っていた。
無数の枝が周辺を覆う。
ルカとアイシャは、すでに囲まれていた。
「……主よ。この女性に加護を」
アイシャがロザリオを握って祈ると、女性の周りに光が生じ、ガラス細工のような壁ができあがる。
怪異の攻撃から身を守る小型の結界であった。
小一時間であれば、どんな怪異もこの結界には手を出せない。
女性の安全を確保すると、アイシャもルカの隣に並び、巨木を睨めつけた。
「木霊の一種ですわね。それも特定の地に根を張らない、寄生型の木霊とお見受けしますわ」
「機関の要警戒リストに載っていたやつだと思う。確か名前は……『
機関から渡された資料の内容をルカは思い出す。
懺悔樹。
木に寄生し、そのまま森林全体を浸食する凶悪な木霊の一種。
罪悪感を抱える人間を標的にして誘い込み、最終的に己の養分として捕食するという。
この怪異の厄介なところは、拠点を転々とする習性があること。特定の地に留まってしまったら、いずれ人間に狩られることがわかっているからである。
懺悔樹は充分に栄養を蓄えたら森林全体のエネルギーをすべて回収し、花粉となって飛び交う。
そうして次なる寄生先を見つけ、捕食を繰り返すのだ。
存在自体は確認されていたものの、発見が困難であることから長らく討伐されていなかった怪異の一体である。
ルカの説明を聞いて、アイシャは不快感を顔に出す。
「悪趣味ですわね。人の罪の意識につけ込んで利用するだなんて……許しがたいですわ」
アイシャの敵意に反応してか、懺悔樹はより凶悪な姿に変質していく。
──オ前タチモ……取リ込ンデヤル……森ノ、一部トナレ!
巨木が流動体のように波打つ。
ギョロリと巨大な眼球が出現し、少女たちを睨めつける。
空洞から鋭い牙が生え、荒い息を吐き出す。
変質は周りの木々にも起こっていた。
──ヤメロ……コノ安ラギヲ壊スナ!
──邪魔スルナラ、許サナイ!
──オイデヨ……君タチモ、コッチ側ニ!
人の輪郭を象った樹木が枝を鋭く伸ばし、いまにも串刺しにせんと迫ってくる。
人間が樹木に変質した存在かと思ったが……そうではない。懺悔樹が喰らった人間の残留思念が、この森の木々に宿っているのだ。
アイシャは、その様子を悲しげに見つめた。
「……人は、人として生を全うしなければなりません。人の身を手放した魂に、祝福は訪れませんわ。化け物に与えられた安らぎなど、所詮は幻です。だから……」
アイシャは首に提げたロザリオを握りしめ、覚悟を固めた眼差しを向ける。
「あなたたちの囚われた魂……わたくしが、いま解放してさしあげますわ!」
シスターとして。エクソシストとして。……そして『聖女』の称号を持つ者として。
化け物に魅入られた魂を救うべく、アイシャは己の力を解放する。
「主よ、我に聖なる力を。──顕現せよ! 『
アイシャの掛け声と同時に、ロザリオが眩い光を発する。
ロザリオに刻まれた術式が展開し、アイシャの手元にひとつの物体が形成されていく。
それは、翡翠色の巨大な十字架だった。
四本の西洋剣を組み合わせたかのような造形は、一見すると盾のようでもあり、東洋の手裏剣のようでもあり、精巧な美術品のようでもあった。
用途がまったく想像できない奇妙な武装……これこそがアイシャ・エバーグリーンの専用霊装『聖十字』であった。
中心部にある取っ手を握りしめ、身の丈よりも巨大な十字架をアイシャは構える。
「美しい自然の財産を弄くり回し、罪に苦しむ人々を惑わすその蛮行……断じて許しませんわ! 主に代わって、このアイシャ・エバーグリーンが捌きの鉄槌を降しますわ!」
十字架に霊力が宿る。
宝石のように磨き抜かれた翡翠色の十字が光を発する。
……見る者によっては、神の威光と錯覚しても不思議ではないほどに、それは美しい光景だった。
聖なる光を纏いし十字を手に、邪悪なる存在に立ち向かう華麗なる少女……。
その出で立ちは、確かに『聖女』を名乗るに相応しい清麗さと、気高さを秘めていると言えた。
「始めますわよルカ? いまこそ修行の成果を存分に見せてさしあげますわ」
「随分と余裕だね。いつもみたいに派手にやらかさないといいけど」
「同じ過ちは繰り返しませんわ。わたくしを誰だと思っていますの? ──わたくしは『ルークス聖教会』第一席エクソシスト、アイシャ・エバーグリーンですわよ!」
己の生まれ持った使命を十字に込めて、アイシャはいま好敵手と共に戦場に立つ。
「──ではお覚悟を。悔い改めるお時間ですわ!」
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