甘い芳香

   * * *




「ダイくん? どうしたの? 元気なさそうだね?」


 いつものように部室に行くと、俺の顔色を見たレンが心配そうに聞いてくる。


「ああ……なんか、朝からちょっと体が妙にダルくてさ……」


 今朝は気怠い感覚で目覚めた。

 夜更かしはせず、いつも通りの時間に横になって充分に眠ったはずだが。

 変だな? 夢見もすごく良かったはずなのに……。

 あれ? でもどんな夢だったっけ? 何だか、すごく気持ちの良い夢だったのは覚えているんだが……。


「無理はしないほうがいいよダイくん。最近タチの悪い風邪が流行ってるみたいだから。ほら、ルカとか完全にひいちゃってるし」

「ぐしゅぐしゅ。お鼻が詰まっててお菓子の味がわかんにゃいよぉ……」

「ああ……ルカのは、なんというか自業自得だから」


 だからあれほど下着姿で自撮り写真を撮りまくるんじゃないと言ったのに。

 そりゃ風邪もひくわ。


「こうなると、ルカが治るまでは当面依頼は引き受けられないな」

「え? なんで?」

「ルカって体調悪くなると霊力も弱まっちゃうんだよ。この状態だと簡単な除霊も難しくなるな」


 ルカの能力は体調面に左右されやすい。

 風邪などひいた場合、まるで鼻づまりのように霊視や怪異の気配を察知するのも難しくなる。


「あと、一度病気になると甘えんぼモードになって全体的にポンコツ化してしまうんだ」

「ダイキ~。だっこ~。頭よちよちして~」

「あら、ほんと。心なしかルカが二頭身サイズに見えてきたよ」

「ああ、俺は『チビルカ』と呼んでいる」


 コアラのように引っ付いて甘えてくるルカの頭をよしよしと撫でる。

 幼児退行するあまり体格までデフォルメ化したように錯覚するが、もちろん錯覚は錯覚なので絵面としては相当アレな光景である。


「ほら、チビルカちゃん。ダイくん今日は具合悪いみたいだからあんまり負担かけないの。こっちでレンお姉さんと遊びましょうね~?」

「や~。ダイキがいいの~」

「え? やだ、この状態のルカ超かわいいんだけど。食べちゃいたい……」

「ぴぃ!? ダイキぃたちゅけて。ルカ食べられる~」

「はいはい。あんまりその状態のルカを脅かさないでね部長様……」


 とりあえず甘えんぼモードになってしまったルカはレンに任せといて、俺は少しソファーに横になるか。

 休み時間の合間に眠ってはいたが……どうにも気怠さが取れない。

 俺も風邪気味かな?


「ふわぁ……」

「あれ? スズナちゃんもお疲れ気味?」

「あっ、す、すみません。はしたないところを見せてしまって」


 あくびをしているところを見られたスズナちゃんが顔を赤くする。


「……やっぱり、具合良くないんじゃないか? 昨日も急に倒れたし」

「いえ、体調面は問題ないのですが……少々、刺激的な夢を見てしまったもので。あまり眠れていないんです」

「夢? どんな?」

「そ、そんなこと口にできません! と、とてもはしたない内容ですから……はう」


 そう言ってスズナちゃんはリンゴのように赤くなった顔を手で覆い隠した。


「あれ? スズちゃん、香水つけた? 何かいい香りするよ?」


 ルカを抱えてやってきたレンが、鼻をスンスンとしながら言う。


「香水、ですか? いえ、つけてないですけど……」

「そう? でも凄くいい香りするけどな~。ルカもそう思うでしょ?」

「ずびび。鼻詰まってるからわかんにゃい……へっぷち!」

「あらら、大きな鼻水。はい、チビルカちゃん。チーンしまちょうね~」

「チ~ン!」


 香り……。

 そういえば、部室に入ったときにもお菓子とは異なる甘い香りがしたような……。

 その香りは心無しか、スズナちゃんから香ってくるような気がした。

 どこか嗅いだような気がする。

 どこでだっけ?

 なんか、凄く素敵なことしているときに嗅いだ気がするんだけど……。


「……ふふ」


 ん? いま、誰が笑ったんだ?

 聞き覚えのないような声だったけど。

 ……ああ、ダメだ。頭がボーっとしてきた。


「……ねえ、ダイくん? ちょっと本当に大丈夫? 顔色すごく悪いよ? 保健室行く?」

「保健室……ダイキと保健室……ルカも行く~」

「こらこら、保健室で何する気かなチビルカちゃん。……冗談はさておき、ダイくん本当に無理しないほうが……」

「ああ、そうだな。今日はもう帰って休むよ……」


 鞄を取ってノロノロと歩く。

 参ったな。足取りまでおぼつかない。


「ちょっとちょっと、ダイくんフラフラじゃん! 一人で大丈夫? 親御さんに電話して迎えに来てもらったほうが……」

「ダメだ。親は町内会の温泉旅行に行ってて、今はいないんだ」


 俺の様子を見て慌ててレンが心配してくるが、頼りになる両親はすでに家に不在である。


「あ、でしたらダイキさん! 私が送っていきます。ばあやに電話して車をすぐに呼びますから」


 そう言ってスズナちゃんが素早く送迎の車を手配してくれた。

 ……ここは素直にお言葉に甘えるとしよう。

 何だろう? あの香りを嗅いでから、どんどん力が落ちていくような気がする……。




   * * *




「……ダイキさん? ダイキさん、つきましたよ?」

「え? あ?」


 気づいたら高級車の座り心地の良い椅子の上で眠っていたようだ。

 車はすでに俺の家の前に到着していた。


「さあ、ダイキさん。私の肩に腕を回してください。部屋までお連れしますから」

「あ、ああ……ありがとうスズナちゃん」


 女の子に体を支えられるのは少し気恥ずかしいが、いまは文句を言っていられない。

 スズナちゃんと一緒に車から降りて、玄関に向かう。


「あ、それと……橘さん。私の荷物は玄関まで運んでください。あとは自分でやりますので」


 橘さんという運転手のメイドさんは、スズナちゃんの指示に従って何かしらの大荷物を玄関に置いた。

 彼女は深くお辞儀をして「ではお嬢様。ごゆるりとお楽しみください」と意味深な笑みを浮かべると車を発進させて去っていった。

 ……って。あれ?


「え? 運転手さん、帰っちゃったぞ? 帰りどうするんだスズナちゃん?」

「ご心配なく。迎えは明日の朝に来るように言ってありますから」

「明日の朝? それってどういう……」

「具合の悪いダイキさんを一人きりにするわけにはいきませんから。ですので! 今日はスズナがつきっきりでダイキさんのお世話をしてさしあげます!」

「はい?」


 スズナちゃんはニコリと無垢な笑顔を向けて、とんでもないことを言いだした。


「不束者ですが、一日ご厄介になります♪ うふふ♪ スズナに何でも言ってくださいね?」

「え、ええ~?」


 かくして、とつぜんスズナちゃんがお泊まりすることになった。

 しかも両親が不在の俺の家で。

 ……え? まずくないかい、それは?


「……本当に、何でも、おっしゃってくださいね。ふふふ……」


 玄関の扉が閉じられる。

 また、あのいい香りが鼻孔を突いた気がした。

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