初めての舞踏会

 わたくし、宮まつりが、初めて競技ダンスなるものに遭遇したのは、大学の入学式後の、舞踊系部活動とサークルの新歓デモでのことだった。


 私は友達になったばかりの川本彩綾さあや、通称さーやんと一緒に、講堂で行われるというその新歓デモを見に行くことにした。


 さーやんと私は同じ社会学部で、私は茨城出身、さーやんは群馬出身。ただ上京したいがために、過酷な受験戦争を勝ち抜いた北関東の田舎者という共通項で意気投合し、さらに憧れのキャンパスライフの拠点をサークルに置きたいという点でも一致した。受付でもらったパンフレットには、何やら楽しげな魅惑の世界が広がっている。


 ヒップホップ愛好会、ジャズダンス同好会、フラメンコ研究会、ベリーダンス愛好会、日本舞踊研究会、フラダンス同好会、そして舞踏研究会。


 ダンス踊れたら格好いいよね、とさーやんは黒目がちの瞳を輝かせた。私も東京で暮らしていれば、いずれ六本木のクラブなどに行くような機会もあるかもしれないし、そのときに何食わぬ顔ですっと踊れたら格好いいよなという身の丈に合わない妄想をして、さーやんと胸を高鳴らせながら講堂へ足を運んだ。


 だが新歓デモの開始五分、私たちはダンス界のキラキラ感に完全に圧倒されてしまっていた。


 判明したのは、さまざまなサークルの中からダンスを選ぶ人種というものは、皆自己顕示欲が高く、人前で踊る自信の根拠となるようなビジュアルをお持ちであるということ。次々に登場するダンサーの誰もかもが読者モデルのようなスタイルで、妖艶に腰を揺らしながら、熱い視線で私たちを誘惑してくる。


 私は身長が154cmしかないちんちくりん。さーやんはと言えば、すらりと背が高くスタイルが良いくせに根っからのオタク気質らしく、彼らの都会的な露出の高さに、怯えた子羊の目をしている。


 それでも途中退出するには気が引けて、ようやく最後の「舞踏研究会」のデモにまでいき着いた。


「――まつり。舞踏って一体何」

「舞踏――何だろう。舞踏会の舞踏?」


 私それ、小さい頃、葡萄会だと思ってた! 私も、採れたての葡萄食べ放題の――なんて盛り上がっていると、突然講堂の照明が落ちた。


 あの瞬間、私は自分の目を疑った。


 天井から暗闇を照らす、ふたつのスポットライト。その光のもとに降臨した、ふたりの人物――純白のドレスを着たシンデレラと、黒いタキシードを着た王子様。


 両目を激しく瞬かせる。――これは、映画? それとも幻覚? この方々は王族? ここはヨーロッパの宮廷?


 心が現実を離れ、ぼうっと麻痺していく。姫と王子はロマンチックに見つめ合い、互いを求め合うように片腕を伸ばした。


 まるで映画のワンシーンだった。お人形のようなきれいな顔のお姫様。だが大きく開いた背中には引き締まった筋肉がついていて、ただ守られるだけの姫ではないことが分かる。


 一方、王子は黒い髪をオールバックに撫でつけ、立襟の白いシャツに、白の蝶ネクタイ。タキシードの後ろの裾が大きくふたつに割れており、魔法にかけられたツバメが王子に変身したみたいだった。


 差し出したふたりの指先が触れる。王子は姫を引き寄せ、背中にもう片方の腕を回した。もうそのポーズだけで、最高にロマンチックだった。それなのに。


 突然、ぱっと照明が戻る。講堂にテンポのよい音楽が鳴り響いた。そのリズムに合わせ、王子の顔がパッと輝く。その後は――あまりの衝撃で、実ははっきり覚えていない。


 ふたりは目にも止まらぬスピードで、狭い舞台上をぐるぐると駆け抜け、目にも止まらぬスピードで私の心(ハート)をすっかり奪い去ってしまったのだ。


 ふたりが舞台袖に去ると、続いて露出高めの男女が色気ムンムンで登場した。そして絡みつくような大人のダンスを踊ったが、頭の中で踊り続ける筋肉質シンデレラとツバメ王子の幻影のせいで、まったく視界に入らない。


 ふと隣を見ると、さーやんもまた魂が抜けたような顔をしている。その瞬間私は、これからはじまるキャンパスライフの要が、いま決したことを知った。


 デモの最後に登場した舞踏研究会の女子部員は「この後、第二体育館地下の舞踊場で、ダンス体験会やりまーす! 是非お気軽にいらしてくださーい!」と私たちの瞳に語りかけた。こうして運命に導かれるように、私とさーやんはふらふらと舞踊場へと向かったのであった。



 第二体育館の地下へ降りると、「ダンス体験会コチラ」と書かれた何枚もの張り紙が、私たちを奥へ奥へと誘った。薄暗い廊下の先に、魅惑の園がようやく姿を現す。開かれたその扉から、賑やかな明るい光が漏れ出していた。


 さーやんと手を取り合い、遠くからそっと覗き込む。そんな私たちの姿に気づいたお姉さま方が、黄色い声を撒き散らしながら、怒涛の勢いで駆けつけた。


 そこで初めて目にした、お姉さま方の最先端ダンスファッション。私たちは早速度肝を抜かれた。


 二軍落ちした緩いTシャツ。パンツが見えそうな丈のサテンのスカート。伝線したストッキングに重ねた、毛玉の立ったレッグウォーマー。そして履き古した健康サンダル――色っぽいのか、だらしないのか、紙一重といったところだ。


「見学? 見学? さっきのデモ、見てくれた?」

「行こう行こう! 優しく教えてあげるから、ちょっと踊ってみよう!」


 両側から腕をがっしり掴まれ、あれよあれよという間に舞踊場に連行される。この方々はちょっと距離感がおかしいのではないかと、たちまち不安に襲われた。


 舞踊場の中に入ると、片側の壁の全面がガラス張り。バレリーナが練習に使うようなバーまでついている。古い大学校舎にそぐわぬ設備に少し驚いた。


「じゃあ、踊ってみよう! 今日教えるのは、ルンバね! 簡単なステップだから、すぐ踊れると思う!」


 着古したピカチュウのTシャツを着た、アイドルのような顔の先輩が、さっきからずっと一方的に喋り続けている。ピカチュウ先輩は私に返事をする間も与えず、おーい、こーたろー!と舞踊場の隅にいた男の人を呼んだ。


 その人が、ほーい、と返事をしてこっちに走ってくる。黒縁眼鏡をかけた、少し地味な感じの男の人だ。


 するとピカチュウ先輩は「じゃあ、この子、よろしく!」と私をその男の先輩に押しつけ、自分はあっという間に姿を消した。


 ピカチュウ先輩が教えてくれるんじゃないんですか!と突っ込みを入れようとした私の右手を、突然こーたろー先輩が握った。あまりの衝撃に頭が真っ白になる。


 こーたろー先輩は、なぜかシャワーを浴びた後のように髪が濡れていて、肩にフェイスタオルをかけたままだった。


「どうも、蓮見幸太郎です。よろしくねぇ。君の名前は?」


 蓮見先輩はふにゃふにゃと笑いながら、私の右手を握って離さない。


 お父さんと弟以外、男の人に手を握られたことなんていままで一度もない。高校は女子校だったし、これまで彼氏のひとりもできなかった。それなのに突然、初めて会った男の人に手を握られている。


 慌てて周りを見渡すと、さーやんも別の男性の先輩に手を握られ、目を白黒させていた。


「えっと……宮まつりです」


 どうにか名前を告げると、まつりちゃんね、オッケー、と蓮見先輩は人懐こい笑みを浮かべた。


「じゃあ俺の真似してみてね。俺が前に進んだら、まつりちゃんは後退。俺が退がったら、まつりちゃんが進めばいいの。簡単でしょ?」


 簡単でしょと言われても、意味が分からない。それよりも、手が。


「あの……手はずっと繋いでいるものなんですか?」


 おずおずとそう聞くと、蓮見先輩は少し不思議な顔をした。


「そうだよ、踊っているときは――」


 答えながら、突然はっと目を丸くする。


「ああ――そうだよねぇ。びっくりさせちゃった? 麻痺してんだよね、俺たち。そういや俺も最初、突然美人な先輩に手を握られて、美人局かよこれは、って思った! 都会っておっかないところだなって」


 蓮見先輩は懐かしそうに目を細める。それでも握った手は離さない。


 そしてようやく私は理解した。


「すぐに慣れるよ、まつりちゃんも。ここ、ちょっと特殊な世界だけど――」


 この人たちは、好きだから手を繋ぐんじゃなくて、踊るために手を繋ぐんだ。


「きっとすぐに、ダンスにはまるよ」


 蓮見先輩が右足を出す。私が左足を引く。蓮見先輩が左足を出す。私が右足を引く。


「そうそう、上手! 覚えが早いね!」


 おだてられて、もう有頂天になっている。蓮見先輩が繋いだ手からパワーを送り、私の動きを導いてくれる感覚がする。自動運転モードで、勝手に身体が動くような。


「そうそう、そこで左手を、ぱっと、開く! 上手! 完璧!」


 自分でも踊れているような気がした。言われた通りに動いているだけなのに。


「ごめんね、俺モダン人だからさ。ルンバは教えるの下手くそなんだよね。まつりちゃんは小柄だから、ラテンに向いてるかも」


 知らない単語が次々に飛び出した。きょとんとする私に、蓮見先輩は慌てて説明する。


「モダンっていうのはね、ワルツとかタンゴとか、お城の舞踏会で踊るようなやつ。スタンダードとも言うけれど、俺はそっちが専門なの。ラテンはお色気お兄さんとお姉さんが絡み合って踊るやつ」


 そうか、じゃあ私がさっき心を奪われたシンデレラとツバメ王子は、モダン人という人種なのか。蓮見先輩はそっちが専門。でも私は背が低いから、お色気向き――どういうこと?


「でも蓮見先輩は、ラテンじゃないんですね。あんまり――」


 背が高くないのに、と言いかけて、慌てて口を閉じた。これを男の人に言うのは失礼というもんだろう。


 ところが蓮見先輩は、私が呑み込んだ暴言をめざとく悟った。まつりちゃんは正直者だなぁ、とケラケラ笑う。


「さっきのデモ、見てくれた? 俺、踊ったんだけど」


 ――踊ってた? 驚いて顔を上げる。こんな人、いたっけ?


 そう思った瞬間、雷に打たれたように私は気づいた。


 目の前にいるこのお方は、超高速スピードで踊っていた、あのツバメの王子様だ。髪が濡れているのは、あのオールバックを直したせいだったのだ。


「小さくても、戦い方はあるからね。もちろん、不利なのは変わらないけど」


 舞台の上では、もっとずっと大きく見えたのだ。まさに威風堂々、あの空間すべてを支配しているようで。


 王子様というより本当は――王様みたいだと思っていたんだ。

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