午後三時、ベランダで

たかすみ

第1話 初出勤

 諦めたはずなのに、諦めなければいけなかったのに、未だに夢に見る。

 明るくて楽しい人たちに囲まれて、自分が長年やりたくて仕方がなくて憧れていた仕事に打ち込めて。


『今期もデビューおめでとうございます!』


 表舞台に出るだけで喜んでくれて、祝ってくれる人たちがいた。

 幸せだった経験だった筈なのに、今はただ重くのしかかる。


『ピピピピ……』


 電子音が簡素な部屋の中に響く。重たい瞼を開けてカーテンを開けば、まだ仄暗い外が目に飛び込んでくる。あまり良い目覚め、とは言えない。


「五時だと、こんなもんかぁ」


 ぐっと背伸びをしてから服を着替えて、昨日作っておいた味玉とおにぎりを食べる。その後は家を出る支度をして、六時丁度に家を出た。


「寒すぎる……」


 山の中かつ十二月の半ばで早朝ともなれば大分冷え込んでいる。

 古めかしい小さな駅に到着し、ぴっとICカードを使ってホームへと向かう。屋根はあれど野ざらしで、直に風に当たって手がかじかむ。


(温かい飲み物買えば良かったなぁ)


 そんな後悔をしてももう遅い。小さく息をついてからポケットに手を突っ込み電車を待つ。神奈川県とはいえ片田舎の為、電車の本数はそう多くない。

 暫くするとカンカン……という音共に踏切が降り、電車が到着する。それに乗り込んで十三分電車に揺られれば職場の最寄り駅へと到着する。


「右だったな」


 数日前に書類を提出しに行った時の記憶を頼りに職場へと歩いていく。十分も経たない内に、工場へと辿り着いた。


「あ、日比谷ひびやさんも来ましたね」


 工場の門の前に立っていたのは直属の上司である田宮たみや。恰幅が良く、人当たりの良さそうな風貌の男性だ。そんな彼の周りに、同期入社の男女が三人ほど立っていた。

 その三人もネクスト・テンプエージェンシーからの派遣社員であり、一度会ったことがある。


「おはようございます」

「あともう三名いるので、寒いですがもう少々ここでお待ちください。全員集まったら案内するので」


 しん、とした空気感の中、ぼちぼち残りの三人も集まってくる。

 全員が集合したら社員証を貰い工場内に入る。


「この工場の中で一番奥の建物が、我々の担当する業務をする場所です。似たような建物も多いしちょっと遠いんですけど、慣れればどうってことないので」


 田宮の案内を受けながら目当ての建物に到着する。まだ外ながら、ゴウンゴウンという機械の音が聞こえてきている。

 建物内に入ると、まずはそれぞれ配られた作業靴に履き替える。


「事前に聞いているかとは思いますが、我々が担当するのはインスタントカメラで使われるフィルムの製造です。作業着を着て貰うので、今から渡しますね」


 作業着を受け取れば男女で更衣室に別れ着替えを行う。そこでもまた会話は特にない。


「うん、全員着替え終わりましたね。では、今日の流れなのですが。今日は初勤務なので十七時までです。それぞれ先輩たちについてもらって、作業を見て覚えてください。今日の内容はそれだけです。気楽に挑んでください」


 前に来た時は事務所に数分いただけだったため、工場内をちゃんと歩くのは今日が初めてだ。つい辺りをキョロキョロと見渡してしまう。


「日比谷君は他の人たちと違う業務を担当してもらおうと思っていて、ちょっとこっちに。他の皆さんはまた別の場所ですので、ちょっとだけ待っていてください」


 田宮に個別で呼ばれ、後に着いて行く。

 辿り着いた場所は、パソコンが数台置いてあるだけの部屋。


「弦川君」

「あいよ」


 振り向いたのは、人相が少し悪い男性だった。ぶかぶかな作業着から見るにかなりガリガリな部類で、それなりに歳は行っていそうだ。


「事前に伝えていた新人君です」

「お。今日は十七時までなんだっけか?」

「ええ。後はお任せします」


 じゃあ頑張ってください、とだけ言い残して彼は去っていく。


「……相変わらず雑だなぁ」


 大分良い声をしている。洋画の吹き替えなんかにぴったりはまりそうな、渋いダンディーな声だ。


「弦川さん、よろしくお願いします」

弦川皓つるかわこうだ。残念だな、先生が父親くらいのおっさんで。一ヶ月は俺の元で仕事をすることんなるから、よろしく」


 OJTの担当が彼らしい。


「お前さん名前は?」

日比谷朝陽ひびやあさひです」


 まあ座んなよ、と催促され、彼の隣の椅子に座る。大分使い古されているのか、座るとキィという音がする。一応綿は入っているだろうに硬い。


「若そうだな」

「二十四です」


 ほぉ、と弦川は声を上げた。


「俺の半分しか生きてないのか」

「四十八歳なんですか」

「今年で四十九だな」


 本当に半分だった。

 中身のない会話を暫くしていると、音楽が鳴る。誰しもが聞いたことのあるクラシック音楽。


「お、終わったぞ。来な」


 別室へと連れてこられ、眼前には大きな機械。初めて見た日比谷には、何が何だかわからない。


「これは、素材を切るための機械だ。俺たちの仕事は、でけぇ部材を切り分けるのが主だ。切り分けた部材は、各台車に振り分けてくんだ。まあ細かいことは追々で良い」


彼の言う通り、大きな素材をセットしては切って終わったら運んでのサイクルでその日は終わっていった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る