第54話

 瑞樹ちゃんは数秒間表情のない目で私の瞳を覗き込んだあと、一言呟いた。


「そうですか」


 先ほどの取り乱しようから一転、この表情。まだ出会って間もないが、少しだけ彼女を理解できていたつもりだった。どうやらそれは間違いのようだ。


「あなたのお母さんを助けてあげるのは……瑞樹ちゃん、あなた自身だからね」


 文香さんは彼女の肩にそっと腕を回した。


「はい」


 大きな丸眼鏡をかけた少女は、妙に冷静な表情でコクリと頷いた。私はその光景を見てほっとした。ショッキングな光景や出来事にいちいち心が乱れるようでは、この先とても同じチームではやっていけないからだ。


「初めて会った日、お母さんの愛人について私に言ったことを覚えている?」


 文香さんが瑞樹ちゃんの肩に置いた手で彼女の頭を撫でた。


「殺して欲しい、そう言いました」

「本当にそれでいいの?」

「いいえ」


 少し困った表情を浮かべた文香さんの目をまっすぐ見据えて彼女はこういった。


「私がそいつを殺します、昨日の亡者を使って」


 文香さんは口の端を上げ、場違いと言ってもいい和やかな表情を浮かべた。


「そう」

「ちょちょちょ、ちょっと待ってください!」


 私は慌てて会話に割り込んだ。てっきりトーメフォンデを使役するのかと思っていたのだ。あの亡者を憑かせるなんて、いくら何でも危険過ぎる。


「瑞樹ちゃんが乗っ取られてもいいんですか!?」


 そう、瑞樹ちゃんが乗っ取られたら、彼女はもはやヒトではなくなってしまう……だけではない。それ以上に、ミツキに、あの怪物に対抗し得るほどの亡者だ。もし制御を失ったら、果たして文香さんでもそのツカレビトを抑えきれるかどうか。


「タイミングが早まっただけよ、それに実戦に勝る経験はないって言うじゃない。瑞樹ちゃん、いいわね」


 彼女は返事をする代わりに小さく頷いた。覚悟を決めた顔つきだ。


「あなたならきっとできる」


 文香さんは彼女の肩を力強く抱き寄せた。


(あり得ない)


 どれほど無謀なことをしようとしているか分かっているのだろうか。式神を統制下に置くには、徐々に体に憑かせ、意識を保ちながらその毒を体に馴染ませていくのが基本だ。初歩的な訓練の最中でも乗っ取られてしまうツカレビトはたくさんいる。


「それでいいの、瑞樹ちゃん?」


 文香さんへの密かな反発心からそう尋ねてみた。もちろん彼女を地獄から救い上げたのは無償の善意からではない。この子の力が必要、文香さんがそう判断したからだ。とはいえ、実の娘のように愛情を注いでいた女の子を急に崖から落とすこんなやり方には断固賛成できない。


「だって、あなたがあなたじゃなくなるかもしれないんだよ」

「私があの男を殺らなくちゃいけないんです。だから……英恵さんも絶対に手出しはしないでください」

「でも君が乗っ取られた時、その時は分かるよね」

「ええ……そうなったら躊躇せずに私を殺してください」

「そっか」


 胎の座った子だ。私は思わず大きなため息をついた。


(殺してくれだなんて、気楽に言ってくれるよね。殺されるのは私たちかもしれないっていうのに)


 母親救出作戦は、彼女の覚悟を試す試験でもあるわけか。


(惨いなあ香さん。でも流石だね)


 瑞樹ちゃんのウサギのような雰囲気の裏に隠された芯の強さを、うちのボスはとっくに見抜いていたのだろう。人を見る目がある。


(だから私を直属の部下にしてくれたんだろうな……ふふふ)


そんなしょうもない思考が頭の中をぐるぐる回っている中、マンションからゴミ袋を持った女が出てきた。季節外れの長袖を着た大柄な女は、鈴木陽介と瑞樹ちゃんのお母さんと一緒に写った女だ。私は気付かれないようそっと女を指差した。


「あの女、同居人ですよ」


 長袖を着ているのは痣を隠すためだろう。顔には傷一つない。見えない場所、隠せる箇所ばかり殴っているのだ。どうやら瑞樹ちゃんのお母さんが引っ掛かった男は、陰湿極まりない屑のようだ。


「巻き込みたくないわね。英恵、あの子にちょっとの間だけ外してもらいましょう」

「了解」


 運転席から降りて何気なしに女に近づく。そばかす顔と腫れぼったい目が特徴的な、黒々とした長く美しい髪を持つ女だった。大学生だろうか?ゴミ捨て場でまさにゴミ袋を捨てようとしている女が私の存在に気付き、軽く会釈をした。私はにっこりと笑って言った。


「ちょっとの間、眠っていてね」


 左右から側頭部と顎に素早い一撃を食らわせられた女は一言呻き声をあげ、一瞬体をくねらせた後にゆっくりと地面に倒れ込んだ。


◇◇◇

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