第45話

「き、気にするなって……嫌味っぽくなっちゃったよな。いや~、優しそうな親父さんじゃん、ミツキもすぐに懐いたしさ」

「あの人一見明るそうに見えて結構気難しいの。だからあんまり人にも好かれなくって。でもみっちゃんのことは本当に気に入ったみたい」


 和沙はミツキに向けられたカズの破顔を思い出したのか、手に拳を当てながらクスクスと笑った。どうやら和沙の親父も一筋縄ではいかないようだ。それにしても、真面目で常識のある僕を差し置いて、なぜボンクラ姉貴ばかり人に好かれるのだろう。


「チケットのご提示をされていない方。いらっしゃいますかー、お早めにバス前の……」


 さっきの運転手の声だ。もう残り15分もない。僕も腹の痛みが洒落にならなくなってきた……。


「さ、さあ、さっさとトイレ済ませちゃおう。ミツキのやつ、一人にすると何するか分らんないから」


◇◇◇


 真夏の昼。絶え間ないセミの鳴き声に時折混じるウグイスのさえずり。それ以外、本当に何も聞こえない。白い布で目隠しをされた私は、ある神社の本殿の中で一人正座をしている。いいえ、実のところ今いるここが本当に本殿なのかも分からない。文香さんが優しい手つきで白い布を巻いてくれたのは、鳥居をくぐる前だったからだ。


「あなたは今から力を手に入れるのよ。復讐も、夢も、何もかもを叶えられる力をね」


 彼女はそう言って細くて白い布を私の目に被せた。まさか、普通の人間だった頃に見た最後の光景が風で揺れる杉の木の葉だとは、この時には夢にも思わなかった。私はその時の他愛のない光景を、きっと生涯忘れないだろう。今、本殿の中に漂うこの香りのことも。


(不思議な香り……。花のような、昔のおばあちゃんの家のような、甘くて、どこか悲しい香り……)


 喋ってはいけない、動いてもいけない。ただじっとして、時が来るのを待ちなさい……文香さんは本殿から出て行く前にそう言った。呼吸以外の動作を禁じられ視界を奪われた私に唯一感じることができたのは、鼻腔が捕らえた微かな感覚だけ。文香さんが焚いたであろうお香。今までに嗅いだことがないはずなのに、懐かしさで胸が一杯になる不思議な香りだけだった。


(どれくらい時間が経ったんだろう……足が痺れてきた……)


 10分程度しか経っていないのかもしれないし、もしかしたら1時間以上経かもしれない。その間、とても心地よい、穏やかな気持ちになってもいいはずの甘い香りが漂っていたにも関わらず、ずっと胸騒ぎが収まらなかった。物音一つ聞こえないが、私は気付いてしまったのだ。


 


 太腿の上に添えた両手の甲に、時たまポタリと汗が落ちる。は、とても大きくて冷たい一粒の汗だった。鬱蒼とした森林に囲まれたその神社の境内は晩秋かと思うほどに涼しかったし、本殿の中は寒気すら感じる程だった。だから本当は汗なんて掻くはずがないのだ。でも顎を伝って落ちる冷たい汗は、私の緊張の糸が緩みかける度にひやりとした感覚で意識をこちら側に引き戻す。汗が手に落ちる度に不安と恐怖でいっぱいになる。でも……。


(でも、私はただ羊のように文香さんを信じればいい……)


 そして、は何の前触れもなく始まった。


(何…………?)


 背中に急に悪寒が走り、体中がぶるりと震えた。私の胸は騒ぎ始め、心臓の音は徐々に大きくなっていった。体が硬直し、言いようのない感覚が全身に回り始める。そして、その感覚は徐々にはっきりとした形容詞で表現できるようになった。


 その何かは、忌まわしく悍ましかった。


 きっとは正座をしている私の前でしゃがみ込み、白い布に隠された目を覗き込んでいるのだ。生暖かい吐息が顔に吹きかかり続ける。


「ひっ……」


 その生暖かい感触に私は思わず声を上げてしまった。今すぐにでもこの場所から逃げ出したい。でも、文香さんの言いつけを守らなくちゃ。するとそれは汚らわしい手で私の口を押え、もう片方のねばねばした手で私の腕や脇腹、太もも、胸、耳の裏までまさぐり始めた。体中に鳥肌が立ち、生理的な嫌悪感が体中を駆け巡る。


(こいつもケダモノ……と同じケダモノだ……!)


 は私の口の中に無理やり五本指を入れ、強い力でこじ開けていった。痛い、このままだと口裂け女になっちゃう。涙目になった私は堪えきれなくなって体を前傾させた。開きっ放しの私の口からよだれがダラダラと、目から大粒の涙がポタリポタリと滴り落ち、スカートから太腿にじわりと伝っていく。


「ぃひいいひひひひひひ」


 が発した気味の悪い笑い声で、私の心臓は止まりそうになる。


(でも耐えなきゃ……私には文香さんから託された使命、そして……叶えたい夢があるんだもの……!)


 の指の感触は、ゼリーのように変質していった。私の口から体の中に入ろうとしているのだ。


(ヒナタ君、ヒナタ君、ヒナタ君、ヒナタ君、ヒナタくん……!)


 私は図書室での大切な思い出を頭の中で何度も反芻した。彼の笑い声。古い本の香り。図書室の窓から机に差した一筋の陽光。想い人と語り合った、甘く美しいひと時。綺麗なタオルに包んで、宝箱の中に仕舞い込んだ、ヒナタ君が口をつけたコーヒーの缶。


「う、うぅううううぅう」


 体中が水が満たされたような感覚だ。苦しい、呼吸ができない。小学生の頃、川で溺れた時の苦しさを思い出した。そういえば、あの時はお父さんが慌てて飛び込んで助けてくれたんだっけ。ケダモノに変わってしまう前の、大好きだったお父さん。お母さんはその日、付きっきりで看病してくれたな。サンタクロースを無邪気に信じていた、二度と戻ることのない掛け替えのない時代。


 体中が嘘みたいに楽になっていく。恐怖で流した涙は思い出というフィルターで濾され、綺麗な水に変わっていった。体の中に妙な感覚が心地よいものに変っていく。何が何やら訳が分からないけど、きっと私は戦いに勝ったのだ。


◇◇◇

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